第2話
イルミーネは、そもそも、魔界と呼ばれる魔族版図の出身ではない。人間世界で、人間の女性から産まれた。それも、勇者とともに先代魔王を打倒した、聖女と呼ばれる女性の娘なのである。
したがって、子供の頃は、自分も聖女として偉大な母の跡を継ぐものと信じて疑っていなかった。また、周囲もいずれ彼女は母や祖母と同じ聖なる力を発揮するものと考えていたのだった。
はたして父親はだれなのか、なぜか母は黙して語ろうとしなかったが、そのようなことは気にならなかった。彼女は美しく優しい母が大好きで、母がいてくれるだけで十分に満足していたからである。
時が過ぎた。
イルミーネが十三歳のとき、大聖女であった母は病没した。さまざまな人々を救いつづけた疲労がたまってのことであったかもしれぬ。
イルミーネは人目もはばからず泣きつづけて哀しんだが、いつまでも哀しんではいられなかった。母の後継者として聖女の地位を与えられることとなったからである。
だれもが母にうりふたつの彼女こそが聖女にふさわしく、その任に堪えるものと信じて疑わなかった。ところが、そのあと一年を経ても、彼女は聖女の力に覚醒しなかった。
傷ついた鳥一羽癒やすことができなかった。そこで、聖女を掲げる〈神聖人間教会〉と呼ばれる組織の枢機卿たちのあいだで、イルミーネは聖女にふさわしくないという議論が巻き起こった。
先代があまりに偉大な人物であったためか、意見は真っぷたつに割れたが、結局は彼女を排除しようとする邪な派閥が勝利した。
そうして巧みな陰謀が練り上げられ、イルミーネは聖女でありながらある男娼と姦通の罪を犯した背徳者の汚名を着せられ、教会を追放されることとなった。
すべての地位、すべての財産が奪い去られ、汎人類帝国の帝都リヒテラムに住むことすら許されないという苛烈な処分であった。
その後、彼女は辺境にまで流れ着き、元聖女の身の上を隠し、ある酒場で女給の仕事について糊口を凌いだ。
彼女の運命が変わったのは、ある月のない夜、その街の路上で、ひとりのヴァンパイアがそのまえに舞い降りてからである。ロード・ハイファンを名のったその人物は、彼女を見つめながらささやいた。
「ようやく見つけることができました、わが陛下」
と。
かれは呆然と立ちすくむイルミーネに向かって説明した。その言葉によれば、かつて先代聖女が身ごもった子供の父親は、魔王その人であるのだという。
ふたりは戦いの最中、種族を越えた悲運の恋に落ち、愛し合い、そして別れたのだと。イルミーネが聖女の力を仕えなかったのは、いまだ彼女の体内で二種類の血が拮抗し、互いの力を封印しているからなのだとも云った。
そして、また、かれにはその封印を解くことができるとも。
にわかには信じがたい話であったが、イルミーネはなぜか信じた。これこそが真相だと、直感したのだ。
「ですが、その力を望まれるかどうかはあなたしだい。あくまでひとりの人間としての生涯を希望されるのなら、そのまま、お力を封じたままでいたほうが良いでしょう。ですが、いまの汎人類帝国の支配のもと、差別され迫害される魔族のために力を振るうことを求められるのなら、あしたの夜、ふたたびここに来てください、わが君」
イルミーネは、むろん、かれの言葉になど従うつもりはなかった。
いかに濡れ衣を着せられて聖女の地位を追われた身といえど、彼女はひとりの人間には違いなかった。魔物に協力することなどありえないはずだった。このときは、そう思っていたのである。
しかし、市井で暮らすうち、魔物たちがいかに残虐な目に遭っているか、彼女はその眼でたしかめてもいた。
魔物の血を継ぐ者は、たとえその外見がほとんど人間と変わらなくても、人間とはみなされず、何の権利も認められない。そのいのちを守ることすら許されないのである。
人魔のあいだに行われた最後の聖戦が人類の勝利に終わって十数年、魔物と呼ばれる者たちは静かに滅びへの道を歩んでいた。このままでは、世界はいずれ、純粋な人類のみのものとなることだろう。
さて、翌日、彼女をその同じ場所へ導いたのは、その滅びゆく者たちへの同情心であったか、それとも自分の身の上に対する好奇心ででもあっただろうか。
否――そうではなかった。ただ、彼女は疑問に思ってしまったのだ。
ともかく、イルミーネのまえにふたたび吸血鬼の王は姿をあらわした。その、何たる玲瓏たる美貌。かれは感慨深そうに云った。
「王よ、感謝いたします。わたしのお礼をお受け取りください」
「待って、わたしは――」
「いいえ、覚醒の時は来ました」
そしてハルファンは大きな影のように覆いかぶさると、イルミーネの白いのどにその牙を突き刺したのだった。
〈闇のくちづけ〉。
だれもが知っているように、吸血鬼に噛まれた者はその下僕となる。だが、このとき、少女のからだに起こったのは、さらに奇妙な変化であった。全身が沸騰するように熱く感じられたかと思うと、視界が真紅に染まったのだ。
からだの内側から巨大な力が湧いて来る。それは、彼女の語彙では説明のしようもない怪奇な感覚であった。しばらくのあいだ、彼女は石畳の路上に悶え苦しみ、そうして、そののち、ついに「覚醒」を遂げた――血と闇と灰の女王、新たな時代に君臨する新たな魔王として。
「ありがとう、夜の君」
彼女はその場に立ち上がり、爛々と輝く目をして低く、ささやくように云ったものだ。
「ぼくはようやく自分自身に目覚めた。もう、ためらったりしない」
ここに、彼女はほんとうの意味で人類にとっての背徳者となったのだった。
それからの冒険と戦闘の日々は史書に語られている通りだ。彼女はハイファンの支持のもと、魔族統合王国を支配する魔王として戴冠し、汎人類帝国に反旗をひるがえした。
初め、その勢力はちいさく、微力であるように思われた。しかし、一戦を経るごとに、内実を増していった。
そして、それから数年のあいだに、ついに十万もの「魔物」、魔族の仲間たちを集めて、人類最大の軍勢とふたたび戦いを繰りひろげるまでに至ったわけである。
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