私達にも安寧な生活を!

枯木えい

00-pr はじまり




 荒天。


 私達は待ち続ける。

 失ったあなたが帰ってくるその日を。


 晴天。


 私達は仰ぎ見る。

 それがあなたが帰ってくる兆しだと願って。


 曇天。


 私達は息を呑む。

 雨音に紛れて、あなたが現れるその瞬間に。


 おかえりなさい、おかえりなさい。

 やっと、あなたは帰って来た。

 ここは、あなたが願って生み出した理想の世界。


 行かないで、行かないで。

 私達の手を取って、早く扉のこちら側へ。

 こちらを見て、忘れないで。


 忘れてしまうというのなら、その記憶が溶けてしまう前に、失ってしまう前に。

 それを本にして、綴って閉じ込めて。

 あなたがいつか振り向いてくれたその時に、ちゃんと返せるように。

 きっと、帰ってくると信じているから。


 きっと、いつかあなたが神様になるのだと信じているから。






 ◇ ◆ ◇






 雨粒が、辺りの草花の葉に落ちて穏やかな音を立てていた。

 果ての見えない高原を包むように、覆い尽くすように。


 空を隠す曇天が、薄暗い影を落として彼女を隠した。

 ただ仰向けで横たわって、全てを放棄することを認めたように。


 いつからそこにいたのか、何故そこにいたのか。

 それを考える気も湧かないまま、彼女はただ空を眺めていた。


 何か、心に穴が開いた気はしていた。

 ただ、その大きく空いた虚に一体何があったのか、それは思い出したくなくて。

 思い出したら耐えられなくなる気がして、彼女はひたすら考えることを放棄した。




 ―――誰かに、呼ばれている気がしていた。

 女性の声。

 おいで、おいでと手招きをするように、彼女を呼ぶ。


 それにつられて力なく体を起こせば、そこに見えたのは光の無い空間。

 暗闇とも言い難い、『無』と呼ぶほかないその何かは、彼女には何処かへと繋がる門に見えていた。


「―――ああ、そうだ、思い出した」


 それは夢の中で惑うように見た一抹の記憶。

 彼女は、今までの数千年を懐かしむようにそれを見て。

 終わりにするときが来たのだと、死へ向かうその門へ手を伸ばした。



 そんな彼女の夢を奪うように、目を覚ませと揺さぶるように。

 横から現れたもう一人の少女が、彼女を力づくで押し倒していた。


 何かを訴えかけている。

 目を覚ませ、立ち上がれと泣き叫ぶ。


 何度叫ぼうとも答えないその少女を、二人目の少女は必死で腕に抱えて。

 引き摺るように、引き剥がすように。

 死に物狂いの様相で、その死の塊から遠くへと歩いて行く。


 これは、ある人々にとっては終わりの物語で。


 でも、今ここに居る二人にとっては、かけがえのない始まりの物語だった。






 まだ降りやまない雨が、力なく高原を濡らし続けている。


「―――ねえ、ねえ。答えて、お願い。聞こえてるでしょ、私を見て」

 しばらく歩いた先で腰を落とした彼女は、虚ろな目をした少女を抱き起すようにして、その顔を覗き込む。

 ずっと夢現な眼で、呆けたように目を泳がせていた黒髪の少女は、漸く少しずつ、正気を取り戻したように目の色を取り戻し始めていた。


「…」

 黒髪の少女は、先程から自分に声を掛け続けているもう一人の少女の髪に触れる。

 腰まで落ちたプラチナブロンドの巻き髪は、雨に濡れても尚その輝きを失わずに煌めく。

「…気が付いた?」

 そう声を掛けられても、黒髪の少女は夢心地のまま、目の前の少女の顔やら服やらを触って、自分の手の感覚を確かめ続けていた。


 呼びかけに応じる瞬間を待ち続けて、ブロンドヘアの少女はその執拗な接触を仕方なく受け入れる。

 何度か呼びかけて、黒髪の少女が答える時を待ち続けて。


 そのまま数分が経過して、堪え切れなくなった彼女は少し怒った様子で相手の手を掴み、顔を近づけた。

「ね、いつまで続けるのかにゃあ、これ!わたひだってそろそろ怒るよ!?」

「…へ?」

 そんな呼びかけを受けて、黒髪の少女は漸く、自分の目の前にいる人物が現実の存在であることに気付く。


「…夢じゃ、ない?」

「夢じゃないよ!ずっと声かけてるでしょ!」

 ブロンドヘアの少女は勢い余って、額をぶつけ合う程に前のめりになった。

 彼女の被る大きな庇のついた帽子が、黒髪の少女の視界にも影を落とす。

「わ、わ。ごめん、ごめん」

 そう謝りながらも、黒髪の少女は未だに自分の置かれた状況に困惑しているようで、しどろもどろに目を泳がせていた。


「え、えっと。君は…誰?」

 その問いかけに、ブロンドヘアの少女は頬を膨らませて黒髪の少女の腰をつつく。

「私は、エリアっていうの。ついさっき、あなたをよくわからない何かから救い出した張本人だよ、憶えてないの?」

「よくわからない何か…」

 黒髪の少女は、ついさっきまで自分が置かれていた状況を思い返す。

 数瞬考え込んで、彼女は漸く、目の前の少女―――エリアが自分を死ぬ寸前から救い出してくれていたことに気付いた。


「…」

 黒髪の少女は、無言でいきなりエリアに抱き付く。

「わひゃ!な、何!?」

「えっと…その、お礼っていうか、なんていうか」

「わ、わかった!わかったから、離して!」

 驚いて顔を赤くしたエリアは、慌てて黒髪の少女を腕から抜け出して後ずさりをした。


「…それで。あなたはどうしてこんなところに居たの。間違って迷い込んじゃったの?」

「ここはどこなの?」

「迷いの高原っていう、一度入ったら出られなくなる、結界領域だよ」

「迷いの高原…」

 ただ反芻するように、黒髪の少女は呟く。


 頼りない少女の様子に、エリアは困ったようにまた問いかけた。

「あなたの、名前は?」

「名前?私の名前は、ええと―――」

 そこで、少女は漸く、あることに気付く。

 自分の名前も、帰るべき場所も、彼女は何も憶えていなかったこと。

「…憶えて、ないや」

 そう答えると、エリアは少し目を見開いた後、何も答えずに目を逸らした。


 一瞬だけ、少女はまた先程までと同じ気分に苛まれた。

 ああ、やっぱり、あのまま先刻の門に足を踏み入れてしまえばよかったかな、と。



 雷が、ひとつ大きな音を立てる。


「ひぃっ!?」

 エリアは反射的に、身を守るように地面に伏せた。

 その様子を見て、黒髪の少女は漸く、彼女が先程からずっと怯えていることに気が付く。


 思い返せば、彼女の手はずっと震えていた。

 黒髪の少女と同様に、恐らくは一人でこの果てしない高原を歩き続けて。

 雷に怯えながら、そんな状況の中でも、死の塊に呑まれそうな見ず知らずの少女を助け出して。


 そんな彼女もまた、ずっと誰かに助けを求めていたのだということに気が付いて、黒髪の少女は自分の希死念慮を抑えつけて笑いかけた。


「…私の名前は、まあ、そのうち思い出すよ。きっと、この雨もじきに止む。そしたら、一緒にここから抜け出そう。それぞれの家に帰るんだ」

「…うん」

 今度は、黒髪の少女が肩を抱いても、エリアが逃げ出すことはなかった。



 行こう、と声を掛けて二人は立ち上がる。

 彼女達の背後で、何かが動く音が僅かに聞こえた。


 エリアが咄嗟に振り向く。

「…なんで、また」

 彼女は恨めしくて仕方ない様子で、その視線の先にある者を睨みつける。

 黒髪の少女も同じように振り向くと、そこには先程の門と似たような、光を返さない『何か』の塊がそこに居た。


 影や暗闇と表現するしかないその虚無の塊は、恐らくは人ふたり分ほどの大きさ。

 丸々としたその輪郭は、手足の無いゴーストのようにゆらゆら蠢いていた。

 その実体があるのかどうかもよくわからない存在が、ゆっくりとこちらへ近寄ってきている。


「お願い、もう来ないで。逃げる力なんて残ってないの、空なんか飛べないの」

 泣きそうな顔で、エリアはそれに向かって懇願した。

 言葉など通じるはずもなく、その影の塊は少しずつ距離を詰めてくる。


「逃げよう!」

 黒髪の少女は、咄嗟にエリアの手を取って走り出していた。


 あれが近寄ってはいけないものだというのはわかる。

 ただ、走って逃げれば撒ける程度の速さでしか動かないのだと考えて、とにかく距離を取ろうとした。


 ―――ただ、そんな読みは当たることはなく。

 突如として至近距離に現れたその影は、見えない何かでエリアの身体を鷲掴みにして持ち上げていた。


「―――っ!!」

 エリアの手が、黒髪の少女から離れた。

 振り返る黒髪の少女と、宙に持ち上がりながら必死に手を伸ばすエリアの目が合う。


 気のせいか、影の塊は、口のような何かを大きく広げて、エリアを捕食しようとしているように見えた。


 エリアの口が動く。

「―――助けて」



 そこから先、黒髪の少女は我を忘れて身体を動かしていた。

 無意識の向こうで、閃光が走ったように見えて。

 その次の瞬間には、彼女はエリアを腕に抱いて立ち尽くしていた。


 気がつけば彼女は肩で息をして、遠くで藻掻く影の塊を睨みつけている。

 同じように息を切らしたエリアも、驚いた様子でそれを見ていた。

「ほえ。な、何、今の」

 そう呟いても、黒髪の少女も訳が分からないと言った様子で周りを見回す。


 少しずつ形を取り戻す影の塊の姿を見て、エリアは咄嗟に叫んでいた。

「と、跳んで!出来るだけ高く、真っ直ぐ上に!」

「へ、何、どういう事!?」

「いいから、思いっきり、ぴょーんって!」

「え、ええ」

「早く!」

 訳が分からない、と叫びながら、少女は強く踏み込んで、地面を強く蹴り飛ばした。


 瞬間、大地は勢いよく遠ざかって、目の前には霧のかかる空が広がる。

 二人はお互いにしがみつき合ったまま、空に跳びあがっていた。


 バランスを崩して、空中の天辺で二人はひっくり返る。

「うわ、うわわぁ!回らないで、回らないで!」

「そんなこと言われても!」

 なぜこんなにも高く跳べたのかもわからない彼女は、姿勢の維持など出来ずに空中で足をばたつかせる。


「どこ、どこ!どっち!?」

「何が!?」

「あばば、落ちるぅ!」

「エリアーーーっ!」

 つい先程は自ら死に向かっていた彼女も、落下死に対する恐怖感はしっかりと持ち合わせていた。


 心臓が持ち上がる感覚に、彼女は背筋を凍らせる。

 そんな中、エリアはある一点目掛けて腕を伸ばしていた。


「あった、見つけた!私の手、離さないでね!」

「え、何!?」

「曲がれ、曲がれ曲がれ曲がれ曲がれ!!」


 彼女がそう唱えると、二人に掛かる重力の向きが徐々に上向きに変わり始める。

「な、なにこれ!?」

「曲がれーっ!!」

 次第に落下の向きはかなり水平に近くなり、強く抱き合った二人はグライダーのように何処かを目指して進んでいく。

 エリアの持つ不思議な力で、二人は確かに空を飛んでいた。


 風を切る音が聴覚を鈍らせる。

 どこかへ、今よりずっと安全な場所へ。


 ―――ここから、何かが始まる。

 黒髪の少女は、不意に、子供心にわくわくしてしまっていた。


「凄い、凄い!エリア、魔法使いなの!?」

「え、えぇ!?いや、その!」

「あは、あははは!」

 そう叫びながら、彼女達は抱き合うようにお互いを引き寄せて、はぐれないように。

 果てしない空を、最高速度で駆け抜けた。




 気付くと霧は薄くなり、周りは背の高い木々に囲まれていた。

 果てしなく続く地平線はもう見えない。


「おわわ、やば、速っ!?止まれ、止まれ止まれ、止まってお願いーっ!」

「え、ちょ、もう地面、これマズいんじゃ―――!」

 減速のためにエリアが作り出した魔法陣を何度突き破っても、勢いはおさまりきらずに地面は接近してくる。


 黒髪の少女は慌ててエリアを強く抱きしめて、自分が下になるように着地姿勢を変えた。

 エリアの力で大分勢いは衰えたものの、それなりの勢いで二人は転がり落ちる。


「はぁっ、エリア、大丈夫!?」

 お互いに倒れ込んだまま、エリアが黒髪の少女の上に乗るような状態で互いに顔を見る。

 エリアの顔を隠す髪の毛を避けてその表情を見ると、どうやら苦しんではいないようだった。

 彼女は黒髪の少女の上から転がり降りて、横並びで仰向けになる。

「は、はひゃ、わたしいきてる」

「うん、私も生きてる」

 少々間抜な会話の後、彼女達は呆けてただただお互いの顔を見つめている。




「あは、あはははは」

 緊張の糸が切れて、エリアは急に笑い出す。

 遊び疲れた子供のように寝転げたままで、ずっと楽しそうに笑っていた。

「無茶苦茶言っといて、随分楽しそうじゃん」

 エリアは喋れないほどに笑っていて、思わず私も笑う。


 なんていうか、もう何でもいいや。

 ずっと、こうして笑っていたい、と、少女はそう思った。


 彼女の胸の痛みは、もうとっくに、どこかへ消え去っていた。



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