もう一度人生を好きになる



 会社から二駅程離れた場所にある喫茶店は、今時は珍しく全席で喫煙ができる店だった。

 課長は店内の座席に着席してから常に煙草を蒸していた。煙草を吸わない彰の前で副流煙を撒き散らす様は、彼の彰に対する態度の全てを端的に表しているようだった。


「久しぶりやな。少しは元気になったか?」


 彰の上司は、今目の前にいる人事総務部の課長である。何らかの理由で長期休暇をとっている社員との面談は、この課長の仕事であった。彰が心を壊した大きな要因の一つが、この課長の言動であることは彰にも分かっていたし、社内の人間も、そして課長本人も分かっていた筈である。その当人が彰の面談を担当することについて誰も疑問に思わなかったのか、彰には不思議でならなかったが、そういう会社なのだと改めて理解した。


「今日は、これを提出しに来ました」


 彰は鞄から二つの書類を取り出した。心療内科で発行してもらった適応障害の診断書と、退職届だった。


「⋯⋯そうか。まぁ、無理やろうな。お前が会社を休んでからかなり経つし、今からやっても色々と追いつかんやろう」


そう言って火を消したかと思えば、課長はまた新しい煙草を取り出した。


「どうすんの? これから」


これからどうしようと、貴方には関係ない。心の中でそう言い返した彰は、それを口にする勇気がない自分に呆れつつも、それでも課長に対して怒りを感じたことで、「生きている」と思えた。


 おかしな話だが、このとき彰は人が感じる当たり前の感情を、少しだけ取り戻せた気がした。

 休職期間中には何度か課長と会った。会う日は必ず吐いていたが、この日は吐かなかった。何がきっかけだったのかは分からない。多宝寺へ行ったことか、仕事から長く離れたことが良かったのか。理由はどうであれ、チャンスだと彰は思った。己の感情を取り戻し、もう一度前を向くチャンス。


 面談は僅か十五分程で終わり、課長は早々に彰の前から消えた。休職したまま退職となる彰とは、もう会うことがない人だった。最寄り駅の改札で課長を見送った彰には、彼が彰の視界から消えたことが、自分自身の将来の何かを暗示しているように思えた。





 面談を終えて帰宅した彰は、クローゼットの奥に仕舞っていたノートを取り出した。それは彰が学生時代に、不定期に書いていた日記だった。日記は、大学を卒業する少し前に途切れていた。

 彰は最後に記された日記の続きのページを開き、課長と面談したこと、課長の言葉に腹を立てたことを書いた。ノートを閉じると、今度はスマートフォンを手に取り、メモアプリを開いて文字を打ち始めた。


 この日、彰は自分の感情が動いたことが何か特別なことのように思った。人として当たり前だけど、絶対に忘れてはいけない感覚。それを忘れないために、何かに自分の心を残していかなければならないと思った。

 これから、日記は書いていくつもりだった。しかしそれだけでは、自分の全てを記録に残せない気がした。彰は自分自身の人生の記録を、物語のように残したいと考えた。


 メモアプリには、文字が次々と打ち込まれていく。彰は、何かに取り憑かれたように文字を打ち続けた。自分の心の中で動く、あらゆるものを拾い続けた。今日の出来事、昨日の出来事。それよりも前に、過去に起こった出来事。その中から、彰の心の中で動いたものを全て、言語化した。


 彰は、エッセイという形で、心の輪郭を描き始めた。

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