第53話





「あんた、一体綾になにしたんだ? 瀬希皇子?」


 ジロリと睨む朝斗に瀬希は冷や汗を拭う。


 あの川の氾濫のせいで起きた事件で、瀬希と綾都の仲はギクシャクしていた。


 というかどちらもがお互いを意識してしまって、不自然な距離を空けているのだ。


 手が触れただけでお互いに飛びのく始末。


 瀬希はなんとか冷静さを保とうと努力しているのだが、あのときの「口接け」を過剰に意識する綾都が可愛くて、こちらの方まで意識してしまう。


 そのせいで綾都を意識せずに振る舞うことができなくなってきているのだった。


 こうなると周囲を誤魔化すのは無理である。


 瀬希と綾都の様子がおかしいということなら、華南から一緒にきた面々ならだれもが知っていた。


 当然だが朝斗には一番にバレた。


 誤魔化そうにも不自然な関係のままでは誤魔化せない。


 瀬希にできることと言えば口を噤むことくらいである。


 アレクやウィリアムなどは、ふたりの間に亀裂でも入っていたらいいのにと、希望的観測を抱いて見守っている。


 何故希望的観測かと言えば、綾都の態度は瀬希が嫌いになったとか、そういった類の態度ではないからだ。


 逆に彼を意識して普通に振る舞えなくなっているように見える。


 だから、その危惧が外れていればいいのにと、希望的観測を持っていたのである。


 経験の差か。


 ふたりとも綾が未経験なのはわかっていたので。


 わからないのは瀬希の経験の有無だ。


 これまでの瀬希の言動から判断すれば彼が経験済のわけがない。


 まだ男も女も知らない。


 そう思うのが普通なのだろうが、それにしては瀬希は、ほとんどそういう意味で取り乱さない。


 どんなに妖艶な美女に誘いをかけられても平然としているし、寝台の読いをかけられても平気な顔で断る。


 つまり未経験故の隙が全くないのだった。


 そのせいで経験豊富なふたりにも瀬希の経験の有無がわからない。


 と、なると本当に綾都が未経験かということにも、多少の疑惑は残る。


 予感が当たっていると言じたいから、ふたりとも瀬希の経験の有無については気にしている。


 そんな状況なのだ。


 子供子供していた綾都の突然の変貌には、だれもが注目していた。


 当然だが兄の朝斗には弟の変化は一目瞭然である。


 その理由が瀬希を意識しているからだということもバレバレ。


 子供だった綾都がなにかをして彼を意識するということはありえない。


 となると瀬希の方が綾都になにか意識するような真似をした、ということで、それで不機嫌になっているのだった。


「いつまで黙秘するつもりだよ? 男なら正々堂々と言えよっ!」


「兄だから弟のことが気掛かりで怒るのはわかるが、わたしはなにもしていない」


「そんなわけあるかっ!」


 朝斗と瀬希の仲が気になると露骨に訴えてくる眼差しに朝斗は落ち着かない。


 そんな邪推をされる心当たりは朝斗にはない。


 つまり瀬希にあるということで、邪推したくなる心境の変化を、彼が綾都に与えたのだ。


 いい加減に吐けっと朝斗は呪い殺しそうな眼で睨む。


「じゃああんたの側室として問いかけるよ。綾となにもなかったのか?」


 こう言われるとまた黙秘するしかない。


 瀬希にしてみればあれは「口接け」ではなかったし、ただの「人工呼吸」であり「人助け」である。


 だが、綾が「口接け」だと思っているなら否定はできない。


 頑なに口を味む瀬希に朝斗は深々とため息。


「身に覚えがあるんだな?」


「ないと言っても朝斗は信じないんだろう?」


「ないと言い切れるなら、事情説明くらいできるはずだろ。どうして綾の態度がおかしいのか。言えないのか? それって疾しいところがあるって証拠だろ」


 どう言っても納得しない朝斗に、これ以上黙っていると既成事実があったと判断されそうで瀬希も等々観念した。


「大神殿を見に行っている綾の護衛をしていたときだ。急に川が氾濫して」


「それで?」


「綾が川に飲み込まれて、わたしはとっさに助けに入った。なんとか助け出したんだが、助け出したときにはすでに呼吸が止まっていて」


「冗談だろ?」


「だが、事実だ。それでとっさに人工呼吸をして助けた。本当にそれだけなんだ」


「人工呼吸」


「兄なら薄々悟っているだろうが、どうも綾は人工呼吸すら経験がなかったらしいな。わたしはあれは人助けだと説明したんだが、綾は口接けだと言い張った。それでわたしを意載してい

るんだ」

 

 これが本当なら綾都が瀬希を意識する動機はわかる。


 キスされたと思っていたら、それはまあ純粋な綾都のことだ。


 自分にキスしてきた瀬希のことが気になって、つい意識してしまうのだろう。


 キスしてきたのなら綾都のことをどう想っているのか、もうひとりの側室の朝斗との仲はどうなのか。


 気にしても不思議はない。


 納得できないのは口接けではないと言い切った瀬希の態度だった。


「ただの人工呼吸だったと言い切れるなら、なんだってあんた綾を意識してるんだ?」


「あれは綾が悪い!」


「なんで後が悪いんだよっ? 未経験なんだ。気にして当たり前だろうがっ!」


「本当に人助けで深い意味はないんだ。ただの人工呼吸だったんだ。なのに過剰に意識し普通に振る舞えない綾をみて、普通の男は平然としていられないと思うぞ?」


 人工呼吸をキスだと意識して、ろくに普通に振る舞えない綾をみたら、普通は可愛いと感じてしまうから、その気がなくてもつい意識する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る