深淵


「転職するなら、どんな会社がいいの?」


 入籍を済ませた彰と紗椰は、今後の生活のために必要なあれこれを話し合っていた。


「結婚式もしたいなぁ。新婚旅行はハワイがいいな。いいやろ? ハワイ」


「そやな。でも、今の俺の稼ぎやと無理やな。転職しても、そんな急にお金は貯まらんしな」


「二人だけで挙式をあげたらいいやん。それやったら、挙式のシーズンを外せば百万ちょっとでハワイに行けるよ」


 この日は雨ではなかったが、紗椰が花粉症のなので洗濯物を部屋干ししていた。乾くのに時間がかかるため、二十二時過ぎになってから紗椰が洗濯物を畳んでいた。その横で彰は、スマートフォンで転職サイトの求人情報を漁っていた。


「ハワイかぁ。せっかくやし、行きたいよな。お金どうしよう。一年くらいは貯めないと。でも行くなら早く行きたいし⋯」


 彰が話しながら紗椰の方を向く。つい先程まで明るい声で会話していた紗椰は、洗濯物干しの前で俯いていた。彰の位置からは、紗椰の横顔が見える。

 紗椰の頭がゆらゆらと揺れていた。目は、瞑っている。いや、少し、開いている⋯?


「紗椰?」


 彰の呼びかけに、返事はない。頭の揺れが大きくなり、やがてバランスを崩した。


「ちょっと、紗椰、どうした?」


洗濯物干しの方へ倒れ込む紗椰を、彰はギリギリのところで支えた。


 紗椰の目は虚ろだった。彰が呼ぶと、紗椰はその目を彰の方へ向ける。だが向けるだけで、彰を彰として認識しているかどうかもわからない。彰の方を見ているが、彰よりももっと遠くを見ていた。そして何やら、ブツブツと、独り言のような、意味不明な言葉を呟く。







──低血糖だ。







 彰は、紗椰の様子を二分ほど見て、判断をした。

 二分。遅すぎる判断だった。


 紗椰は、重度の低血糖を引き起こしていた。インスリンを打ち過ぎると血糖値が下がって低血糖を引き起こすことは、事前に聞いていたことだった。また、彰はその場合に意識がなくなるという認識をしていた。それは間違いではないが、夢遊病のような状態になることがあるのは知らなかった。


 思考が停止してしまった。冷静に考えれば、一型糖尿病の紗椰が倒れる原因は、高確率で低血糖が原因であるはずなのに。そして、低血糖だと判断したこの瞬間も、彰は次の行動を起こせず、ただ必死に紗椰を起こそうと呼びかけていた。

 他にやるべきことはあるのだ。そのやるべきことを、彰は知っている。知っているのに、すぐさま行動に移せない。足が竦む。






 何もできない彰を軽蔑して置いていくように、紗椰は去っていく。

 



 堕ちてはいけない夢の中へと、深く沈んでいった。








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