桜小路蒼介⑦

 事件の話を終えた蒼介が期待の眼差しを雫由に向けると、彼女は、「一晩ゆっくり考えさせて」と言って席を立ち、リビングダイニングから出ていってしまった。

 残された蒼介と京は顔を見合わせた。京はその大きな瞳を瞬いた。わずかな空白の後、彼は口を開いた。「お腹減ってるでしょ? 何か作ろうか?」

 京に推理を披露する気はないようだったが、その提案はありがたかった。

「麺が食いたいな」ラーメンでもパスタでも麺料理なら何でもいい気分だった。「頼んでいいか?」

「うん、いいよ」京はそう言って、再びキッチンに向かった。

 翌朝、雫由は蒼介の顔を見るや否や、言った。

「犯人は里見沙耶」

 詳しく聞くと、犯行手段、VTuberの職業事情、都丸や犯人の心理を考慮しての推理だという。本当にこの子九歳か? と、もう何度目かもわからない疑問を浮かべた。夏の時もそうだったが、彼女が推理したというのは、そのあどけない顔を見ていると信じられない。

 しかし、いや、と首を振る。その疑心には、おそらく意味はないだろう。以前同様、彼女は自分で推理したと答えるだろうし、実際それ以外の可能性は考えにくい。それに、「わたしのことは信じなくていい」と彼女に口にさせるのは嫌だった。小さな子供が、自分が信用されていないことを受け入れているというのは、見ていて心に来るものがある。だから蒼介は、

「助かる。ありがとな」

 とだけ言った。

「うん」

 雫由はほほえむでもなく、眠たげな瞳をこすった。義憤に燃えるファンの姿には見えないが、外形上の言動だけが人の本心を示すわけではない。職業柄、それはよくわかっている。



「ですので、里見沙耶が犯人だと思われます」

 特別捜査本部に到着した蒼介は、堂坂と長妻に声を掛け、雫由から聞いた推理を語った。もちろん、九歳の義妹の推理なんですけど、とは言っていない。積極的に嘘をつくわけではないから嘘の苦手な蒼介といえどもあからさまな不自然さはないが、話しにくくはある。言葉に詰まりかけたりもした。

 しかし、そんな蒼介の内心を知ってか知らでか、長妻と堂坂は感心したような表情を見せた。

「すごいじゃない!」まず長妻が言った。「正直、蒼介君は理屈をこねくり回すのは得意じゃないと思ってたよ。ごめんねぇ、認識を改めるよ」

「いえ……」と蒼介は恐縮するほかない。認識を改める必要なんて皆無なのだ。むしろ今後、本来の能力を超えるパフォーマンスを求められるかもしれないと思うと、やめてくれ、と叫びたくもある。

「わたしの言ったとおりだったろう」堂坂の言葉に、はて、と首をかしげる。何を言っていたっけ? 蒼介の様子に彼女は苦笑し、「『早々に自分に見切りをつけないでちゃんと考えてみれば、意外といい線いくかもしれないぞ?』わたしはこう言った」

 あ、と蒼介が口を開けると、

「思い出したか?」

「ええ、まぁ」

「お前に限ったことではないが、最近の子は諦めるのが早すぎるんだよ」堂坂の言い方は、いかにも年上らしかった。

「俺からすれば、千尋ちゃんも〈最近の子〉なんだけどねぇ」長妻はおかしそうに言った。



 最有力被疑者を都丸から里見に変更した特別捜査本部は、里見と都丸の顔写真を使っての、路上ライブ会場から都丸の自宅マンションまでのルートでの聞き込みと、路上ライブ会場と早野宅付近のコインパーキングやデパートの駐車場などのカメラ映像のチェックに着手した。コインパーキング等のチェックをするのは、時間を考慮すると里見の移動には車が使われていたと見るべきだからだ。

 蒼介と堂坂は前者を担当する。雫由曰く、「里見は、都丸と共に彼のマンションに行く途中、合鍵を元に戻すためにコンビニなりスーパーなりに寄った可能性が高い」らしく、蒼介たちはそれを念頭に置いて聞き込みを行った。

 果たして、三軒目に訪れた中規模スーパーで目当ての証言を得られた。清潔感のある若い男性店員だった。

「あーと、はい、おそらくご来店されてましたよ」

 客の目を避けるためにバックヤードに案内された蒼介たちが、里見と都丸の写真を見せると、彼はそう言った。現在時刻は午前十一時半過ぎ。昼食を求める客で混雑している時間だった。

 お、当たりか、と蒼介は喜びが顔に出てしまう。

「『おそらく』というのは、記憶が定かではないのか?」堂坂が問う。

「いえ、そういうわけではないんですが、こちらの女性はマスクをしていらしたので」言いながら店員の男性は、手に持って眺めていた里見の写真を差し出した。

「それならどうして彼女だとわかるんですか?」蒼介は思わず聞いていた。

「このお二人はたまにご来店されるので、雰囲気でわかりますよ」それから店員の男性は、「この男性はお一人でもご来店されますね。なので、こちらの彼のほうがご来店頻度は高いです」と都丸の写真を示しながら言い足した。

 このスーパーは都丸のマンションからそう離れていないので、この証言におかしな点はない。

一昨日おととい、彼女たちが訪れた正確な時間は覚えているか?」と堂坂。

 蒼介の頭に例の電波時計ガールのことが浮かんだ。彼女のようだと助かるのだが、とわずかに期待する。

「ええと、どうでしたかね……」と店員の男性は考えるように言い、「おそらく夜の八時ごろだったと思うんですが──すみません、あまり自信はないです」と心苦しそうに眉を下げた。

「いや、十分だ」堂坂は眉一つ動かさずに答えた。怒っているわけではないはずだった。「ご協力感謝する」

「いえ、お役に立てたならよかったです」店員の男性は殊勝なことを言った。と思ったら、「せっかくですので何か買っていきませんか? 現在、調理パンや菓子パン、お弁当など昼食に適した商品がお安くなっておりますよ」と商売人の顔に変貌した。

 こういう人が出世していくんだろうなぁ──蒼介はあきれながらも感心していた。



 コインパーキング等のカメラ映像のチェックのほうも成果が出たらしく、夜の捜査会議では、都丸を任意で連れてきて改めて詳しく話を聞くことが決定した。

 で、実際に同行するのが誰になったかというと、都丸の事情聴取を担当した蒼介と堂坂だ。まったく面識のない警察官が言うよりはスムーズにいくだろうとの判断らしかったが、埼玉県警捜査一課のエースたる堂坂に対する信頼もあるように蒼介には思われた。

 翌日、蒼介たちは都丸のマンションを訪れた。呼び鈴を鳴らすと、警察の相手なんてしたくないという彼の気持ちを表すような間の後、気だるげなハスキーボイスが応じた。『またあんたらか。今度は何だよ』不機嫌な声だ。

「申し訳ないが、都丸さんから詳細に話を聞く必要があると判断された」

『……』堂坂の言葉の意味を理解したのだろう、都丸はすぐには返答をしなかった。『……任意同行ってやつか』

「そうだ、わたしたちがお連れする」

 わたしたち、つっても運転するのは俺なんだけどな、と若干の引っかかりを覚えるも、口は挟まない。

『任意ってのは建前で実際は強制なんだよな?』

「いいや、拒否するのは自由だ」堂坂は悪びれるでもなく言う。「だが、お勧めはしない。素直に従ったほうが利口であることは間違いない」起伏のない平静な口調ながら、誰が聞いても脅しにしか聞こえないだろう圧があった。

 これだから警察は嫌われんだよなぁ。蒼介は残念な気持ちになった。嫌われて何ぼの商売だ、と開き直る段階にはまだ至っていない。きっと俺は子供なんだろうな、と思ったりもする。

『……わかった、準備するから少し待っててくれ』都丸の声は、疲れた大人のそれだった。



 場所は変わって大弥矢警察署の取調室。堂坂は、粗末なパイプ椅子に座らされた都丸と向かい合っていた。

 一方、蒼介は取調室の隅にある小さな机に着いて供述調書を作成する係だ。机の上にはノートパソコンとメモ帳、ボールペンがある。なお、ミスタイプの常習犯である。

 一応、未だ都丸も被疑者であるため刑事訴訟法にのっとり、「言いたくないことは話さなくてもいい」と堂坂は取調べの開始に当たり述べたが、〈すべて正直に話せ。もしこれ以上嘘をつくようなら──わかっているな?〉と抜き身の日本刀のような双眸そうぼうが威圧していた。

 これはひどい、と蒼介は毎回思っている。

 スーパーでの目撃証言と菜花の証言を根拠に問いただされた都丸は、あっさりと嘘を認めた。ここで黙秘を貫いたり、否認したり、あるいは嘘を上塗りしたりしても何のメリットもないと考えたのだろう。

 都丸の語った真相は、昨日、雫由から聞いたものと完全に一致していた。すなわち、都丸と里見は男女の関係にあったこと、合鍵のキーカバーは彼女にプレゼントされたものであること、早野が殺害された日の前日の夜から当日の朝まで里見が都丸のマンションにいたこと、当日の午後八時ごろから八時半ごろまで彼女と会っていたこと、彼女が車の運転を申し出たこと、彼女の提案で帰りにスーパーに寄ったこと、マンションに着くとすぐに彼女は帰っていったこと、だ。

 供述調書に署名押印したことで役目を終えた都丸は、シャバへと帰された──薄々、里見が疑われていることを察していたのだろう、「よし、今日のところは帰ってもいいぞ。ご苦労だったな」と堂坂に言われた時にも、彼の表情が晴れることはなかった。

 帰宅する都丸の背中に、お疲れー! と声に出さずにねぎらいの言葉を送る。

 


 里見の犯行を立証する証拠は間接的なものばかりだったが、埼玉県警察本部を管轄する地方裁判所は、捜査当局の請求に応えて逮捕状を発付した。都丸から真実を聞いた日の夜のことであった。

 これにより蒼介たちは意気揚々と里見を拘束したわけだが、里見沙耶という女はそう簡単ではなかった。彼女は犯行を否認したのだ。

 取調室には、里見、堂坂、蒼介の三人がいる。蒼介の腕時計は十六時十一分を表示している。

「そうやって黙秘していても状況は好転しないぞ」里見の正面に座る堂坂が言う。「今、お前が執るべき行動は、犯行を認め、すべてを正直に話し、そして反省する演技をすることだ。それが最も損失を抑えられる」

「……」里見は答えない。

「VTuberといっても声優の一種なのだろう? その程度の演技もできないのか?」堂坂は小馬鹿にするように鼻先で笑い、「それとも何か? VTuberという連中はこんな簡単な損得勘定すらできない低能の集まりなのか?」

「……」しかし、里見は揺れない。澄まし顔で堂坂の鎖骨の辺りに視線を固定して口をつぐんでいる。

「……はぁ」堂坂はわざとらしく溜め息をついた。「そうだな、こんなことを聞いても無駄だよな。お前にしろ早野にしろ男に抱かれることしか頭にない淫乱だもんなぁ?」

 目を合わせようとすらしなかった里見が、反抗的な目を堂坂に向けた。が、それも一瞬のこと。すぐに元の感情のない瞳へと戻る。言葉はない。

「なるほど、人気が出るわけだ。貴様らみたいな不細工は必死に媚を売らないと男に相手にしてもらえないもんなぁ? いわば、男の関心を惹く専門家だ。気色悪いアバターでその汚い面を隠して致命的な欠点をごまかせるVTuberは、まさに天職じゃないか。そんな職に巡り会えるなんて羨ましい限りだよ」

 正真正銘の美女である堂坂が言うと破壊力抜群である。嫌みとしての完成度は極めて高い。しかし、

「……」

 里見は黙したままだった。チャンネル登録者数百五十万人超えVTuberとして夥しい厄介オタクたちを捌いてきたがゆえのメンタルの強さだろうか。彼女の仮面に隙はなく、何の感情も窺えない。

 ちっ、と大きく舌打ちして堂坂は、立ち上がった。パイプ椅子と床がこすれて攻撃的な音がした。

「少し席を外させてもらう。続きはお前がやれ」蒼介に向かってそう言い、取調室のドアを開けた。堂坂が取調室を出て、ドアが閉められると、足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。

「……」「……」

 悪役令嬢、もとい悪役警官のいなくなった取調室に二人分の沈黙が訪れた。

「ええと……」合コンで会話のネタが尽きた時のような焦りを感じながら蒼介は、声を出す。会話の内容は話しながら考えるというスタンスである。そんな行き当たりばったりな心持ちの蒼介の口から出た言葉は、「──がなり声」という何の脈絡もないものだった。

「えっ」里見が、意味を掴みかねているような声を発した。

 お前は何を言ってるんだ? と頭の中で自分にあきれる声がするが、無視して続ける。「都丸さんの歌の話ですよ」

 ああ、と里見は理解した顔になった。

「彼のがなり、いいですよね」休憩時間に聴いた都丸の歌を思い出しながら蒼介は言う。「どちらかというと女性向けなんでしょうけど、男の俺にもあれがいいものだというのはわかります」

「は、はぁ、そうですか」茫漠ぼうばくとした相づちだが、何もないよりはマシだろう、と前向きに解釈する。

「実は俺も昔、彼女に浮気されてしまいましてね」事実である──悲しくなってきた。「それが原因というか、それもあって、かな──とにかくその人とは別れてしまったんですけど、都丸さんの、あの切ない歌声を聴いていると、不思議なもので、好きだったころの気持ちを思い出しちゃうんですよねぇ……」今更未練も何もないはずだが、歌の力というのは、げに恐ろしきかな。

「……ふふ」里見が微笑を洩らした。「大変でしたね」と小さな声で言った。

 ええ、と苦笑いで返してから、「こんな仕事ですから彼女とはなかなか都合を合わせられなかったんです。そういうところも不満だったんでしょうね。仕方のないこととはいえ、悪いことをしてしまったなぁ、って感じですよ」

「……刑事さん優しいんですね」もう一人の女刑事とは違って、と聞こえてくるようだった。

「そうですかね、自分ではよくわからないですけどね、そういうのは」

「そうですよ、わたしはそんなふうに反省はでき──」里見はそこで、はっとしたように声を止めた。困ったように眉を斜めにしている。

「……初めにお伝えしましたが、里見さんには黙秘権があります。言いにくいことは無理に言わなくても大丈夫ですよ」

「わ、わかっています」

 もしかしたら逮捕された場合のシミュレーションを事前に行っていたのかもしれない。人間、心の準備ができていれば多少の事には耐えられるものだ。逮捕後の拘束期間──不起訴処分となる場合、その期間は最大二十三日間──のように期限があると特にそうだろう。直接証拠がないことをもって不起訴処分となると考えているのだとすれば、ひと月と経たずに終わりが来ると思っているわけだから、里見の強硬な姿勢にも認知的には共感できる。

 しかし、人の心はそんなに合理的ではない。罪を感じているのなら告白したくなる。誰かに許してもらいたくなる。だから、宗教には懺悔ざんげという概念が存在する──蒼介は被疑者・被告人たちと接するうちにそんなふうに考えるようになっていた。

 今、蒼介の目の前にいる小柄な女性も何かを迷っている。そう見える。

 里見は、乾燥した唇を開きかけては閉じる。かすかに震わせてもいる。

 あとひと押しかな、と蒼介は畳み掛ける。 

「早野さんの最期の言葉はご存じですか?」

「え、ええ、知ってますよ」知らないはずがありません、とうつむく。

「本当に優しい人というのは彼女のような人を言うのだと俺は思います」

「……そう、ですね、舞は優しくて、バカで、かわいくて……」

「彼女は最期にファンへの感謝を口にした──」いえ、正確には、と蒼介は言い、「ファンへの感謝しか・・口にしなかった」

「……」里見が唇を噛む。

「自分を襲った犯人の名前を伝えることもできたのに、彼女はあえてそうしなかった」なぜだかわかりますか? と尋ねながらも里見が何かを言う暇を与えずに続ける。「たとえ同じ人を愛してしまったとしても、たとえ憎まれたとしても──たとえ殺意を向けられたとしても、それでも親友としての情を捨てられなかったからですよ」

「……」固く閉じられた里見の瞳から涙がにじむ。

「あなたは違うのですか? あなたにとって早野さんはただの憎い恋敵にすぎないのですか? そうだとしたらあまりにも悲しい。あまりにも彼女が哀れだ──そうは思いませんか?」

 気がつけば嗚咽おえつが聞こえていた。嫌な仕事だよなぁ、と内心で愚痴りながら里見の言葉を待つ。

 やがて里見は顔を上げた。「すべ、てお話し、します」

 よかった、と息をついた。安堵に肩の力が抜ける。

 里見が口を開く。もう震えてはいなかった。

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