第4話 ここは僕にとって楽園やから
椿と向日葵は普段離れのリビングのカーペットの上に布団を敷いて寝ている。
特に意味はないが、なんとなく、椿が右側でドアから見て奥のほう、向日葵が左側、ドアから見て手前のほうを使うようにしている。理由はない。
とにかく、今日も先に風呂から上がった椿が二組並べて用意してくれているはずだ。
頭にドライヤーをかけてからリビングに行くと、いつもどおり、布団が二組並べて敷かれていた。そしてその奥側に椿が横向けに寝そべり、ドアのほうに背中を見せていた。
どうやらスマホをいじっているらしい。珍しい。彼はSNSもゲームもやらないし動画もほとんど見ない。暇人なので時々ウィキペディアでリンクを次々に飛んで読む遊びをしているそうだが、向日葵の相手より優先したことはない。何か重大な事件でも起きてニュースを見ているのだろうか。
黙って見守りつつ隣の布団に転がった。
椿がくるりとこちらを向いた。どうやら区切りがついたようだ。構ってくれそうでほっとした。
「ねえひいさん、見て」
自分のiPhoneを差し出してくる。向日葵は「いいの?」と呟きながら受け取った。
表示されているのは天気予報アプリの画面だった。今日と明日の分で大きなオレンジ色の太陽と灰色の雲がふたつずつ並んでいる。
「明日も晴れだねえ」
だがそれがどうしたと言うのか。静岡県の太平洋沿岸などよほど強力な前線か台風でも来ない限りいつも晴れだ。雨なら母屋の家族がもっと大騒ぎするので向日葵が調べなくてもわかる。
「違うんや。気温見て、気温」
視線を移す。
「あれっ、明日結構寒いね。16℃しかないんだ」
「そうやろ。最高気温が16℃で最低気温が7℃やろ。それおぼえといてな」
「冬物コート出さなきゃ」
「それがよく見てほしい、地点を」
「地点?」
太陽マークの上に表示されているタブを見て、向日葵ははっとした。
『京都市左京区』になっている。
「なにこれ」
椿の実家のある地域だ。
「学生時代に保存した設定がそのままになっててん」
布団をかぶりながら説明する。
「タブふたつあるやろ。左側のGPSで出る今の地点が沼津市になってて右側の保存した設定が京都市になってた。普段左側しか使わへんから気づかんかった」
「なるほど」
「左側見てみ?」
タップして沼津市のほうを出す。明日の最高気温は20℃、最低気温は14℃だ。
「それで、もう一回京都見て」
先ほども見たとおり、最高気温が16℃、最低気温が7℃である。
「僕がずっと沼津あったかいて言うてたのわかった?」
「ほんとだ。こんなに違うのか」
向日葵も大学の四年間だけだが京都に住んでいた。その時確かに京都の冬は静岡の冬より苛酷だとは感じていた。しかし数値で比べたことはない。こうして見ていると確かに寒い。
「もっと言うたら一日にそんな寒暖差があるから僕の繊細な神経がバグるんちゃうの」
「よく二十二年も住んでたね」
そう考えると椿にとってここでの暮らしは冗談ではなく療養なのかもしれなかった。今は特別何かを患っているわけではないが、彼は生来あまり丈夫ではない。
「そんなとこ都にするとか昔の人おかしいんと違う?」
「今日饒舌に京都の悪口言うじゃん」
「事実を述べたまでです」
画面を閉じて椿に返す。椿が受け取り、腕を伸ばして充電器に接続する。今日はもう見なくていいらしい。
「そういえば大学の時パチが京都は北海道より寒いって言ってたね」
パチとは
「耐熱構造がしっかりしてたら京都人はみんな夏場に熱中症で死ぬしな」
「確かに……」
「初めて九月に沼津来た時涼しいなーって思ってん。なんやあったかいとこやと聞いてたから夏場暑いんかなーと思ってたけどそんなことなくて、夏暑く冬寒い京都は地獄か、と思ったわ」
向日葵は思わず笑ってしまったが不謹慎ではないか。本物の京都人が言うのだからいいのではないかと思いつつ、はっとしてなんとか噛み殺す。
「20℃もあったらコートいらんやん」
「それが風が強いから駅前にはダウンジャケットを着た人がちらほらいるんだよね」
「寒さに弱すぎるのと違う?」
椿が電灯のリモコンをつかむ。
「今日はもう寝るで。おやすみね」
「はーい。おやすみなさい」
ぴ、という音が立てて明かりが消える。カーテンを閉め切っているので部屋の中は真っ暗だ。
そうはいっても、と考え込んでしまう。
どんなに悪口を言っても椿にとっては生まれ故郷で、いまだに保存設定を削除しないのには特別な意味があるのではないか。
そう思うと、大学四年間を除いてずっと沼津に住んでおり好き好んで土地を相続するので今後もおそらく一生ここに住むであろう向日葵は幸せ者だ。帰れるふるさとがあるということは恵まれたことなのだ。
異郷の地で異郷の人と過ごしてからでないとわからないありがたみがある。
「椿くん」
「おやすみって言うたやん」
「椿くん……」
「なんや」
「椿くん、一生大事にするから、ここでわたしと暮らしてね」
少し、間が開いた。変なことを言ってしまっただろうか。困らせてしまっただろうか。余計なことを言うのではなかった。だが撤回したくもなかった。自分は彼の一生を背負うつもりで結婚したのだ。死がふたりを分かつまでともに暮らす覚悟があったから彼を婿として迎えたのだ。誰よりもいとしいひと、もう離れたくない。
不意に顎をつかまれた。驚いて目を丸くしているうちに引っ張られた。全身で彼のほうを向いた。
強引に口づけされた。唐突だったのでびっくりした。だが抵抗はしなかった。彼と触れ合うことはよろこびだ。
互いの存在を確かめ合うために。
「僕は何度でもひいさんと一緒に過ごせるほうを選択する」
一度口を離すと、彼ははっきりとそう言った。
「……やっぱり、今日はまだ寝れへんな」
嬉しくなって向日葵は小さく声を漏らして笑った。
「椿くん、大好き」
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