Unbalance+Bulimia
南川黒冬
序章「赤く染まった食卓」
取り替えられるものと、取り返しのつかないもの
――六月二十日――
今、目の前で街灯が死んだ。
ぱちんと弾けて一層明るくなって、そのまま二度と帰らない。真っ暗な中、見えもしないのに暫くじっと眺めてはみたものの、生き返る様子はなかった。超新星爆発みたいだ、なんて街灯の仕事を奪った星空を見ながら思った。
配電に問題があったのか中の電球が切れたのか、そもそもそれは切れたりするような代物なのか、専門家でもなんでもない私には判断がつかない。しかしまあ、早ければ明日にでも業者が来て直すだろう。
時計のてっぺんをとうに回った真夜中だから自分の呼吸も聞こえるが、そうじゃなければそれなりに人の往来のある道だ。通学路だから気を付けろって車向けの注意書きをさっき視界の端に捉えた気もする。
まったく死んだり生き返ったり忙しないったらありゃしない。周りや当の本人がどう思ってるかはニンゲンの私には分からないが、生命が戻ってくることに羨望を覚える感性は失せている。そもそもそういう節操のなさは、生命の無いものの特権だろう。
カシャンと脇の金網が鳴って、目の前を小さな影が走っていった。多分猫だったと思う。自分でやった事だろうに驚いて逃げるなんて、まるで殺人犯だ。
口の中でパトカーを模す。延々と続く長い金網の中で群がる工場群が悪の組織のアジトに見えた。ギラギラビカビカ恥知らずに輝いて、後暗いことなんて何も無いとでも言いたげ。
そこから少し外れた廃工場を前に足を止める。元は……そう、確かパン工場だったかな。食中毒騒ぎで一気に潰れたんだっけ。ここ
元々宵っ張りな上に散歩でもしたい気分だったからこんな辺鄙なところにまでやってきたが、そうでもなければ雇い主からの依頼でも外になんか出なかっただろう。滴り落ちる汗を拭う度に後悔と呪詛が湧き上がってきて気分が落ち込む。お気に入りだからってブーツを履いてきたのは失敗だった。次回があればサンダルにしよう。
とっくに今日分の生命は尽きてるくせに、その遺骸すら人様に迷惑をかけるとは太陽の奴も偉くなったもんだ。これなら異臭を放つだけの人の方がまだマシ。どうせ明日には生き返るんだから大人しくしとけばいいのに。既に興味を失ったはずのさっきの街灯を思い出し、太陽をLEDに変える業者を妄想した。熱くないし燃えてないし、意外と良いんじゃなかろうか。
善良な人間を追い返すための金網を、悪い子な私は無いものみたいに乗り越える。半分くらいまで登ったあたりで向こうから髪の長い女が歩いてきたので思わず頭を下げた。
「……無視するかな、普通」
見えていないわけも無いだろうに、女はフラフラと幽鬼みたいな足取りで遠ざかっていった。最近の人間は他人に無関心でありがたいね。こんなの犯罪行為に決まってるのに。もしかしてあっちもその類だったのかな。だったらここでただほっとしちゃってる私も人のことは言えないんだけど。
残りの半分を乗り越えて飛び下りる。手入れなんかされているわけも無い放棄された場所だから、雑草が膝上まで伸びているし、虫までわらわら湧いている。サンダルじゃなくてブーツで良かった。先程の自分の言葉をあっさり覆しながら、内部に入る。
もぬけの殻だ。パンを大量生産するフルオートメーションもそれを運ぶベルトコンベアも何も無い。完全に廃れてしまった工場は、「おもちゃばこ」と書かれた空箱のようで酷く寂しい。
窓に打ち付けられたベニヤ板のせいで昼間でも薄暗いここは、確かに馬鹿な若者が好みそうだ。
ただ、今のここは余程鈍感じゃない限り気づいてしまうほどに空気が澱んでいる。人死にがあった場所はいつもそうだ。
自然発生した大気よりも数段重たい、ほの暗いそれが沈殿して、吐き捨てられて固まったガムみたいにいつまでもそこに留まっている。不親切なのはそれが常人には確信を持って知覚できないってところ。プロパンガスだって臭いをつけてるってのに、これじゃまた人が死ぬか、或いは良くて全国規模の怪談だ。
すんと鼻を鳴らす。独特な匂いに赤いシルクの布を幻視した。さらさらと柔らかく流れている。その端は鉄扉の先だ。多分、管理人室か何かだろう。こちら側は少人数で屯するには広すぎたのか、今回の被害者はそちらを主に根城にしていたらしい。暗証番号付きの鍵は力任せに壊されていて、向こうの空間とこちら側の隔たりは、視覚以上のものになっていない。
扉を開いた瞬間にざらりとした感触が全身を撫ぜた。暑さによらない汗が背中にシャツを貼り付ける。
前言撤回だ、扉の向こうとこちら側じゃ全くの別世界、臭いも見た目もあまりに違いすぎる。膨大な情報量に、現実を見るまでしばしの時間を要した。
ひたすら脳内を赤黒い
ねとりねとりと粘ついた空気。醜い化け物が口の中で私を転がしている。全身に唾液が絡みつく。放っておいたら溶かされそう。
鼻を塞いで口で呼吸すると、いつの間にか溢れていた唾液が気管を塞いでむせてしまった。身体の内側を満たしていた重苦しい空気が吐き出されて、湧き出た涙が空想を拭った。
ようやく正確に認識できる現実で指折り数える。ひいふうみい……分かりづらいけど、多分六人。
もうそれがなんだったのか分からないほどに壊された人間の成れの果てが、赤黒い中身をぶちまけて無造作に転がっていた。
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