12‐4 僕はもう、飛行機は怖くないんだ
制服姿の僕と方違さんが、手をつないで歩いている。
僕はそれを、後ろから見ていた。だから僕は、たぶん僕じゃないんだろう。
「僕はもう、飛行機は怖くないんだ。目隠しもいらない。だから大丈夫だよ。いっしょに行こう」と僕が言うのが聞こえた。
「でも……」
「心配ないさ。いいかい方違さん? 世界はすごく広いんだ。僕らはどこにでも行けるんだよ。ついておいでよ」
僕は方違さんの手を離して、ぐんぐんと歩き始める。その先に横たわっているのは、真っ黒な飛行機だ。山脈みたいに巨大な、でこぼこした機体には、ばらばらな場所に無数の窓や入り口があり、数えきれないほどの、生命の無い人々の列が、ぞろぞろと中へ消えてゆく。その列の中に、僕の後ろ姿も加わって、やがて溶け込んでゆく。
方違さんも、重い足取りでまもるの背中についてゆく。
僕は声を上げて、二人を呼び戻そうとする。
方違さん! だめだよ、もどって! おい苗村! 約束を守れ! 一生約束を守って、彼女のそばにいろよ! 広い世界なんていらないんだ、方違さんがそばにいれば、それだけでいいはずだろ!
でも声は出ない。そこに僕は存在しないから。
飛行機は黒い巨体をぶるぶると震わせ始めている。機体のあちこちに埋めこまれた巨大な眼が、重いまぶたを上げ、一斉にじろりとこちらをにらむ。そうだよ。お前のことぐらい、ずっと前から知ってたんだ。僕だって子どものころから、お前のことなんて大嫌いだったんだ。
僕と方違さんの背中はもう見えない。ぐにゃりと垂れ下がっていた七枚の翼が大きく持ち上がると、数えきれないほどたくさんのプロペラが回り始め、黒い湯気が狂ったように吹き出す。機体の端っこが、少しずつ宙に浮き始める。
だめだよ、方違さん、戻ってきて……。
僕はだめでも、せめて、君だけでも。
方違さん!
◇
「まもるくん!!」
◇
僕は目を開けた。
布団の中にいた。和室だ。僕の部屋じゃない。あの旅館の部屋だった。でもひとつだけ違う。天井が岩じゃなくて普通の木の板になっていた。
床の間の時計が、十二時ちょうどを指していた。遠くで車と電車の音が聞こえる。どこかの部屋の、テレビの音も。
窓の障子越しに、何かの光がぼんやりと見えた。
月曜が終わったんだ。
呼吸の気配を感じて、僕は右に顔を向けた。
そこにはもう一組の布団が敷いてあり、僕をじっと見つめる方違さんの顔が見えた。
僕らは、少し間を空けて敷いたそれぞれの布団から、片腕だけを外に伸ばして手をつないでいた。
しばらくの間、僕たちは何も言わずに見つめ合っていた。
やがて布団がもぞもぞと動いたかと思うと、つないでいた手が離れ、体操服姿にお団子の髪の方違さんが、四つんばいで布団から出てきた。
「どうしたの? トイレ?」
でも方違さんは猫みたいに無言で、僕の布団にもぐりこんできた。
僕の隣に横になり、僕の胸に顔を押し当てながら、僕の背中に腕を回して、方違さんはぎゅっと力を入れた。
僕は最初、なるべく全身が密着しないように必死で腰を引いていたけど、彼女はほんの少しでもすき間を作りたくないっていうみたいに、冷たいような、熱いような体をぴったりとくっつけてくる。お互いの体の形を隠しようもないくらい。
なんだよ、もう。知らないよ。方違さんが悪いんだからね。
僕は両腕と両脚で彼女の小さな体をがっちり捕まえて、甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
方違さんは深い、長いため息をついて、僕の体操服の胸の名前の刺繍のあたりに鼻とくちびるを押し付けた。
彼女の息で僕の体操服は温かく湿り、僕らはもうそれ以上一ミリも身動きできないまま、ただ固く抱きしめあっていた
百年ぐらいが過ぎた気がした。
どこかで、なにかの音がした。
「どうして、飛行機に乗っちゃいけないの?」
と僕はたずねた。
「手紙に書いてあった」と方違さんは答えた。「あのオバサンの……もうひとりのわたしの」
「まもるを絶対に飛行機に乗せるな、って?」
「ん……そう」
「もしかしたら、あのひとの知ってる未来の僕は、飛行機に乗って……なんて言うか……つまり、帰ってこなかったんじゃないのかな?」
彼女は僕の胸で小さくうなずいた。
「わたし、ひどいことしたよね。一年前、目隠しまでして、まもるくん、嫌だって言ったのに、無理やり……もし……もし、あのとき……。わたし、もうちょっとで……」
「どうしてさ。あの時は、方違さんが励ましてくれて、おかげで帰ることができたし、それで僕たちは友達になれたんだから、すごく感謝してるよ」
「でも……」
「今までのことは何も問題ないし、未来は可能性の世界だから変えることができる。そういうことだよね? たとえば――別の人と出会ったもうひとりの方違くるりもいれば、僕と出会った君もいるみたいに」
「うん……」
「安心して。僕は絶対に、約束は守るから」
「ほんと……?」
方違さんの涙が、僕の体操服に温かく広がっていく。僕は汗の浮かんだ彼女の額に頬をくっつける。僕らはまるで融けてまじりあってるみたいだった。
「僕は、あのひとのまもるじゃなくて、君のまもるだからね」
「ん……」
「ずっといっしょにいるよ」
彼女はくちびるの先で僕の体操服を軽くくわえて、そのまま身動きもせず、また眠りに落ちていった。
僕はそんな火曜日の方違さんをしっかりと抱きしめながら、障子窓が少しずつ明るくなってゆくのをただ眺めていた。
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