12-2 一年前に来たときのまま

 天窓から階段を降りて食堂に入ると、中は一年前に来たときのままで、油煙で黒く汚れていた。壁にはられたメニューの紙もやっぱりほこりと油で茶色くなっててほとんど読めない。

 方違さんは立つことはできたけど、歩くと右足首がひどく痛むらしい。

 僕に腕を支えられながら降りてくる彼女に気づいて、汚いエプロンをしたおばあさんが気の毒そうな顔で出てきた。


「えらい音がしたと思ったら、落ちたなかね?」

「すみません、この子、足をひねっちゃって。ここで休ませてもらってもいいですか」

「もちろん、かまわんさね。座って何か食べて行きなね。名物の天つゆ丼はどうさね」

 あんまり気が進まないけど、何も食べないで休ませてもらうわけにもいかない。方違さんは天つゆ丼を、僕はカレーうどんを注文した。


 椅子に座って落ち着くと、方違さんの顔色も少しましになった。

 おそるおそる靴下を脱いでみたら、真っ白な足首が少し赤く、そして青くなっている。

「その足で、さっきのはしごを登るの、無理じゃないかな」

「だいじょぶ」方違さんは痛みに顔をしかめながらも、きっぱりと言った。「いっしょに電車で帰ろ」


 カレーうどんはカレーの味もうどんの味もしなかったけど、彼女の天つゆ丼は「天つゆとお米の味」でおいしかったらしい。時々ちょっと眉をひそめながらも、体も温まったようで、方違さんは少し元気になった。

 骨折まではしてないみたいだ。これなら、なんとか夕方の電車に乗ることができるかもしれない、と僕は思った。


   ◇


 お昼前ごろだろうか、おばあさんが見覚えのあるチケットを二枚持ってきた。

「あんただち、そろそろ行きなね。スカイライナーは午後は飛ばないからさ。ほれ、切符」

 方違さんがぴくっと反応して、僕をかばうみたいに片腕を伸ばした。

「わたしたち、それには乗りません」

「僕らは夕方の電車を待ってるんです」

「夕方の?」おばあさんは驚いた顔で言った。「そんななは、もう何十年も前に無くなったよ」

「……えっ?」

「汽車は朝の一本ぎり、来て、帰るだけさね。スカイライナーに乗らんのなら、明日の朝の汽車さねえ」


 しばらくこの食堂にいても構わないけど、夕方五時には閉めるとおばあさんは言う。

 どうすればいい?

 たとえはしごを登れたとして、あの吹きさらしのプラットフォームで朝を待つのか? 日付が変わればなんとかなるのかもしれないけど、それにしたってあと七時間もある。


 僕は方違さんを見た。くもり顔で、すごく何か言いたそうに僕を見ている。

 でも方違さん、方法はひとつしかないと思うよ。


「切符、ください。一枚だけ」

「まもるくん?」

「大丈夫。これは方違さんの分だよ。僕はここに残って、なんとでもするからさ」

「だ、だめだよ!」財布を出そうとした僕の右手を、方違さんは両手でつかまえた。「わたし、やだ。ひとりじゃむりだよ……」

「でもそれじゃ、明日まで帰れないよ」

「いいよ、それでもいい」

「方違さん……」


 両手を握りあった僕らをあきれたような顔で見下ろしながら、おばあさんが言った。

「あんただち、そんなこったら、カルタ屋に行ってみればいいさね」

「カルタ屋?」

「あすこで待つといいさね。昔からあるでね、みんな知っとるよ」

「そこって、僕らも入れますか。お酒を出すようなお店じゃないんですか」

「入れるか、どうかね。行って聞いてみなね」


 おばあさんは日めくりカレンダーを一枚破って、裏に鉛筆で地図を書いてくれた。

 一見わけが分からなかったけど、説明を聞いて理解できた。僕はこの縦浜を、岩にへばりついた垂直の街だと思っていたけど、それだけじゃないらしい。その「カルタ屋」という店は、稲荷横丁という、崖の中に掘り込まれた洞窟のような商店街にあるらしかった。


「ここから近いさ。上り下りも無いし、足をくじっとっても、まあゆっくり行けなば大事ないなね」


 おばあさんにお礼を言って、僕らは食堂を出た。外では相変わらず風が吹いている。

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