運命的な口論
健太と礼子は、出会ってから今日までの期間はまだ一月にも満たないものの、その間の交友は実に濃密なものであった。晩酌会や夕飯を一緒に食べたり、礼子の愛猫であるカルパスの失踪騒動だったり、思い出せば楽しい記憶の数々だった。そして、穏やかな毎日だった。
そして、初日は酒を飲みすぎて未だあの日の記憶は混濁していた。
だからだろう。
健太が、あの衝撃的な出会いをすっかりと忘れていたのは。
優の言う身の潔白をしろ、という問い。そして、礼子とこれからも晩酌会を続ける上で優という障壁を突破しなければならない現状で、健太が思い出したそれはあまりに致命的な一打だった。
バレたらまずい……!
冷や汗を掻きながら、それを悟られないようにしながら、健太はそれを悟り心臓を高鳴らせた。
優は、未だ健太に向けて訝し気な目で見ているものの、多少は頭の中の整理が付いたのか、これ以上の体方面の詰問はしないつもりらしかった。
「まあ、いいでしょう」
バレないように、健太はため息を一つ吐いた。
「ただ、吉田さんとはあまり過度な交友は控えて頂きたいです」
さっきあんた友人関係なら文句ないって言ってたやん、と思ったが、過去を掘り返すと健太もバレたくないことを掘り返されそうで、それは言わなかった。
「わかった。ちなみに、過度な交友ってどのくらいですか?」
「そうですね」
顎を手に当て逡巡し、
「とりあえず、晩酌会は良くないですね」
「なっ」
それではさっき買ってきたビール、一人で空けろと言うのか。
健太は優に、歯向かうことを決意した。
「あの人、あの晩酌会を毎日楽しみにしてるんだぞ? そんな酷いこと、してやるべきではない」
「毎日お酒を飲んで、体に悪いでしょう」
ぐうの音も出なかった。確かに健太も、毎晩の晩酌は正直体に堪えていた。
「じゃあ、せめて二日に一回か」
「むしろ、今後は一切控えてください」
横暴な優の言い振りに、健太は再び歯向かうことを決意した。
「夜の遊びなんて、もしマスコミにバレたら何を書かれるかわかったものじゃありません」
しかし、歯向かう前に優がそう続けて言った。
「ただの健全な晩酌会だ」
「もしあなたと吉田さんの晩酌会の写真を撮ったとして、マスコミが本当にそう書くと思いますか?」
健太は、口をつぐんだ。
「マスコミというのは、他人に寄生することでしかお金をもらえません。低俗な連中です。そんな連中が、吉田礼子と男のスキャンダルだなんて、健全な仲と書くはずがないでしょ」
優は、マスコミに対してあまりに酷い言い方をしたが、健太はマスコミの仕事にも理解を示していた。
いつかの鶴見との会話を、健太は思い出していたのだ。
与えられた仕事をこなすため、邪だろうがなんだろうが、必死にタスクをこなす姿は、万人共通でどうしても憎むことが出来なかったのだ。
ただ、
「……あたしの知り合いも、そうやって何人も沈んでいったんです」
憎々しく恨みの籠った優の顔を見ると、健太の想いは口から漏れ出ることはなかった。
「あなたの言いたいことはわかった」
しかし、健太は鶴見との会話を思い出したから、譲れない部分は主張する決意を固めた。
優は今、有給にも関わらず仕事をしに、健太の家に足を運んだ。マネジメントする礼子をマスコミから守る、という仕事をこなすために、彼女はここにいる。
だから健太は、礼子の友人として、彼女が再び寂しい思いをしなくて済むように、働こうと思ったのだ。
「でも、それじゃあ吉田さん、逆戻りになってしまうぞ。彼女の気持ちも汲むべきだ」
友人である礼子の感情を主張し、晩酌会を続けるべきだと言う健太。
「駄目です。彼女が今出演しているCMの本数は二十近い。もしスキャンダルでもあってCMが打ち切りになって、スポンサーに違約金でも払えと言われたらどうするんです。違約金は数億近くにのぼるでしょう。普通、違約金は会社とタレントが折半します。数億の財産を手放した後……そうなった後彼女は、スキャンダルのせいで、もう女優業を続けられなくなっているんですよ? どうやって彼女は暮らしていけばいいんです」
対して、彼女の将来のため、晩酌会は止めるべきだと言う優。
どちらが正しいか、と言えば、恐らくどちらも、正しい。
ただ、金の話になって、健太は思わず口をつぐんでしまった。それだけの巨大な額は、会社では何度も聞くが、プライベートでは早々聞き慣れない数字だった。
健太は、自分の考えが甘かったのかも、と少し考えていた。完全に優に気圧されていたのだ。
しかしまもなく、健太は首を振って考えを戻した。
「吉田さんの意見を聞くべきだ。彼女自身の人生なんだから、そうするべきだ」
そもそもの話、これは礼子の今後を決める話なのだから、当人不在で部外者があーだこーだ話すことはあまりにも無意味だと思ったのだ。
「……そんなの」
優は、健太の意見が不服だった。
「そんなの、あなたを選ぶに決まってるじゃん」
「何か言ったか?」
優の囁きは、健太の耳には届かなかった。
「わかりました。そうしましょう」
優は、凛とした態度を曲げずに言った。
何とか敗北せずに済んで、健太はため息を吐いていた。礼子に何も言わずに彼女と疎遠になるのは、あまりにも寝覚めが悪かった。
健太はわかっていた。
彼女が有名人である限り、今のような話は必ず沸いて降ってきて。そうして今のように、諦めざる日が来ることを。
礼子と、別れる日が来ることを。
健太はその日を、自分から選択することはしたくなかった。せめて、礼子に選んでもらえたら、その方が健太も、後悔せずに済むと思っていたのだ。
「吉田さんは、今日テレビ局に直接向かうそうだ」
「知ってます。あたし、彼女のマネージャーなので」
ツンとした様子で、優が言った。
しばらくの無言の後、優はソファから立ち上がった。今日、礼子が帰ってこない以上、これ以上健太の部屋にいる意味がないと思ったのだ。
そして健太も、割り切れない思いしかない今、早く優にこの部屋を立ち去って欲しかった。
ピンポーン
しかし、そうも行かない事情が出来た。
「どうぞ」
優の言葉に頷いて、健太はインターホンでチャイムに応じた。
来客は……。
『あ、岩瀬さんですか?』
その声色に、健太は聞き覚えがあった。
優もあった。
「……吉田さん?」
『はいっ』
快活な声が、インターホンから漏れた。
「どうして……。あなた、今日はテレビ局に直接行くって」
健太の気は、少し動転していた。声が震えていた。
『……ふふっ。お土産渡したくて、一旦帰ってきちゃいました』
事情を知らない礼子の声は、底抜けなく明るかった。
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