二十三年前⑤

『続きまして、埼玉を震撼させている〈埼玉連続少女誘拐殺人事件〉の真相に迫ります』

 都内の有名私立大学のミスコンで準優勝したことがあるという新人アナウンサーが、それまでのほほえましげな表情を一転させ、一般人よりは幾らか流麗な発音でそう言った。すると、埼玉市の地図がテレビ画面に映し出された。三箇所の遺棄現場には、吹き出しで被害者少女の名前と発見日時が表示されている。彼女は事件の概要を説明しはじめた。

 知浦郁実の遺体が発見されてから十一日が経過していた。天城伶依子の一人娘までもが殺されたということで、マスコミの報道と世間からのバッシングは苛烈を極めているが、未だ被疑者の特定にすら至っていなかった。

 説明が終わると、アナウンサーは再び画面に現れた。

『捜査関係者によると』という前置きは、市民からすれば情報の出どころをうやむやにしようとする魂胆が垣間かいま見える、あまり印象のよくない言葉だろう、と倉橋は常々思っているが、ブラウン管の向こうの彼女は堂々としている。『捜査当局は、事件の凶悪さと社会への影響を考慮し、一刻も早い犯人逮捕を実現するため捜査人員を二百五十人に増やすことを決定したとのことです。また、現場で見つかった足跡と被害者少女に残されていた犯人のものと思われる体液から、犯人を身長百七十センチ前後の痩せ型の男性と見て、広く情報の提供を呼びかけています』

 画面がまた切り替わり、今度はスタジオ全体が映された。数人のスーツ姿が座っている。アナウンサーがシリアスな表情と声音で問う。『今回の事件、宮丸みやまるさんは犯人像をどのようにお考えでしょうか?』

 元警視庁捜査一課の犯罪ジャーナリスト兼作家という肩書きの、痩せ型の初老の男性──宮丸泰正やすまさが、自身を正義の使者であると確信しているような、すなわち正道を行く者特有の傲慢な顔つきで答えた。『まずわたしが言いたいのは、埼玉警察の捜査についてですよ』否、質問に答えるつもりはないようだった。『身長百七十センチの痩せ型男性が犯人だと考えているようですが、要するにそれはほとんど何もわかっていないということじゃないですか』

 ふっ、と隣の有識者風の男が鼻息だけで笑った。更にその隣に座る、女性の社会進出と地位向上をやかましく訴えてきそうな雰囲気のある少々見目の不自由な女性は、曖昧に眉を曲げている。賛同か対立か、どちらにするかを決めかねているのかもしれない。慎重な女は嫌いではない──倉橋はそんなことを思いながらテレビから目を離さない。

『最初の少女がさらわれてからもう三箇月以上が経過しているにもかかわらず、この体たらくはいかがなものかと』宮丸は言う。『元警察官として言わせてもらいますがね、この現状は怠慢と甘えの結果ですよ。犯人のターゲットと活動範囲は極めて限定的なんだから──今時、精神論かと若い人は思うかもしれませんがね、奉仕の精神が足りないと断ぜざるを得ないですよ』それから彼は、正論を振りかざすことに陶酔するように、『彼らには警察官としての存在意義を改めて自覚してほしいものです』としみじみと結んだ。

『なるほど……』とまじめな顔でアナウンサーはうなずいた。『そうすると宮丸さんの予想では、犯人は埼玉市在住なのでしょうか?』

 倉橋は感心した。どこら辺が、『そうすると』なのかまったくわからないのももちろんそうだが、犯人像についての持論はないから答えられません、という意思表示が行間から覗いていたのにそれを鮮やかにスルーして、新人アナウンサーの分際でご立派な肩書きのおっさんに対してマスコミらしさ溢れる嫌がらせめいたしつこさを見せたことが、とても痛快だった。この若者のほうがジャーナリズムとかいうかっこつけた横文字の本質を理解しているのではないか、とさえ思った。宮丸はどう返すのかね──ひとしおテレビ画面に注目した。すると、

「塩ラーメンと半ライスの人はどっち?」

 と無愛想に尋ねる声があった。顔を向けると、白い調理服の初老の男が、ラーメンとライスを載せた盆を片手に持って立っていた。

「俺だ」倉橋が答えると、

「はいよ」と男はそれらをテーブルに置き、「ごゆっくり」と残し、さっさと厨房ちゅうぼうに戻っていった。

 倉橋は埼玉市内のラーメン屋にいる。そこにあるテレビで昼のニュース番組を観ていたのだ。椎原はというと、携帯型ゲームに夢中になっていてテレビには見向きもしない。何やらビッグタイトルの新作が発売されたらしく、隙あらばポチポチとボタンを押している。

「塩ラーメンってラーメンっぽくなくないっすか?」その椎原が突然そんなことを言ってきた。「物足りないってゆーか、不健康さに振りきってないってゆーか」

 何だ藪から棒に、とか、今から塩ラーメンを食べようという人間に言うことか? などとは思わない。椎原の発言に妥当な文脈や整合性を求めても無駄だというのは、すでに十分に理解しているからだ。

「そんなのどうでもいいじゃねぇか」倉橋は割り箸を割った。「ごちゃごちゃ考えながら食べるもんでもねぇだろ、ラーメンなんて」

「それ、世の中のラーメン通に聞かれたら消されるっすよ」椎原は真顔だ。

「へぇー」

 倉橋は、いただきます、とは言わずに箸を下ろした。ラーメンっぽくないらしいが、ニコチンで鈍った舌にはそれでも十分だった。

 そう間を置かずして、

「とんこつチャーシューラーメンとライス、チャーハン、餃子だ」

 調理服の男が椎原の注文の品を持ってきた。

「あざっす」椎原が応じると、やはり男は、「ごゆっくり」と不機嫌そうに言い、去っていった。

 椎原は、いっただっきまーす、と給食のカレーを前にした小学生のように言ってから食べはじめた。なかなかの量のはずだが、みるみる減っていく。

 よく食べるなぁ。

 三十歳という壁を越えた者とそうでない者の差があるのかもしれない、などと考えながら倉橋も麺をすする──あ、と思い出した。視線をテレビのほうへやると、アナウンサーは芸能人の不倫について話していた。先ほどよりも自然な表情をしている。楽しそうだ。

「かわいいっすよね、寧々ねねちゃん」椎原は言う。

「倉さんはああいう子がタイプなんすか?」

 セックスしたくない女ではない、という意味ではタイプと言えるかもしれないが、積極的にお近づきになりたい女でもないので、タイプではないとも言えるかもしれない。が、いちいちそれを説明するのもめんどうだった。

「どちらかというと──」テレビ画面には、都合がいいことに例の慎重な女が映し出されている。それに向かって顎をしゃくり、「あの綾具あやともって女のほうが好みだ」

 椎原は、「うぇ?」と間抜けな声を出した。「絶対嘘でしょ」

「さぁな」

「何なんすか、もー」



 その日の夜、捜査会議の開始にあたり資料が配られると、捜査員たちは色めき立った。

 埼玉県川寓池かわぐち市──埼玉市の南東側に隣接する市だ──在住の堂坂千尋(十歳)の捜索願が提出されたという情報が、配布された資料に記されており、これだけでも十分に問題なのに、父親の堂坂重行しげゆきの職業について、

『警察庁の薬物銃器対策課長』

 とあったのだ。

 知浦郁実の遺体発見から十一日、いつものパターンだとそろそろ次の少女が誘拐されるころだ。倉橋たちの追っている犯人とはまったくの無関係の可能性もなくはないが、状況を考えると悲観的にならざるを得ない。

 そして、その犯人が意図的に警察官の家族をさらったのだとすれば、それはすなわち警察に対する今まで以上に悪質な挑発行為であり、攻撃にほかならない──犯人の真意はどうあれ、そしてあくまでも仮定の上に重ねた解釈ではあったが、倉橋は強い苛立ちを覚えたし、会議に出席している捜査員の多くも同様のようだった。憎き犯人への呪いの言葉が聞こえてきている。怒りが場に満ちていた。

 さしもの稲熊といえど、苦々しさをにじませている。彼は重そうに口を開いた。「お疲れ様です、これより捜査会議を開始します」と言ってから、回り道をせずにそれに触れた。「ほとんどの方はすでにご確認済みかと思いますが、まだの方は資料の最初のページをご覧ください」

 コピー用紙をめくる音はしなかった。

 小さく顎を引いて稲熊は、「川寓池市で新たに少女の行方不明者が出ました」と説明を始めた。

 行方不明になった堂坂千尋は、埼玉の私立星雨せいう小学校に通う十歳の女児で、行方不明になったのは昨日の十二月二十八日。川寓池市内の学習塾を出た後に消息を絶ったのだという。

 四十六歳の父親、四十三歳の母親、十八歳の兄、十五歳の姉と堂坂千尋の五人家族で、全員、川寓池市内の住宅街にある一戸建てで暮らしている。資料にあるとおり父親は警察官で、母親の堂坂香苗かなえは自宅でピアノを教えているそうだ。

 母親の仕事の説明が終わったところで稲熊は、言葉を切った。「ええ、堂坂千尋さんのご家族についてですが」と再開し、「彼女の親族には警察官が多いらしく、退職した方も含めますと警察庁の幹部にまで上り詰めた方も何人かいらっしゃるという話です」

 ざわ、と会議室が揺れた。倉橋も頬が引きつるのを感じた。

 警察は、犯罪への抑止力を担う以上当然なのだが、威信というものを非常に重視している。警察の身内、それも幹部級を複数人輩出する一族の子が、下劣な犯罪者にいいようにされたとなると、警察庁から、「早く解決しろ」と尻を叩かれかねない。最悪、世間の批判を和らげるために特別捜査本部の本部長が、〈自らの意思によらない自主退職〉をする羽目になることも現実になりうる。

「堂坂千尋さんが〈埼玉連続少女誘拐殺人事件〉の犯人にさらわれたと断言はできませんが、その可能性はけっして低くはないでしょう」稲熊は言う。「第一、第二、第三の被害者少女が殺害されるまでには三、四週間ほどの監禁期間がありました。堂坂千尋さんが、くだんの犯人に誘拐されたのだとしてもまだ間に合うはずです」静かだが、力のこもった口調だった。「したがいまして、先日増員が決定したばかりではありますが、更に五十人を動員し、彼女の捜索に当たることとなりました」

 これはいよいよ大事になってきたな、と倉橋は吐息を洩らした。今までを軽く見ていたわけではないだろうが、三百人体制となると本気度のレベルが違う。

 第一会議室に集まった精鋭たちのまとう空気も、より鋭さを増していた。皆、強い意志をその双眸に宿している。

 まさに背水の陣。追い詰められた警察の、死に物狂いの捜査が始まろうとしていた。

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