3.新薬の完成
「はぁ……ようやく完成ですか……? 随分とまぁ、長くかかりましたねぇ……」
侍女のカジィーリアは早朝に寝室を訪ねると、分厚いカーテンを開けて部屋に差し込む朝日を頭から浴びながら、
「そりゃ今までなかった薬を開発するんですもの。すぐには出来上がらないわよ」
「それにしたって……数年も妻を放置してるんですよ? 文句の一つも言いたくなりますよ! 他の研究者だって家庭持ちの方はいらっしゃるでしょうに、どうしてうちの旦那様だけこんなにも家に帰られないのですか!? おかしいですよ!」
「帰ってきても家に楽しみがないんだもの。元々研究が生き甲斐みたいな方よ? あちらを選ぶのは当然のことだわ」
「お嬢様は色々と諦めすぎですっ!! もっと怒らないとっ、わたくしの方がいつ噴火するか分かりませんよっ!? この間だって洗濯中にアリア達が――」
カジィーリアはイリファスカが嫁入りの際に伯爵家から連れてきた、
イリファスカよりも六つ年上の彼女は、他の使用人がいる場所ではこちらが威厳を失わないよう淡々とした態度で接しているが、今みたいに個室でやり取りする時は、砕けた調子に戻していた。
イリファスカがワンピースに袖を通すと、カジィーリアは命じずとも背後に回り、背中部分の
イリファスカはカジィーリアといる時だけ、素の自分を表に出すことができたから……。
―― “以前より開発していた新薬がこの度完成し、新聞社から取材の依頼が入った。夫婦揃いの写真を撮りたいらしいので、指定した日に王都へ来てほしい”――
……それが、昨日セルヴェンから届いた手紙の内容だった。
侯爵家から王都までは、最低でも馬車で四日はかかる。
指定日は八日後……道中で問題が起こっても遅れず到着できるよう、明日には領地を
カジィーリアが怒る理由はそこなのだ。セルヴェンはいつも急な頼み事を手紙で伝えてくる。
手紙の配達にかかる日数を計算に入れずに、“あれをやっておけ”、“これをやっておけ”と……人に丸投げするにしても、せめて取り組む時間に余裕を持たせてほしかった。
もし失態を演じれば周囲から非難を受けるのはイリファスカであるというのに、そうならないよう努力した
それどころか、イリファスカが完遂の報告を送った手紙に返事も寄越さないのだ。彼にとっては、自分の頼み事は“こなして当然の令”……カジィーリアは無責任に無責任を重ねる名ばかりの侯爵が憎くてたまらなかった。
背中の紐を結びながら、目の前に立つ年下の女主人の薄っぺらな体の
貴族の女性は栄養価の高い物を食する割に体を動かす機会が少ないので、大抵は年を重ねるごとにふっくらと肥えてゆくものだが……イリファスカは元来の食の細さと心労が合わさり、十代の頃よりも今の方がほっそりとしていた。
敬愛する人間がつらい目に遭っているというのに、口出しできない身分が恨めしかった。
イリファスカ自身が反発しないので、侍女であるカジィーリアが代わりに暴れるわけにもいかない。
“侍従の不手際は、あるじの不手際”……自分が発端でイリファスカに恥をかかせることだけはしたくなかった。
「どうせ今回も、体調を気遣う一文もないんでしょうね……最後にお会いしたの半年前ですよ? 手紙だって二、三ヶ月に一度あるかないかっ…………―― あ”あ”あ”あ”っ!! もう考えただけでイライラしますっ!! うちのお嬢様をどれだけ
「ふふっ……もう“お嬢様”なんて呼ばれる年齢じゃないわよ。落ち着きなさいな、カズ……愛のない相手を屋敷から放り出さずに置いておいてくださるなんて、寛大な方じゃない。私、今更実家に帰ったって居場所ないもの。どっちの領地でも変な噂が広まって嫌われ者だし、平民に下れば最悪命の危険も……」
「そんな悲しいことを口にするのはおやめくださいっ!! もうっ……いっそのこと隣国へ逃げましょう!! わたくしもお
「……まぁ、それもいいかもね」
イリファスカの一言に、怒り狂っていたカジィーリアは『えっ”』と
「本気……ですか? ようやく決心が……?」
「“決心”……そうね、ようやく気持ちに踏ん切りをつけられたわ。最近ね、私に関する新しい噂話ができたの知ってる? 『侯爵様は同じ研究に取り組んでいる若い部下の女性を気に入ったので、現妻を追い出してそちらを正妻に迎えたがっている』……だって。新聞社がわざわざ夫婦写真を撮りたがってるのって、きっとさらに話が膨らむよう人々に
「お嬢様……」
いつも落ち着いた様子でカジィーリアの言葉を受け流すイリファスカが、いつになく肯定したかと思えば……自嘲気味に話す主人を前に、カジィーリアは痛ましそうに呟くしかなかった。
イリファスカはカジィーリアを横目で見ると、フッと微笑みかけて続けた。
「お
「お嬢様だって頭がいいです!! 現に執務を一人でこなしていらっしゃるじゃありませんか!? 今領地が上手く栄えているのは、若き日から寝る間も惜しんで運営について学ばれたお嬢様の努力の
カジィーリアはイリファスカに代わって、キーキーと金切り声を上げた。
また誰々のああいった態度が気に入らないと、その人間の名と
「ふぅ……熱くなってしまいましたね……お嬢様が一大決心なされたんですもの、これ以上わたくしからは何も言いますまい。――
「ふふっ……また熱くなってるじゃない、カズ。……私が消えたって誰も後悔しないわよ。むしろ部下の女性の方がより良い運営手腕を発揮して、『早く前妻を捨てておけばよかった』……なんて言われちゃうかも」
「言われません”ん”ーーーーっ!! お嬢様はご自身を低く評価されすぎですぅ”ぅ”ーーーーっ!!」
重すぎる
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