第19話 「ひっく、う、俺、俺……っう」
様々な障害者スポーツのイベントポスターや教室の案内が貼ってある通路を通り、十分な広さのある体育館に向かった。
ドンドンとバスケットボールの音がまず鼓膜に届いた。
次にラジカセを囲んでダンスを楽しんでいるグループの笑い声。バレーボールに勤しんでいるグループも居る。そこには障害なんて少しも気にしていない笑顔があった。
「うわ、凄い……!」
尚也が感極まった声を上げるので、唇の端が上がる。自分もこの活気には毎度元気を貰う。
「あ、バスケットゴール一つ開いとーね。あそこ使わせてもらおっか?」
車椅子を押している関係、大きく頷いた尚也の表情が見れないのが残念だった。
「車椅子バスケと普通のバスケってゴールの高さ一緒なんやって。やけん車椅子から投げても入るとは思うばってん、立って投げたかったら支えるけん言って」
「ちっと待ってて」と壁際に置いてあるキャスター付きのボールカゴを動かしに行こうとした時、先程よりも真剣味を帯びた声に呼び止められる。
「佐古川さん」
足を止め「ん?」と振り返ると、こちらを真っ直ぐに見つめてくる少年と目が合った。今までよりもずっと尚也の瞳には力があり、一瞬自分が責められているかのように錯覚してしまい、少々気圧される物があった。実際一歩後ずさってしまった。
「どうして着いて来てくれたんですか? 仕事放ってまでなんて、後で怒られるでしょうに」
逸らされる事のない瞳を向けてくる少年が言う事はもっともだ。確かに、後で正座をさせられる事をやった事には変わりない。
けれど。
「……怒られても良かけん鴻野君に笑って欲しかったからよ」
目を逸らしたら信じて貰えなくなりそうで、真っ直ぐ向けられる瞳から目を逸らす事無く返した。
「鍵っ子やった反動かいね。俺、人の笑顔ば見るの好きなんよ。人の笑顔見ただけでこげん嬉しか気持ちになれるとか最強やん。この仕事を選んだんも、……地元で働きたかったってのもあるばってん、家族に向けるみたいな対等な笑顔が見たかーって理由からやし」
この瞳の前で嘘を付いてはいけない。言葉を選びながらゆっくりと続ける。
「やからさ俺、鴻野君にも笑って欲しかってずーっと思っとったんよ。折角気持ちが乗ったあん機会ば逃すんは勿体無かすぎっ思って。やけん仕事ば投げ出した」
言っている内に恥ずかしくなって最後に「へへ」と小さく笑う。
そんな自分を前に尚也は雷に打たれたかのように固まり、暫く自分から目を逸らさなかった。
「……」
体育館に流れるダンスグループの短い音楽が始まり終わるまでの時間、尚也は口を動かさずどこか呆然としていた。その数秒後、長めの前髪が目を覆う程尚也は俯いてしまった。
心配になって鴻野君、と呼ぼうとした時――尚也の細い肩が震えている事に気が付いた。初めて見る反応に面食らい固まってしまった。
「佐古川さん…………っ」
泣いていた。尚也は泣いていたのだ。突然の事にギョッとする。
「俺、俺……っ!!」
尚也の涙はどんどん瞳から溢れ、涙が床に落ちた時のように小さな声だったのがダンスグループがぎょっとして振り返る程大きな物に変わっていった。自分も驚いている。
「う、うああぁっ!!」
いつの間にか静まり返った体育館に、まるで今までずっと燻っていた気持ちを吐き出しているかのような慟哭が響いた。
「こ、鴻野君っ。どうしたと?」
鼓膜を突き刺すような慟哭にハッとして慌てて尚也に駆け寄る。しかし尚也はこちらに顔を上げる事は無かった。
一体どうしたと言うのだろう。尚也がこのタイミングでこんなにも泣く理由が思い浮かばない。
背中に自分を非難している視線が刺さっている気がして気持ちが逸る。それも頭が真っ白になって考えが纏まらない理由だった。
「ひっく、う、俺、俺……っう」
尚也は質問に答える事なく、骨張った大きな手で顔を覆いずっと肩を震わせていた。
「鴻野君……。大丈夫、大丈夫やから」
何一つ分からない状態だが、尚也が泣き止むのが第一だ。車椅子の前でしゃがみ込み、涙でくしゃくしゃになった尚也の顔を見上げて大丈夫だと言い聞かせる。
「……ふ……」
そのかいあってか、次第に尚也の肩の震えが収まってきた。背中に感じていた視線も、今や少しも感じなかった。
「ごめんなさい、佐古川さん……っ」
落ち着いたらしい尚也の顔から覆っていた手が外される。――尚也が泣いた時と同じくらい目を見張って驚いた。
この少年は、何故だか非常に吹っ切れた顔をしていたのだ。
アニメでたまに見かける懺悔室から出てきたかのようにスッキリした顔。その顔を見てますます混乱した。
尚也は悲しくて泣いていたのでは無いのだろうか。あれだけ泣いたのだから、悲しいのだろうと思っていた。
「鴻野君……一体どうしたと? 俺、何かやっちゃったと?」
「いえ。何でもありません。ごめんなさい」
「はあ。……そっかぁ」
どんなにポジティブに考えても何も無い訳が無いと思うのだが、尚也がそう言うなら無理に聞かないでおこうと思った。
「…………ここは、みんな楽しそうですね」
流した涙を拭く事なく、ここで初めて少年は自分から視線を逸らした。体育館の様子を目元を和らげて見つめている。
尚也の視線を追うように自分も首を巡らせ、バレーボールコートのすぐ側で水分補給をしながら談笑を交わしている義足の男性達を視界に映す。
彼らを見ている尚也の表情は春の河川敷を歩いている人のように穏やかだった。そこにはもう、自分を無視していた無表情の少年の姿はどこにも無い。
尚也は一度鼻を啜った後、隣につけたボールカゴの中から一つ、濃いオレンジ色のバスケットボールを慎重に取り出し、胸の前に構えシュートを打つ体勢に入る。
「あ、大丈夫と?」
「はい。……またコートの上に立てるなんて、夢みたいです。俺にはもう無理だ、って思い込んでた」
自分自身に話し掛けるように尚也は言うと、構えたボールをゴールに向かって放ってみせる。
入れ、入れ、と思ったものの、綺麗に弧を描いたボールはガンッとリングに当たって弾かれてしまった。
「あ……っ」
入って欲しかったと祈っていただけに思わず上がったのは落胆の声。
しかし、投げた本人は至って満足そうだった。太陽でも見上げるかのようにバスケットゴールを見上げているその瞳は細められていた。
外れたボールを放置するわけにも行かず、小走りで壁際まで転がっていったボールを拾った。
「はは、やっぱり勝手が違いますね」
片腕にボールを抱えて戻ると、弾んだ声を出している尚也がそこには居た。今までに聞いた事のない声に、思わず目を見張る。
あの尚也が今、楽しんでくれている。ボールをカゴに戻す際、尚也がこちらを振り返った。
「佐古川さん、驚かせてしまってすみません。けど、本当に有り難う」
尚也は頬を持ち上げて笑っていた。無邪気な表情はあどけなくて年相応で、端正な顔立ちを一層引き立たせている。
理由は分からないが笑ってくれた。
思った通りその笑顔は志摩子に似ていて。液晶画面に収めたいくらい、綺麗な笑顔だった。
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