#4

 いつもなら、時間に余裕をもたせて学校へ着くけれど、さっきのことがあったせいで、遅れそうになってしまった。

 わたしが通う中学校の正門は少し狭くて、その横の陰っている箇所にも紫陽花がたくさん咲いていた。あの小学校と同じ、フェンスから抜け出すようにして咲いているのだ。

 そんな紫陽花を気にかけているのは、わたしだけかもしれない。だって、登下校のとき、他のどの生徒も紫陽花を見てはいないから。

 ある日の夜、母親と一緒に買い物から帰る途中に信号待ちをしていると、きれいな満月が夜空に浮かんでいた。そのまま視線を下ろしてまわりを見れば、誰も夜空を見上げてはいない。大人たちの誰もが、スマホの画面か横断歩道の先を見ているだけだった。

 うまく説明はできないけど、そのときの大人たちと同じような理由で、他の生徒たちは、この紫陽花を見ようともしないのだろう。

 紫陽花の前で少しだけ速度を緩めてから、わたしはふたたび足早に校舎へと急いだ。


   * * *


 終礼後の清掃活動。

 いつもは面倒に感じるだけのモップがけ。

 でも、今日のわたしは、急になんだか床掃除が面白くなってきて、熱心に廊下を研きあげていた。

「おっ、偉いぞはす丸山まるやま! おまえはもっと、真面目に掃除しろ!」

 通りがかった数学の先生がそんなわたしを誉めてくれたかと思えば、同じクラスのムードメーカーの丸山君を怒鳴りつける。

「なんだよ先生。おれだって、ちゃんと拭いてるじゃんかぁ!」

 雑巾を動かす手と連動して、丸山君はなぜかお尻まで左右に振って見せる。そんな姿に、周囲の同級生たちとわたしは大爆笑した。

「おい、おまえ……拭くのはいいけどなぁ、尻まで振るな!」

 先生はそう言ってから、手にしていた教材で丸山君のお尻をパチンとたたく。

 よりいっそう大きくなった笑い声につつまれるなかで、わたしは今朝の少女の笑い声を思い出していた。

 今日は部活が休みなので、早く家に帰りたかった。けれど、下校中に彼女にまた会うかもしれない。そのときはどうしよう……やっぱり、時間をずらして帰ろうかな……そう考えながら用具入れにモップを片付けて、誰よりも遅く教室へと戻った。

 帰る時間をずらすとはいえ、あんまり遅くなるのも嫌だし、学校にも長くはいたくない。帰り支度をしながら何度もため息をつくわたしに、友だちの美羽みうが声をかけてくれた。

「ねえ茉莉子まりこ、一緒に帰ろうよ」

「あっ……うん!」

 ふたりなら寄り道もしやすいし、もし彼女に遭遇しても大丈夫なはず。それに、美羽とおしゃべりをしていれば、わざわざ絡んではこないだろう。

「ねえねえ、あのさぁ」

 長話のきっかけにどうでもいい話題を振りながら、わたしは机の横に掛けていたトートバッグを掴んだ。



 美羽と一緒に校舎を出て正門を抜ける。

 すぐそばで咲く紫陽花を横目で少しだけ気にしつつ、美羽に途中のコンビニへ寄らないかと誘いをかけてみた。

「んー、どうしようかな……これから夏だし、ダイエットしたいんだよね」

「美羽ってスタイルいいのに、まだ痩せるの?」

「んー、実はさぁ、丸山君たちに今度の夏休み、海へ行こうって誘われてるんだよね」

 丸山君の名前を聞いて、さっきのお尻を振る姿がフラッシュバックする。思わず鼻で笑ってしまい、すぐにヤバイと思ったけど、美羽と目が合った。

「あっ……でもさ、痩せ過ぎもよくないんじゃない?」

 なんとか自然に話題を変えたいけれど、どうやって流れを変えればいいのか、正解がわからない。そんなとき、タイミングよくわたしのリュックサックのなかで着信音が鳴り響いた。ラッキー! 助かった!

「ごめん、なんか電話みたい」平静を装いながらスマホを取り出してみると、知らない名前からの着信だった。もちろん、登録した覚えのない名前の。



 通話着信 波瑠花はるかちゃん



「えっ? なにこれ……」

 怖い怖い怖い!

 波瑠花ちゃんって、いったい誰なのよ!?

「どうしたの? 出ないの? なんか、顔色悪いよ?」

 画面を見つめて固まるわたしに、美羽が怪訝けげんそうな顔でたずねてくる。

「あのね、美羽──」不気味でとても奇妙な出来事を説明しようと、スマホの画面から顔を上げた、まさにそのときだった。

「いたいた、おーい!」

「えっ?」

 そのまま振り返れば、私立女子中学校の制服を着た少女が、スマホを握った手を大きく振って元気よく近づいてくる。

 間違いない、〝彼女〟だ。

 あのとき──わたしのスマホをいじっていたのは、自分の携帯電話の番号を登録してたんだ。その証拠に、発信履歴にも波瑠花の名前があった。

「あの子、茉莉子のお友だち?」

 違うと否定するよりも早く、駆け寄ってきた波瑠花がわたしの右手を勢いよく掴んだ。

「ごめんね、なんか道に迷っちゃってさ」

 笑顔でそう話しかけてくるけれど、もちろん何のことなのか、わたしにはさっぱり理解ができない。マジで意味不明だ。

「じゃあね、茉莉子。わたし先に帰るから」

 そんなわたしの心情を知らない美羽は、気を利かせてくれたようで、にこやかに手を小さく振りながら帰っていってしまった。

「あっ、美羽……待って!」

「まーりーこーちゃーん」

 去り行くクラスメイトを引き止めようとするわたしの手を、波瑠花が強く引っ張って制止する。細い腕なのに、なかなかの力だ。

いたっ! ──ちょっと、もう!」その手をわたしは、さらに強い力でほどいた。

「なんなのよ、いったい……なんなのよ、もう! あなたってさ、ストーカーなの!? 気持ち悪いんですけど!」

 痛む手首をさすりながら、波瑠花を睨みつけてやる。

「ごめんね、痛かった? わたしって結構力持ちなんだよね」

 そう言って黒い革製の学生鞄をまさぐると、キャラクター物の可愛い長財布が出てきた。

 波瑠花はそのなかから、よれがひとつもない綺麗な1万円札を取り出して、頬笑みながらわたしに手渡そうとする。

「はい。慰謝料」

「……なにそれ? 意味わかんない」

「だから、慰謝料。手首、ケガしちゃったんでしょ?」

「ケガ? こんなのケガの内に入らないし、大丈夫だからお金なんて要らない。早くしまってよ、それ」

 中学生が1万円札を持ち歩いているなんて。波瑠花は、裕福な家の子供なのだろうか。だとしても、お金を見せびらかすのはよくないし、そんな人間をわたしは好きになれない。

「ふーん、わかった。でも、茉莉子ちゃんがケガしてなくて、ほんとうによかったよ」

 そう言いながら波瑠花は、笑顔で1万円札を長財布にしまう。

 その隙をついて、わたしは全力で走りだした。

 つきまとわれる理由に心当たりはないけれど、とにかく今は逃げるしかない。同い歳くらいの女の子でも、危ないヤツは危ない奴だ。これ以上関わったら、何をされるかわからない。

 そもそも、波瑠花がわたしに絡んでくる目的って何? 今朝の仕返しに怒ってる?

 息を調えながら、ゆっくりと歩いていくら考えてみても、答えは結局みつからなかった。


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