第4章 さん・さんプラザの体育館

第17話 「うん、近いんだし今日にも行きたい!」

「お待たせ致しました~。あら……尚也……?」


 ファンデーションを塗り直したのか肌が綺麗になった志摩子が、席を立つ前よりもずっと瞳を輝かせている息子を見て狼狽える。このビフォーアフターは確かに驚く。


「ど、どうしたんですか? なんだか二人、凄い楽しそ――」

「お母さんっ!」


 己の言葉を遮った本日一番の息子の声量に、ビクリと志摩子が肩を跳ねさせる。

 トイレを出たらパラレルワールドに迷い込んでしまったのだろうか……尚也の変わりようを前に志摩子はどうもそのような事を思ったらしい。困惑しきった表情を浮かべている。


「ど、どうしたの……?」

「俺スポーツセンターに行きたい! 障害者スポーツセンターってやつがあるんだって今佐古川さんが教えてくれて、そこはバリアフリーだから俺でも問題なく利用出来て、それでここから近いところにあるんだって。とにかくそこに行きたいんだっ!」


 饒舌になった息子を前に、「え、え」と志摩子は反応に困ったままだった。


「お母さん、今鴻野君にも話しとったんですけど……」


 この様子では志摩子はずっと困惑したままで、ゴールが見えて来ないだろう。そう思い尚也の説明を補足する。そこでようやく、席に戻った志摩子も合点がいったようだ。


「そんなところがあるのね、知らなかったわ……。で、尚也はそこに行きたいの?」

「うん、近いんだし今日にも行きたい!」


 目を輝かせて力説する尚也の事を眩しそうに目を細めて見た志摩子は、けれど困ったとばかりに深い溜息をついた。


「ええ……そうね、お母さんもそうしたい。でも……ごめんね、今日は家に帰って、夏バテしているお義母さんの代わりに……家事をしないといけないのよ。尚也も知っているでしょう? だから、ごめんね。今日は……ごめん」


 眉を下げた志摩子が今にも泣きそうな表情で苦しそうに呟く。義実家に住んでいる以上優先しなければいけない事も多いのだろう。


「分かっ……てる、けど……俺……俺さ……」


 首を横に振られた瞬間、尚也の瞳からすっ……と輝きが消えた気がした。やっぱりそうだよな、と諦めの色が浮かび俯いてしまう。

 折角尚也が明るくなっているのに、このままでは奥津が車椅子部屋に来た時の様に心が折れてしまう。例え後日改めてスポーツセンターに行けたとしても、当日に行けなかったという事実は、つい最近まで一人で何でも出来た尚也を笑顔にさせる事は絶対に無い筈だ。

 言うなれば尚也は中途障害者としては新生児なのだ。新生児が抑圧されて育てば性格に影響が出る。

 だからそれは絶対に尚也の未来に良くない。気付けば口が動いていた――それに、単純に尚也に笑って欲しかった。


「俺! 鴻野君俺と行かん!?」


 鴻野母子の会話に割り込むように前のめりで口早に言う。肘をテーブルに付けたまま手を挙げて主張する自分に、尚也も志摩子も目を見開いて驚いていた。

 驚いている息子の代わりに志摩子が答える。


「で、でもそれは嬉しいですが申し訳無さすぎます……それに、十五時までには仕事に戻らないといけない、って佐古川さん言っていませんでした?」

「そげん事、車ばおおぞらに戻しに行かせては欲しかばってん、戻したら別に良かですばい! おおぞら今日人居ますし! 俺今日暇やけん! やから鴻野君と! 行かせてくんしゃいっ! 迎えには来て欲しかですが……!」


 今までの経験上声を抑えてではあるが、一生懸命志摩子に頼み込む。

 本当は全然良くは無い。きっと小百合は怒るだろう。

 取調室で無罪を主張する人のような必死さに、志摩子どころか尚也ですら気圧されてポカンとしていた。

 ――が、一拍後我に返った尚也がここぞとばかりに大きく頷いた。


「佐古川さんもそう言ってくれてるし、行っていいよね!?」

「そう、ね……佐古川さんが着いて行ってくれるなら安心だわ。十八時以降に携帯に電話をお願いします、迎えに行きますので。佐古川さん、是非お願い致します……っ尚也の為に、有り難うございます……」


 艶のある茶髪が印象的な頭を深々と下げ、志摩子はすんと鼻を啜った。


「お母さんも、佐古川さんも有り難う……! あ……リハビリ室に取りに行くのはどうしようか?」

「それはお母さんと鴻野君で受け取ってくれんやろか。その間俺はおおぞらさい行って車置いて、自分の原付でさん・さんプラザまで行くけんそこで合流しよっか。お母さんもそれで良かですと? 道分かりますと?」

「勿論です。じゃあ尚也、リハビリ室に戻りましょう。さん・さんプラザまでの道はカーナビに聞きますから大丈夫です。では……あっ、会計はさっき化粧を直した帰りに持たせて頂きましたので、早く行ってください」


 え? と思って、泣きそうではあるものの僅かにドヤ顔を浮かべている志摩子を見やる。


「それくらいさせて下さい。佐古川さん、本当に有り難う御座います。では!」

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