雨の梅

 私は蒸し暑い季節にふる雨が嫌いだ。しかし草木たちには天の恵みで、カビたちには天啓の域に達するありがたいものだろう。


 私の周りでこの時期が好きという人はひとりしかいない。私の祖母だ。


 5年前から、祖母は梅雨入りをとても楽しみにするようになった。普段はあまりテレビを見ないのに、5月になると天気予報を気にして自分からつけチャンネルをこまかくかえている。


「ばあちゃんはなんでそんなに梅雨を気にするんだ?」


「お告げがあったんよ。いつかの梅雨の日にありがたいものが降るんよ。たぶん梅……梅……」


 ありがたいものがなんなのかはいくらきいてもナゾだ。長年の夫婦として連れ添ってきた祖父を5年前に亡くしてから、祖母には認知症の症状らしいものがではじめた。だからこれもその一つだろう。灰色のよどんだ雨空と湿気は認知症の老人には良くないと思っていたが違うようだ。


 梅雨時の祖母は遠足前夜の小学生みたく期待をきらめかせ生き生きとしている。そして梅雨が明けるとしょぼくれる。それでもそのうちに「きっと来年」といくらか生気を取り戻す。今ではうちの恒例行事だ。


 今年もいよいよ梅雨入りした。祖母は「たぶん梅……たぶん今年……」とお経をあげる調子で繰り返している。


 ネチネチした陰気な雨音が窓外から聞こえてきたある夜、祖母の叫び声が私の耳に飛び込んできた。


「ついにきた! きた!」


 祖母が夜中に興奮することは一度もなかったので、これは大変だと直感しすぐに祖母の部屋に向かった。


 誰もいない。庭に面した雪見障子が開け放たれている。外へ出てしまったのだろうか。一階なので転落はないだけ安心だが。


 突然、薄暗い庭が真っ白に光った。一瞬。稲光だ。音はしない。遠くに落ちたか。


「きた!」


 雷の怒号の代わりに祖母の声がとどろいた。ありえない、アンプで増幅したような大音量。私も家具も音圧でビリビリ震えた。


 障子窓から身を乗り出しあたりを見回すと、空が光った。今度はそのままずっと明るい。しかしまぶしくはない。


「梅がきたんじゃ」


 空から祖母の声が聞こえたので見上げると、そこには丸い半透明の泡に包まれた祖母が浮かんでいた。


「ばあちゃん、ばあちゃん……」


「いままでありがとうな」


 かすかに梅の香りがする。


 祖母は段々と空高くあがっていく。楽しそうにこちらに手を振って。


 私は何もできなかった。


 私は何もできないうちに、いってしまった。


 私は何もできずに夜明けまで空を見上げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る