1-09 龍の本懐




 あの真っ黒な姿の女の子の事が、頭から離れなかった。


「忘れないで。あなたは、あなた」。そう言われて、何かが怖くなった。

 まるで、今の私が偽物だと言われているみたいで―――


 私は、一体何者だったんだろう。

 わからない、わからない筈なのに、今まで漠然と自分に対して不信感のような何かを感じ続けていた。

 エリアに会った時から、ずっと。

 ―――だから、あの門に入ろうとしたのだ。


 今も、私は自分のことを敬遠している。

 何を抑え込んでいるのかもわからないくらいに、『自分』というものを認識することを拒み続けていた。


 私は何がしたいんだろうか。


 わからない、わからない、わからない。

 でも、考えるのをやめたくない。


 今、考えるのをやめたら私は本当に私でなくなってしまうような気がした。


「璃空」


 驚いて顔を上げた。


 何処からその声が聞こえたのかと人混みの中に誰かを探した。


 道行く人の顔を見て、違うと気がついたらまた別の人を見て。

 次第に、誰を探しているのか分からなくなって。


 道端の縁石に座り込んだまま、人混みの向こう側を呆けたように眺め続けていた。






「リュック」


 何時間経ったかはわからない。

 彼女は、空が赤みがかるまでそうして遠くを眺め続けていた。


 目を向けた先には、エリアが居た。

 少し遠巻きに、いつもの笑顔で二人の姿を見守るマリーの姿がある。


「…」

 返事をしないリュックに、彼女は少し心配そうに顔を覗き込んだ。

「…どうしたの?大丈夫?」

「…」

 歩み寄ったエリアの顔を、リュックは無言でぺたぺたと触る。

「…夢じゃないよ」

「…うん」

 そう言いながらも、エリアは嫌がる事もなくリュックの様子を見ていた。


 初めて会った時の、どこか違う場所を見るような彼女の目。

 今それを振り解いたら、きっと彼女は何処かに行ってしまうと、そんな気がした。


 徐に、自分の頬にあてられたリュックの手に触れるエリア。

「帰ろう」

 そう言われて、リュックは静かに頷いた。


 そのまま手を繋いで、二人は歩き出す。

 背丈はそれほど変わらない筈なのに―――その日のエリアには、リュックの姿がいつもよりも小さくなったように見えた。


 何も言わずに、マリーは少し離れて前を歩く。




「―――ねえ、リュック」

 水路に掛かる小さな橋の上、エリアは低い縁石の上に乗ってバランスを取る。

「私、今、楽しいよ」

 そう言って笑うエリアの姿が西日と重なって、リュックは目を細めた。


 まだ、まだ夢の中のような気分が消えない。


 このまま、目の前のすべてが泡みたいに消えて、目が覚めたら見慣れた『何処か』にいるんじゃないかと、そんな気がした。


「うん」

 ただただ、笑いかけるエリアの顔を見つめ続けるリュック。

 その姿が本当に消えてしまいそうで、堪らなくなってエリアは彼女に抱き着いた。


 リュックはエリアに抱き着かれた後、少し遅れて彼女の背中と頭の後ろに手を回して抱き返した。

 エリアの髪の匂いが、彼女をこちらの世界へと引き戻す。

 ああ、この子が一緒に居てくれるなら、なんでもいいか―――


 そんな風に思いながら、彼女はまた自分を包み込む水の音を、風を感じるためにその目をゆっくりと閉じた。






 その夜、リュックはまた酷く寂しくなって。

 元々はソファで寝ると言っていた彼女だったが、その日はエリアの眠る部屋に枕を抱えて迷い込むように現れた。


「…一緒に、寝る?いいよ」

 今までの大人びた姿などまるで無かったかのように、不安に満ちた様子でエリアの寝床に潜り込むリュック。

 その姿を見て、なんだか妹が出来たみたいだな、とエリアは少し笑った。


 特に何かを話すわけでもなく、そのまま眠るでもなく時間だけが流れていく。

 お互いの顔色も見えない暗がりの中、ただ二人はお互いに身を預けてその時間を過ごした。


 子守歌のような、穏やかな鼻歌を小さく歌うエリア。

 意外と覚えているものだな、と彼女はいつかの幼い日を思い出して。

 そのままリュックが眠りに落ちるのを見守って、彼女も同じように穏やかに眠った。






 また、夢を見た。


 桜の咲く河川敷、私に笑いかける誰かの姿。

 穏やかに走る電車の中で、隣に座って外を眺める誰かの姿。

 夜の空に咲く大きな火の花を一緒に眺める誰かの姿。


 ―――私と手を繋いで花の咲く帰り道を歩く、小さな女の子の姿。


「また来ようね、お父さん」


 私は、私は―――。


 知らない記憶が、私の中には混ざっていた。


 私は、一体、誰?


 わからない、わからない、わからない。


 私は、私は、私は。


 一体、何者で、どこで生まれて、どうやってここに―――


 何も、わからなくなって。私は、沈むように夢を見るのをやめた。






 ―――おいで、おいで。


 ―――ずっとあなたを、探してた。




 そうだ、私は。

 あの日、あの人のことを。






 ◇ ◆ ◇






 時刻は深夜零時を回った。

 研究室の明かりは消え、作業机の電灯だけが部屋を無機質に、淡く照らしている。

 疲れに対して目は冴えて、ユアンはただ液晶の少し上を見上げて呆けていた。


「…」


 風のようにこの街へ現れた龍と魔女。

 彼の頭の中はずっとその二人のことで一杯だった。


 例の誘拐事件の跡、彼はセブレム代表としての務めを果たしながらも、事の顛末をクロや衛兵団から詳細に聞いていた。

 魔女であるエリアがその事件に巻き込まれていた事。犯人にその正体を知られてしまっていた事、リュックの助けが無ければ彼女達はロンドンまで連れ去られていたか、あるいは命を落としていたかもしれなかったこと。

 そして、リュックが自覚無き龍の力を今まで使っていた事。


 自身の業務の多忙さと相まって、彼の脳は些かオーバーフローを起こしていた。


「―――ただの偶然で、そう何度も龍人と魔女が出会うもんかね」

 そう言って彼は天井を見上げた。


 事件が起きて以降、カミヤにもエリアにもまだ顔を見せてすらいない。

 それが不義理なことであるとは理解していたが、彼には他にも通すべき筋が多くあった。

 自分の代わりにマリーの家まで出向いてくれたエドにも礼を言わないといけない。

 人質を助け出したリュックへも何か謝礼を用意したい。

 ああ、迷惑をかけたウルフセプトの面々にも何か詫びの品を用意しないと。

 これは組織の代表としての義務なのか、それとも個人としての礼なのか―――

 そうぐるぐると考えているうちに、また別のことが思考に割り込んできて、睡眠が足りていない彼の脳は次第に混乱し始めていた。


「…あと少しタスク済ませて寝るか」

「うん、今すぐ寝たほうがいいんじゃないカナ」

「…???」

 あ、半分寝てるな、今。カミヤの声が聞こえる。―――そう思って彼が横を見ると、

 そこには本当にカミヤが居た。


「ばあ!!!!!!!」

「おあ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」

 汚い悲鳴を上げながら飛び退くユアン。

 彼はそのまま、椅子ごと後ろに倒れて床に転げ落ちた。






 色々あって、正座でユアンの前に座るカミヤ。

「いや、ほんとそんなに驚くとは思ってなかったっていうか」

「言いたいことは山ほどあるが、とりあえず一回頭引っぱたいていいか?」

「お、おう、受けてやんよ…待って。タイム。あの、椅子を持ち上げるのはおかしいと思うんだ?」

 倒れた椅子を頭の上まで持ち上げたところで彼は気が済んだのか、そのまま本来の位置にそれを戻した。

「…はあ。疲れてる人間はマジで怒らせたら駄目だぞ。正常な判断できねぇから」

「ハイ。スンマセンっした」

 まあ椅子持ち上げたのは冗談だけどな、とそのまま立て直した椅子に彼は座った。


 いやぁ、と照れ笑いをしながらカミヤは取り繕う。

「先生、疲れてそうだなぁって思ってさ。様子見に来たの」

「様子見に来たって、こんな時間に―――ちょっと待て。お前、まさか一人で来たのか?」

「うん」

 時計を見るユアン。時刻は、やはり深夜。

 呆れを通り越して困惑したといった様子で、彼は大きくため息をついて頭を掻いた。

「お…っ前、さぁ。本当…もう、なんていうか…いいや。帰り、どうする気だ?」

「え…歩いて帰るけど」

「そうじゃなくて、一人で帰んのかって聞いてんの。もしそのつもりならここに泊まらすからな」

「ヤダ!せんせぇなんのつもり!?」

「張り倒すぞ本当に」

「ごめんなさい」

 頭をおさえたままカミヤの様子を見るユアン。

 彼女の危機感の無さに心底呆れつつも、そのいつも通りさに少し安心している節もあった。

「仮眠室もあるから、明るくなるまでは外出すんな。…で、改めて聞くけど。何で今、この時間にここに来た?」

「んー…まあ、なんとなく?先生の様子がどーしても気になった、みたいな?思い立ったら即行動だからさ、私」

 カミヤは誤魔化すように他所を向いて頬を掻く。

「別に心配とかはしてないけど」

「お前は心配される側だろうよ」

「いいの!私は!」

 なんだそれ、と呆れて、思わず少しだけ笑うユアン。気が抜けた途端に、彼の瞼は鉛のように重くなった。

「…ていうか、裏口の鍵、あんまり無闇に使うなって言ったろ。普段から持ち歩いてないだろうな?」

「だ、大丈夫だよ。ちゃんと事務所の金庫に入れて―――今日はちょっと借りてきただけ。うん」

 少し冷ややかな目でカミヤを見るユアン。少し気まずそうに彼女は目を逸らした。


「…ま、今回は大目に見る。今、俺がお前にセキュリティを語る資格は無いしな」

「ん、そうかな」

「…そうだろ。お前がこの間危険な目に遭ったのは、うちらの情報管理の甘さが原因だ」

 気まずそうにモニターのほうへ目をやるユアン。

 彼が何かを言おうとしたのを見て、カミヤはそれを遮るように口火を切った。

「こないだはせんせーのお陰で助かった!ありがとうございました!」

「!」

「私、よくわかんないけど、クロが先生は悪くないって言ってたから!だから、謝るとか、責任がどうこうとか、無しね!そこんところよろしく!」

「お、おう…」

 カミヤの勢いに押されて、少しネガティブ気味になっていたユアンの面持ちは少しだけ和らいでいた。


 ああ、カミヤはこういうタイプだったと少し気持ちを整え直すユアン。

「あー…えっと、怪我が無くてよかった。元気そうで良かったよ」

「うっす!椅子で殴られても死なないくらいに元気!でもやめてね!」

「殴んねぇよ」

 うへへ、とカミヤは笑う。

 釣られてユアンも笑って、また気が抜けたのか一気に眠気が襲い掛かってきていた。

 もう少し、と彼は自分の頬をつねる。

「あいつらにはもう挨拶したか?リュックとエリアに、お前の事を紹介してたんだが」

「うん、会いに行ったよ!マリーの家でお喋りしたし、また今度遊びに行くって決めたの」

「そうか、よかった。あいつらも元気そうだったか?」

「うん。エリちゃんもりゅーちゃんも健康そうだった」

「なら、よかった」

 少しずつ、眠気に押されてうつらうつらと頭を揺らすユアン。

「あと元気になんなきゃいけないの、先生だけだかんね」

「…ん」

「仕事も大事だけど、ひとりぼっちの時間ばっかじゃ心も持たないよ」

 聞こえているのかいないのか、彼は寝落ち寸前といった様子で前後に揺れる。

「…も、駄目だね。はいはい、社畜さんもお休みの時間ですよ。クロも他の人もいるんだから、バシバシ仕事投げちゃいなよ。頼めば意外とやってくれるって、知らんけど」

 近くにあるソファまで彼を連れて行こうとするカミヤ。

「あ、そういや仮眠室あるんだっけ。場所わかんないし、まあいっか。ほらほら立って、いくよぉ」

 言われるがまま肩を持たれ連れていかれる最中、ユアンが寝言のように机の上のモニターに目をやって呟く。

「…それ、画面、切っといてくれないか」

「はいよぉ」

 返事をしながら、先ずはユアンをソファに寝かせるカミヤ。

 そこから流れるようにデスクに向かい、画面を切ろうとモニターへ目をやる。

「…」

 モニターに見える『魔女』の二文字。

 きっとこれ大事な情報なんだろうな、私に見せちゃまずいだろうになぁ、と思いながら彼女はそのままモニターの画面をオフにした。

 彼が無意識に自分へ向けた信頼に内心嬉しく思いながら、それを裏切るまいと彼のほうへ顔を向ける。

「ちゃんと内緒にしとくからね。エリちゃんのこと、私にも今度教えてね」

「…おう」

 小さな声で答えるユアン。


「…あと、これ、こないだの二号機と、私からのお礼―――机の上、置いとくね。それじゃ、おやすみ」

 カミヤがその小さな紙袋を彼の机に置いたころには、ユアンはソファの上で寝息を立てていた。

「さて、私も帰って寝ますかぁ」

 ぐっと背伸びをして、成し遂げた、というような様子で満足げに笑顔を見せるカミヤ。

 彼女は裏口の鍵を指でくるくると回しながら、少し上機嫌に研究室を後にした。






「―――お疲れ様。ユアンは大丈夫そう?」

「げ」

 セブレムを出たあたりで、彼女は御用改めとなった。

 大層お怒りの様子のフェリスと、笑顔で待ち構えるエドワード。


「あぁ…えっと、うん。お疲れ先生は私がしっかり寝かしつけときました」

「そっか。じゃ、僕が様子を見なくてもいいかな」

「うん。元気出そうな差し入れも置いてきたよ」

「ありがとう」

 じゃ、家まで送るよ、とカミヤをエスコートしようとするエド。

 フェリスは腕を組んだまま、じっとりとカミヤの顔を凝視している。

「…」

「あ、あは。いやぁその、…ははは」

「カミヤさん」

「はい」

「あなたの部屋がもぬけの殻になっていると気が付いた時の私の感情を想像して、三十文字程度で述べなさい」

「本当すいませんでした」

 暗がりの中、若干フェリスが涙目になっていることに気付いて素直に謝るカミヤ。

 エドからのエスコートもそこそこに、彼女はフェリスの手を握って顔を覗き込みながら歩き始めた。


「で、なんで急に飛び出しちゃったんですか?」

「え、えっと…なんか、落ち着かなくて」

「…ま、わかりますけどね。あの人、ほっといたら研究室でぶっ倒れて死んじゃいそうな時が多いですし」

「うん、まあ、それもそうだし」

 ここのところ直接会う機会が少なくて何かもどかしい気持ちがあったから―――というのを上手く言語化できないまま、彼女はもごもごと口を噤んだ。


 少し沈黙が出来て、カミヤが何も言わないことを察したエドが話を始める。

「にしても、この時間にフェリスから着信が来て驚いたよ。いくら治安のいい街とはいえ、一度あんなことがあったんだからもうちょっと警戒しようね?」

「うん。ごめんね、エド忙しいのに」

「大したこと無いよ、ユアンに比べたら」

 横からフェリスが「比較対象がユアンさんなのは如何なものでしょうか」と突っ込みを入れた。

 エドの顔を見上げるカミヤが、何か興味深そうに彼の角を見る。

「その角、やっぱり暗い中だとちょっと光るんだね」

「ん、やっぱりそう見えるかな。自分だとよくわからないんだけど」

 額の角を撫でるように触るエド。彼にとってそれは意識外のものとなっているようだった。

「魔力か何か通ってるんですかね?魔鉱石みたいですね」

 フェリスの問いに彼は「ああ、確かに近いのかも」と呟く。

「あ、そういえばりゅーちゃんの角は凄かったよ。ばちばちぃって雷出てた。なんか黒い感じの、まさに龍属性みたいな」

「龍属性?っていうのはよく分からないけど…それ、本当?僕もそこまで高魔力の状態にはなれないよ」

「なんでマリーの家で会った時は角無かったんだろう」

「不思議な子だね、本当」

 カミヤもフェリスも、初めてリュックに会った日のことをふと思い出していた。

「やっぱエリちゃんパワーと関係あるのかなぁ」

「うん?エリアさんが何です?」

「いやだって、エリちゃんは魔―――」

「ちょっ」

 エドからの指摘に振り向いて、時間差で「あっ」と声を上げるカミヤ。

 やっべ、と冷や汗をかきながら再度フェリスと目を合わせる。

「…ま、まじでりゅーちゃんの宝物だから。好きな人を助けるときはパワー百倍みたいな?あるじゃん、そういうの」

「またまたぁ、そんな絵本じゃないんだから…でも、そうならちょっといいですね。推せるかもしれない」

「んん?推せ…ん?」


 誤魔化した結果フェリスの嗜好が垣間見えた気がしたが、とにかく何とかなった、ということでカミヤとエドは胸を撫で下ろした。

「思ってたんですよねぇ、王子様とお姫様みたいだなぁって。女性同士でも全然ありだし、むしろあの二人なら絵になって素晴らしいと思うんです」

「うん、うん。帰っていい夢見ようね」

 フェリスも中々お疲れの様子であることに、今気が付くカミヤ。




「わかりません?」

「まあ正直わかる」

 カミヤは唐突に同意した。

 女の子の会話は難しいなぁとエドは目を逸らした。




 ◇ ◆ ◇






 その晩、彼女はずっとうなされて眠っていた。

 大事な何かを失わないように、ずっと誰かを抱きしめるように。


 エリアは夜中目を覚まして、その余りに苦しそうなリュックの様子に彼女の身を案じた。

 自分ではない誰か、記憶を失う前の誰かに縋る夢を見ているような気がして。

 体を寄せて眠る彼女に自身も身を寄せて、落ち着かせるようにその頭を撫でた。






 ―――北向きの台所、日は落ちて冷たく淡い外の光だけがそこを照らす。

 海の底のような温度の無い空間。


 左手に伝う血液の温度だけが、私の神経を刺激した。


 耳元で、優しいその人のいつもの声が聞こえる。

「ごめんね、ごめんね、ありがとう」


 仰向けになった彼女のその手が、力なく私の頬を伝った。


 わからない、何もわからない。

 ただ、少しずつ弱っていくその意志が、魂がどこにもいかないように。

 私はただひたすらに、力なく倒れるその人に身を寄せて抱きしめた。


 左手に残っていた温度も、少しずつ感じなくなっていく。

 それでも、離したくなくて、私はずっとその人に縋るように抱きしめ続ける。


 何時間も、何時間も。


 何も見えない海の底で、私はずっとそうして。




 あの人は一体誰だっただろうか。


 大事な人だった。大好きな人だった。


 いつも楽しそうに私に笑いかけて、名前を呼んでくれる人だった。


 いつか私も同じように誰かに笑える人になるんだって、そう思って生きていた。


 なのに、どうしてああなってしまったのか、夢を見ている私には思い出すことが出来なかった。


「大好きだよ、璃空」


 その声だけがずっと聞こえていた。

 夢の中で、暗く息苦しい水の底で反響して、少しずつ聞こえなくなっていく。


 聞こえなくなったその後も、何も聞こえなくなっても尚、私はその人の身体を抱えたまま、更に深い水の底まで一緒に沈む。


 何も思い出せくなったとしても、私は。

 左手に残ったあの感触だけは、きっと忘れることは無いのだろうと思った。


 大切な人をその手で殺した、その生々しい感触だけは。






「―――」

 まだ、周りは暗い。

 服は汗でぐっしょりと濡れていて、傍で眠っているエリアも少し苦しそうに寝息を立てた。


 何の夢を見ていたか思い出せない。

 ただ、不快に高まる鼓動が苦しくて、エリアから離れることが出来なかった。


 小さく息を吸い込んだ後、エリアは穏やかに目を開ける。

「…リュック?大丈夫?」

 元々何度か目を覚ましては彼女の様子を見ていたらしいエリアは、リュックが目を覚ましていることに気が付いて彼女の顔を覗き込んだ。

「ごめん、起こした」

「ううん、大丈夫」

 そう呟くように言って、彼女は診察をするようにリュックの下瞼を親指で軽く押さえる。

「…嫌な夢、見た?」

「…覚えてない。でも、良い夢では、なかったかも」

「そっか。じゃあ、ちょっとだけ、起きてようか。すぐに寝ると、続きを見ちゃうかも」

「…うん」

 リュックは小さく頷いて、エリアの胸元に額を預けた。


 先刻眠りに落ちた時と同じように、鈴のような声で鼻歌を歌うエリア。

「これね、昔お母さんが私に歌ってくれた曲なの」

「なんて名前の曲?」

「わかんない。でも、これが一番好きなんだって言ってた」

「…うん。私も、好きだよ、その曲」

 エリアは、嬉しそうに小さく鼻を鳴らした。

「今日のリュックは、なんだか子供みたいだね」

「…いつもは、大人に見えてる?」

「うん。かっこよくて、私のヒーローに見えてる」

 リュックは嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになって、表情を隠すようにまたエリアの胸元に顔をうずめた。


 暫くそうして、また眠らずに時間を過ごす二人。

 少しずつ気持ちが落ち着いてきたリュックは、顔を上げてエリアのほうを見てひとつ問いかけた。

「エリア、本当にこの街で暮らしたいと思う?」

「うん、思うよ」

 曇りの無い目で、彼女は答えた。

「本当に私、この街に来て楽しいって思ったの。そりゃ、いきなり攫われたときは怖いとも思ったけど―――でも、それ以上に先生…マリーも、エドも、カミヤちゃんも。ユアンさんも、フェリスさんも、クロさんも、みんないい人で、一緒に居たいと思った」

「…そっか。よかった」

「ほんとに、ありがとね。リュックに会えてなかったら、私ずっとあのままひとりぼっちだったと思う」

「私は、何も。エリアは自分の力で幸せになろうと頑張ってるんだよ」

 二人は身体を寄せ合ったまま、今までの一つ一つを思い返すように視線を落とした。


「―――ここでの生活が落ち着いたら、探しに行こう。エリアが見たことが無いような花が咲く場所。嫌なこと全部忘れちゃうような、新しい景色」

「うん。行こう、二人っきりで。あの時みたいに、地平線めがけて空飛んで」

 初めて会った時の、グライダーのように空を飛んだ時を思い出して吹き出すリュック。

「あは、あれはちょっと危なすぎるよ」

「いいじゃん、楽しかったんだから。きっと、次はもっと上手く飛べるよ」

「確かに。じゃあ、今度練習しよう。もしかしたら、海の向こうまで行けちゃうかも」

「うん。約束ね」

 そう言って、エリアは笑った。

「…海、かぁ。私、見たこと無いんだ。海」

「行けるよ、きっと…いや、絶対」

「うん。一緒に行こうね」

 応えるように、リュックも小さく笑う。

 エリアは、その笑顔を愛しんで、また胸元で彼女の頭を抱くように体を近づけて。

 そのまま、悪戯のように彼女の額にキスをした。


「…」

 驚いたようにエリアの顔を見上げるリュック。

 その表情が少し面白かったのか、エリアはまた目を細めて笑った。


 リュックは急に真剣な顔になって、少し這うように位置を変えて、エリアと真っ直ぐに目が合うまでその顔を近づける。

 様子が変わったリュックにエリアは驚いて、固まったように彼女と目を合わせた。

「あ、えと、その。今のは、ちょっとした悪戯で」

 リュックの目は淡く光り、先刻の眼差しとはまた正反対に鋭くエリアを見据える。

 豆鉄砲を食らったような表情で、エリアはただ数センチ先の彼女の眼光に目を奪われていた。

「あの…ん゛っ」

 そのまま口を塞がれた彼女は、成す術もなく仰向けにされてリュックに馬乗りにされる。




 無言の時間―――言葉を発するにも、その口を動かす暇のない時間。

 二人は考えることも辞めて、ただその瞬間に生まれた感情に身を預けた。




 リュックの目は、また輝きを増す。


 エリアが愛しくてたまらない。


 可愛い、ただとにかく可愛い。


 その澄んだ瞳が、柔く広がる髪が、小さく揺れる羊の耳が。


 とにかく、とにかく可愛くて―――




 愛おしくて、尊くて、美味しそうだと、そう思った。








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