第14話 気付いたら失恋だったから
夏の空は雲ひとつ無くて、沈んだ気分でいるのが馬鹿らしくなってくる。
ステージの裏手。大道具搬入口の外に広がるコンクリートのバルコニー。
私はペットボトルを片手に、座り込んでいる。
情けないくらいに空を見上げて。
背中を大講堂の外壁にあずけて。
やってしまった。
本当にやってしまった。
半年ぶりに宮藤先輩に見てもらう、私のお芝居。
それなのに、私の演技は、全部が全部、めちゃくちゃだった。
お芝居全体は止まることなく最後まで演じ終えることが出来た。
主人公の二人。眞姫那と楡井くんの演技はいつもどおり……ううん、いつも以上に良かったかもしれない。二人の演技は、毎日少しずつ良くなっている。そんな感じがする。
それなのに私の演技が酷かった。
何を舞い上がっていたんだろう?
何を気にしていたんだろう?
一つ一つの演技。
舞台の中の一つ一つを劇空間に留める一本一本の糸。
それを緩めて、時に断ち切ってしまっていたのは私だった。
宮藤先輩のことが視界に入るたび、隣に座る西脇佳奈さんの姿が目に入るたび、注意は奪われて、私の心は現実に引き戻された。
先輩の書いた物語を紡ぐことが、私の願ったことだったはずなのに。
舞台の上、たゆたうように流れていく出来事の中で、私の周囲だけにぽっかりと穴が空いていた。
両膝に顔を埋める。情けない。
悔しい。悔しくてたまらない。
ずっと、ずっと、頑張ってきたのに。
宮藤先輩に憧れて、宮藤先輩に見てもらいたくて。
通し稽古が終わった後、皆を集めて、宮藤先輩と彼女の西脇さんから講評と指摘を貰った。
「演出からも何かコメントを」って言われたけれど、何も言えなかった。
悔しくて、恥ずかしくて。
だって、一番ダメだったのは、演出の私だったから。
誰がどう見ても。さっきの私は、ダメすぎた。
煌々と光を照らす太陽の光が遮られる。何かの影が、私を覆う。
人の気配を感じて、顔を上げた。
「何してんの、演出さん? 演技に失敗して凹んでいる役者さんを演じてるの?」
「……何それ? 酷い嫌味。デリカシーなさ過ぎだよ、流石に」
顔を上げると、楡井くんだった。
高い身長でヌボッと立つ彼は、いつもどおりのつまらなそうな表情を浮かべていた。
「――それに、今は演技なんかじゃない。本当に凹んでいるんだから」
「そっか。じゃあ、しゃあないですね。本当の気持ちは、演じていない本人自身の特権だから。せいぜい凹んでください」
「楡井くん。ホント人間として微妙よね。仲良くするの、マジで難しい」
「よく言われます」
飄々とした顔で応じると、「隣り、いいですか?」と楡井くんは尋ねてきた。
「どうぞ」と返すと、彼は私の隣のコンクリートに腰を下ろしてきた。
ペットボトルを煽って、楡井くんはスポーツドリンクに喉を鳴らした。
よれたシャツの襟元から、汗に濡れた鎖骨が見えた。
「前言撤回しますよ、先輩」
「ん? 何のこと?」
「あー、宮藤先輩のことっす。ただの優男だとか、ただのイケメンだとか言ってたこと。あの人のこと全然知らないまま、ここの演劇部に入って、自分が好きなように演技させてもらってたけど。――村越先輩が尊敬するだけのことはあると、今日、理解しましたよ」
「何? 急に殊勝になって。私としては嬉しいけど? 楡井くんがちゃんと分かってくれて。宮藤先輩のこと」
でも、私はわからなくなったかな。なんとなく、宮藤先輩のこと。
ううん。わからないのとは、違う。ただ私が、分かってなかったんだ。
「やべーっすわ、あの人。ホントに全部見てたし。演技上手いし」
楡井くんは、顔を上げてコンクリートの手すりの向こう側を眺める。
京都の西の空を。雲は無くて、広がる山に囲まれた盆地。
この小さな世界の中で、私たちは演じている。
そして壁にぶつかって、何かに気づいて、またそれを言葉にしている。
通し稽古の後、私たちを集めた宮藤先輩は、冒頭から脚本に沿って、指摘を始めた。
たった一回の通し稽古で、宮藤先輩の脚本にはたくさんのメモと付箋が貼られていた。
そしてその少なくない内容が、楡井くんの演技に対する指摘だった。
楡井くんの演技は他のキャストに比べて悪くない。控え目に言っても上手い。
それでも宮藤先輩が徹底して楡井くんに対して指摘を続けたのは、それだけ脚本上で楡井くんの役――コウジが重要な役回りだからだろうか。それとも才能のある楡井くんに期待しているからだろうか。きっと、両方なんだろうな。
でも元々、人に説教されるのが苦手な、楡井くんは徐々に不機嫌になっていった。
ついには途中で「じゃあ、先輩、演ってみてくださいよ。言葉ばっかりで指摘されてもわからないんで」などと、OBに先輩に向かって、怖いもの知らずな暴言を吐いたのだ。
在校生一同、流石に凍りついた。ほんと楡井くんは、礼儀の意味で危険因子すぎる。
でも、宮藤先輩はにこやかかつ冷静だった。
「分かった。うん、久しぶりに演ってみるかな。佳奈、相手してよ」
そう言って宮藤先輩は立ち上がり、彼女の西脇さんを巻き込みなコウジとユミコのシーンを即興で演じてみせたのだ。
突然振られた西脇さんも「えー。本気? ちょっとまってよ、台詞頭に入れるから」と困ったように苦笑いを浮かべながら脚本を開いた。
そして五分ほどの準備時間の後に、二人が演じたワンシーン。
控えめに言って、完璧だった。惚れ惚れした。
宮藤先輩の演技が上手いのは、先輩の現役時代から知っていたけれど、受験勉強のブランクを経て、また上手くなっているのが、はっきりと分かった。
それにも増して、すごかったのは先輩の彼女――西脇佳奈さんだった。
そしてその演技に、私以上にあんぐりと口を開いたのは、眞姫那だった。
宮藤先輩と佳奈さんはあっという間にフロアに劇空間を作ると、突然始まったワンシーンの中に、私たちを引き込んでいった。
たった三分にも満たないシーンだったのに。私は「続きが見たい」と、思ってしまった。
きっと他の部員たちも、同じように思ったんだと思う。
そして、それと同時に、どうしようもなく思ってしまったんだ。
先輩と彼女さんはとてもお似合いのカップルなんだって。
「上手かったよね。二人とも。完全に二人の世界を作られちゃった」
きっと眞姫那もただならぬショックを受けているだろう。
オリジナル脚本で自分の配役というのは、世界で自分だけが演じる、自分だけのものなのだ。
それがあっという間に誰かに奪われる。そんな瞬間だった。
「ほんと、リアルで彼氏彼女なのに、舞台の上のお芝居でも相性抜群って反則だよね」
「まぁ、あそこまで見せつけられてしまうと、宮藤先輩に『片思い』していた村越先輩としては、くるものがありますよね」
そんな、また、デリカシーの無いことを、可愛げの無い後輩が口にする。
「はぁ? って、言いたいけど、まぁ、そうよね。うん、そうなんだね。――楡井くんも、気づいてたの? 私のこと」
「だから、言ってたじゃないですか。川添先輩もめっちゃ言ってましたけど。村越先輩が宮藤先輩に憧れているし恋してるっていうことは洛和高校演劇部の常識ですよ。定期考査に出るレベル。気付いていなかったのは先輩本人だけですって!」
「そうなんだ」
まるで今は他人事。
気づいてしまうと、なんだかあっけない。
それは当たり前に胸の中にあった感情だった。
それをどう呼ぶかっていうだけの問題だったのかも。
でもそれにちゃんと気づくきっかけが、本人を前にした、演技の大失敗っていうのも、演劇部員としてどうかと思うけど。
――あ、逆に舞台に立つ人間らしくていいのかな?
「やっぱり、好きだったのかなぁ」
「そうなんじゃないっすか? 知らんけど」
「気づいた途端、失恋しちゃった」
いまさら、あの二人の間に入っていこうだなんて思わない。いけるだなんて思えない。
あんな二人のお芝居を見せつけられてしまったら。
「ま、いいんじゃないっすか? どっちにしろ、今は演劇頑張るだけなんでしょ? ブロック大会、もうすぐだし」
「そうだね。――でも、どうしよう。私、顔に出ちゃうんじゃないかな? 先輩の前で。ちゃんと、出来るかな」
「そこは演じてくださいよ。役者なんだから」
楡井くんは、また無責任なことを言う。
「演じるって。――あれ? そういえば、楡井くん、リアルでは演じるのなんて馬鹿らしい、演じるのはステージの上だけ、とか言ってなかったっけ?」
「言ってましたっけ?」
「言ってたよ」
すっとぼける後輩。やっぱり楡井くんは無責任だ。
「じゃあ反省して、訂正しますよ。リアルでも時々は演じてください。演じることが、先輩が先輩らしくいてくれることを助けてくれる間は」
「何よそれ? ――でも、ありがとう。なんとなく元気出たかも」
「そりゃ良かった」
そう言うと楡井くんは「よっこらしょ」と大講堂の外壁で体を支えながら、暑そうに立ち上がった。
何かに気付いて、そのきっかけで動き出すように。
「あ、じゃあ、俺、もう行きますんで」
「うん、ありがと」
そう言って大道具搬入口からステージの上手袖へと向かっていく。
楡井くんの背中を見送る。
私もゆっくりと立ち上がると、ペットボトルを開いて爽健美茶を一口だけ口に含んだ。
夏のコンクリートの上で熱された液体は、随分と生温かくなっていた。
やがて楡井くんが消えた大道具搬入口から、もう一つの影が現れた。
「村越、ここだったか。――お疲れ様」
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