11.医師の説得

「どどっ……どうしようカズっ……なんの病気かなっ……!? かゆいし痛いのっ……カズにも移っちゃうかもっ……!?」

「わたくしのことなどよろしいですからっ……! お嬢様……ほら、深呼吸して? ね? 落ち着いてください、宿屋に着いたらすぐにお医者様をお呼びいたしますからねっ! 大丈夫、大丈夫ですよっ!」

「どうしようっ……どうしようっ……!? みんなに迷惑かけちゃうっ……!! さっきまで何ともなかったのにっ、なんでわたしっ……どうしてこんな大事な時にっ…………ゔぅ”っ、ゔぅ”ぅ”っ―― !!」

「お嬢様っ……!! 今は何も考えないでっ……!!」


 ―― 台を引く馬が早足で走る中……車内ではカジィーリアが、ふさぎ込むイリファスカを必死になぐさめていた。


 謎の病をこちらに移さんまいと、わざわざ扉の方に身を寄せて発疹をいじろうとする主人に、カジィーリアは追いかけるように腰を浮かせて座り直し、彼女との間隔を詰めた。

 そして症状の表れていないイリファスカの白い手の甲に自身の手を重ねて、上から動きを押さえるようにして握り締める……。



 宿屋に到着した頃には、イリファスカの頭部は汗と涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 先に御者をフロントに向かわせ、格好の乱れた侯爵夫人が他の客の不躾な視線にさらされぬよう、店の従業員に人通りの少ない通路をさらに人払いしてもらってから、借りていた個室に戻った。


 医者の手配もしてもらい、部屋を訪れた男性医師はベッドに腰掛けるイリファスカを見つけるなり、彼女の元へ歩み寄ってすぐに診察を始めた。


 ドレスの袖をめくり、患部かんぶを調べてから症状の聞き取りを行う……。



「軽度の食物アレルギーという線も捨て切れませんが、今まで何の問題もなく同じような食事を取っていたのであれば、疲労の蓄積ちくせきが原因かもしれませんな」

「ひ、疲労でこのようなブツブツができるものなのですか?」


 医師の言葉に、カジィーリアは気が気でない風に問い掛けた。


「幼少期に水ぶくれを伴う発熱をわずらったことは? それの原因となった微生物……誰しもが体内に飼っている極小の生物のことを言うのですが、そやつらが人間の免疫力めんえきりょくが落ちた時を狙って悪さをして、このような症状を引き起こすことがままあるのです」

「なる、ほど……? では、休めば自然に回復するということでしょうか……?」

「そうですねぇ……とりあえず抗ウイルス薬と痛み止めのお薬を置いていきますから、一晩様子を見ましょう。明日の夜、診療所での仕事が終わり次第こちらに向かいます。もし様態が急変した場合はお呼び出しください。すぐにでも駆け付けますので。そちらから診療所へお越しになられるのであれば、宿屋と同じ通りにある“ハグリ診療所”という施設に常駐じょうちゅうしておりますので……」

「はいっ……! ありがとうございます先生っ!」


 発疹の原因が判明し、とりあえずカジィーリアはホッとひと安心した。


 しかしひたいに汗を浮かべて座るイリファスカは、未だ不安げな表情で医師に尋ねた。


「これって、他の方に移りは……?」

「絶対に移らないとは言い切れませんが……看病の際に患者かんじゃの体液や排せつ物に触れないよう気を付けていれば、周囲の方々も無事に済みましょう。ああでも、小さなお子様は近付けさせないでくださいね。子供というのは病気にかかりやすく、症状も大きく表れやすいですから」

「……そう……“移らない”の……それならよかった……」


 ここで初めて、イリファスカは安堵したように顔をほころばせた。

 彼女の柔らかな笑みを見た医師は、『噂は所詮、噂か』と心の中で呟いた。


 王立研究所に勤める現侯爵とその夫人の関係性については、下町では有名な話だった。

 皆、代わり映えのない生活に刺激を求めている。だから紙面の安い文言に惹かれ、『七年間も放って置かれる女なのだから、相当に意地の悪い人間に違いない』とか、『絶世の美女と言う人もいるが、地元民によると実際はとんでもない醜女しこめらしい』とか……よく知りもしない彼女のことを好き勝手にこき下ろし、尾ひれを付けてはよそへ放流するのだ。


 以前診療所の待合室で、老人達が『一分も黙って座り続けられないほどの癇癪かんしゃく持ちらしい』とケタケタ笑って話していたのを耳にしたことがある。

 しかし目の前にいる女性は癇癪持ちどころか、他者に病を移す心配をするほどの気遣い人間に見られる……医師は己の中にも“先入観”があったことを認め、そして恥じた。



 医師は所持していたかばんから粉薬の包みをいくつか取り出すと、近くのテーブルに並べて服用時の注意などを説明した。


「まぁ、大抵の方は薬を飲みながら、ひと月ほど安静になさっていれば回復されるのでご安心を。お仕事をお休みになられる良い機会だと思えば、気も楽ですよ」

「えっ……!? ひと月も……!?」


 形の良い目を大きく見開いて言うイリファスカに、医師は困ったように首を傾げて返した。


「そりゃあ、ただでさえ疲労の蓄積による発症ですからなぁ……どんな病気も養生ようじょうなしには治りませんよ。くれぐれも発疹は掻かないように。潰れれば酷く痛みます」

「ですが……あの……それでしたら、薬を多めにいただけませんか? 明日の診察は結構ですので……」


 イリファスカの発言に、医師は眉をひそめて彼女を見た。

 時々薬を多く要求する患者がいるのだ。彼ら、彼女らは薬を多量に摂取すれば治りが早くなるものだと勘違いしている。


 きっとこの侯爵夫人も同類なのだと、医師は一つくぎを刺しておくことにした。


「薬は用法、用量を守ってお飲みいただかなければならないため、過剰かじょうにお出しするわけにはいきません。何故明日の診察をお断りになられるのですか? 病人だからと宿屋が滞在を渋るようでしたら、うちの診療所に移られても結構ですよ。そちらの方が行き来の手間が減って、私としても楽でいいですしね」

「いえ……ご厚意はとてもありがたいのですが……私、急ぎの仕事がございますので、次の朝には領地に向けてここを発たねばならないの。だから道中の、一週間分ほどお薬をいただいておきたいのよ……」


 疲れた顔で話すイリファスカに、医師はまた首を傾げて深く考え込んだ。

 嘘を言っている感じはないが……だからと言って、『はい、分かりました』と安請やすういするわけにもいかない。


貴女あなたを疑うわけではありませんが……抗ウイルス薬を飲んでいるからといって、すぐに症状が治まるわけではないんですよ? 痛み止めを使っていても、痛いものは痛いですし……今は発疹の範囲が右腕で止まっていますが、今後肩や腹にまで伸びる可能性もございます。もし馬車に乗っている間にそこまで悪化してしまいますと、医師に頼ることのできない状況の中で、数日間も肌がこすれ続ける地獄のような苦しみにさいなまれるのです……それでも明日発つと?」

「でも……帰らなければいけないの……」

「そのお仕事はご自身のお体よりも大切なことですか? 関係者の方に事情を説明して延期してもらうことは? 診断書であればいくらでも書いて差し上げます。せめて一週間は体を休めないと……」

「お願いします先生……私ここにいられない……の……」


 じわりと涙を浮かべて訴えるイリファスカに、医師はそれ以上何も言えなかった。

 隣に立つカジィーリアにも提言するよう目配せをするが、彼女はふるふると首を左右に振って、主人の意思を尊重した。


「……はぁ……いいでしょう……今回だけ特別ですよ? 薬を出して患者を追い払うような、やぶ医者まがいの行動は取りたくないのですがね……私が薬を過剰にお渡ししたことを、絶対に社交場で広めないとお約束してくださいますね?」

「ええ、絶対に喋らないわ……! 約束します……ありがとう先生……!」


 色の悪い顔で、希望を得たようにパァッと明るく微笑むイリファスカを前にして、医師はいたたまれない気持ちになった。



 その後、親切な医師は追加の薬をテーブルに並べると、もう一度グチグチと服用時の注意事項を告げて診療所へと帰っていった。


 イリファスカは明日の出発についてカジィーリアと話し合うと、薬を飲んでベッドに潜り込んだ。

 苦しそうに腕を押さえながらも、次第に寝息を立てて眠り始めた主人を確認すると、カジィーリアは一旦部屋の外に出て、他の使用人達へ明日の予定を伝えに向かった――。

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