(五)
「ほう」
と忠政が声をあげた。
まったくもって予想外の展開に思わずそうしてしまったようだった。
同時に、武蔵の表情も変わった。
口の端をつりあげた、それは――
「ようやった」
明らかな笑顔であった。
(こいつ……!)
小次郎は余裕をその顔から消した。
ただ木刀を下ろしただけならどうということはない。
ただ歩いてくるというだけなら、なんとも思わない。
破れかぶれになっただけだと、そう断じてさっさと打ち込んで済ませただろう。
しかし、伊織が捨て鉢になったわけではないというのは、小次郎にも解った。
歩き方――その進行には揺るぎがなく、肩の高さがほとんど変わらず。
まるで流れるような、滑るような歩みであった。
(これは――)
瞬時に今まで対峙した、あるいは見聞した武蔵流の兵法者の歩法を思い出す。
名も知れぬままに打ち倒した男もいたし、一流を立てて道場を開いていた男もいた。
先日仕掛けた宮本三木之助のように、仕官している者もいた。
それぞれが兵法者としての鋭さ、迅速さを備えていた。
武蔵流――というよりも、新免流とは戦場の武者の兵法だ。
甲冑を着て駆け抜け、素肌にても刃をくぐり抜けていたツワモノの技だ。
その兵法の極意ともいうべきは、恐るべき脚力に任せた運足である。
後年、新免武蔵が飯綱使いと呼ばれたのも、目の前からあっという間に消えて見せるほどの俊敏さを備えていたからである。見る者をして気づかせぬほどの速度は、妖術の使い手と呼ばれるほどのものだったという。
実際、姫路の宮本三木之助も、足速に駆ける運足を用いていた。
もしも伊織がそのような足捌きで仕掛けてきた時、どうするべきか――
小次郎があらかじめ想定していたのは、そういうことにである。
だが。
伊織が今しているのはそういうものではない。
するすると淀みない歩調での進行には、確かに何かの術理を感じた。
ハラが据わっているというべきか、安定した重心のそれは、犯し難い玄妙さも伴っているように思えるものだ。
だが、知らない。
このような歩みの兵法を、小次郎は見たことも聞いたこともなかった。
と。
伊織の右太刀があがった。
まだ小次郎には届く前だ。
「―――――?」
その意図がまるで解らぬ小次郎は、それでも長い木刀を持つ手をぎゅっと握り締めて。
たんっ
と伊織の右足が上がり、落ちた。
咄嗟に後ろに跳躍した小次郎であったが、伊織はというとその場で立っていたままだ。
「…………………ッッッ!」
小次郎の顔に、焦燥とも怒りともつかぬ激情が浮かび上がった。
「拍子をとったな」
武蔵が呟いた。
それを聞きとめた忠政であったが、すぐに納得したように扇子でてのひらを叩いた。
「拍子?――――おおっ、拍子か。武蔵殿は乱舞のようにせよと申したのだったな、伊織に」
「御意」
「ならばこそか。剣の舞うが如きというが、よもや舞いにて仕合うなどというものがあるとはな」
「―――拙者はああしろとは教えていませぬが」
という言葉は、しかし忠政の耳に届かなかった。
(助かった)
伊織は内心での安堵を表情に出すことなく、そんなことを思う。
シカケをとった時に大した反応がなかったので、試しに拍子をとってみたのだが。
(思っていたより過剰な反応だな)
たかだか数日で習得できるほど、武蔵流兵法は甘くない。甘くはないのだが、その心得というべきものは常々聞いていた。
養父はいとも容易く、いうのだ。
『特別なことなど、する必要はない』
秘伝だの奥義だの、そのようなことに対してなんら価値はないを認めていないという口ぶりである。
『千日の稽古をもって鍛として、万日の稽古をもって錬とする。常にたゆまず稽古し、工夫を重ね、心を磨けば、それでいい』
当たり前の話である。
当たり前の話であるが、この常識からどこか外れたような人がいうと、なんともいえず妙な気分になる。
そしてさらに。
『たとえどれほどの腕があったとしても、心が乱れては発揮しようがない』
『心動かさぬように巌の身となれ、ということですね』
そういうと、実にいやそうな顔をした。
『そんなことが、簡単にできるものか』
……ひどい言い草だ。
しかしまあ、確かなことではある。
兵法仕合などというような命のやりとりのするような死ぬの生きるのというようなことがかかった現場に際して、心が動かずの不動心を得るなどということが簡単にできるはずもない。簡単に出来るのならば世の坊主はみな廃業している。できないからこそ禅坊主に学び、あるいは何処かの兵法者は観想をして集中力を高めようとするのだ。
『だから、相手の心を乱すことを考えろ』
相手の意表をつくこと、虚実を操り敵を討つのは孫子以来の兵法の基礎といえばそうだ。
なので伊織は素直に頷き、学んだのが。
(うろめかすこと、おびやかすこと、……)
相手の意表をつき、心に焦燥を作り出すためにどうすればいいのか。
その考え方である。
そういう具体的な方法は他流にもある。あることはある。
だが、秘伝だのに属する事柄であったりする。
充分な技を身につけた上でないと、ただのケレンだのハッタリだのに終始してしまうということもあるし、もっといえばこの手の相手の心をかき乱す技術だのというのは、あまり正面きって人にいうべきものではない。
武蔵はそこらのことを、ちっとも気にしていない風だった。
このあたりの直截さが、武蔵流の評価を高めると共に、あまり綺麗ではない武蔵像を後世に形成することになるのだが、そのことについては今は語るべきことではない。
伊織がこの仕合においてとったことは、乱舞(能)の動作をすることである。
歩きながら右手を上げる所作は「シカケ」。
足踏みをするのは「拍子」という。
まったくもって、意味のない行動であった。
意味はなかったが、小次郎を混乱させることができたようだった。
乱舞はこの頃の武士にとっては必須と呼べる芸能であるのだから、小次郎も落ち着いて見ていれば伊織の所作がどういうものかが解ったはずだ。
だが、この場にて、この瞬間に行われた時、まったくの想定外の、しかし自然に行われる見事な所作には充分以上の警戒をもたらせる効果があったらしい。
伊織が乱舞を選んだのは、乱舞を行うが如き心境で向かえと言われたこともあるが――それが彼の持つ技芸の中で一番習熟したものだからでもある。
それが故に動作は自然であり、小次郎は一旦引かざるを得なくなった。
それは一面、乱舞というものが武術と共通する要素を持っているからでもあった。
乱舞においての型というのは、シカケやヒラキなどという所作であり、それらを連続させて行うことによって「舞い」となる。
それを摺り足でするのだが、その際に足裏は舞台面につけ、膝を曲げて腰を入れて重心を落とす。そして踵をあげることなく滑るように歩むようにする。腰を入れることを「構え」といい、その運足を「ハコビ」と言う。
拍子、間合なども含め、これらの用語は武術に流用されていることが多い。身体芸術として全身を高度に操作するこれらの技術は、明らかに共通のものでもあった。
柳生流では、能の秘伝と剣の秘伝を交換したという伝説すらある。
小次郎が何かの秘剣かと誤認したことも、無理からぬことなのだ。
(さて、ここからどう勝負を決めるか)
相手の意表をつき、緊張を強いる――
うろめかし、おびやかし。
そこから決着に持ち込むために必要な技を、伊織は持っていなかった。
(まあ、いい)
別にここから負けたとしても――それはそれで、いい。
伊織にとって必要なのは、 必ずしも仕合の勝利ではなかったのだ。
それはどいうことかというと。
たんっ
ともう一度「拍子」を打った。
小次郎はさすがに今度は過敏には反応しなかった。びくりと肩が震えたが、それだけだ。
伊織は今度は右足から一歩、二歩、三歩と下がった。
そして両手を上げ、左右に広げた。
その所作の見事なこと――
左右に剣を開ける構えは武蔵流にあり、小次郎はまた咄嗟に下がった。
だがそれは、乱舞にいう「シカケヒラキ」という動作であるということは、さすがにここにいる小次郎以外の全ての者が気づいた。
誰かの失笑が漏れたが、それはここにいる近習の誰かであったかもしれない。
決闘の場ではあるのだが、誰が吹き出しても当然の状況ではあった。
下手をすればお家断絶にまで繋がりかねないような御前試合で乱舞の型を披露する伊織に。
それを目の前でされても、怯えるように引くばかりで何も出来ない小次郎と。
伊織を豪胆だと褒めるべきか。
小次郎を脅怯だと謗るべきか。
どちらでもあるようであり、どちらでもないようなおかしな状態だった。
忠政の側月の近習の中で、常磐藤右衛門だけが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
そして。
(これで、よし)
狙い通りの反応が周囲より引き出せたことに、伊織は微かにその顔に笑みを浮かべた。
そうなのだ。
伊織にとっての勝利とは、仕合に勝つことではなく――
小次郎の表情が強張った。
伊織の意図に気づいたか、あるいはそうではなく、微かな表情の変化に自分がバカにされていると思ったのか。
木刀を担ぐ姿勢のまま、まっすぐに、それこそ猛獣のような勢いで跳んだ。
どう勝つとかそういうことは、もはや頭からなくなっているに違いない。
伊織の両手が真上に上がった。
今度は小次郎は止まらなかったが。
そして、勢いよく二刀は振り下ろされた。
小次郎に届くはるか前で。
「―――ッ!」
咄嗟に小次郎が木刀を振ったのは、伊織の誘いの太刀に乗ったということではなく。
伊織の投擲した小太刀を弾き飛ばすためだ。
二刀剣術には小太刀を手裏剣として打つ技法が普遍的に存在する。当然のことながら武蔵流にもあるし、それは余人もしるところだった。もっと正確に言えば、新免武蔵こそは知る人ぞ知る手裏剣打ちの名手なのだ。
本来の小次郎ならば、それにも備えた動きをみせただろう。
だが、伊織の今までの振る舞いからこの技への繋がりを予測するというのは、不可能だ。
むしろ、打ちかかる途中でそれをされ、なお対処した小次郎の反応速度こそ凄まじい。
果たしてこのようなことができる剣豪は、世に何人といるものか。
しかし、そこまでだった。
振りぬいた小次郎の太刀では伊織に届かない。
投擲から半拍遅れて駆け出した伊織には、届かない。
それでも、そこから態勢を立て直した津田小次郎の体幹と速度は、まさに多田市郎の再来――いや、不世出の剣の天才児として相応しいものであったに違いない。
飛燕すら切り落とす刃は、見事に宮本伊織の左の首筋の直前にて停止した。
それは、伊織の木剣が小次郎の眉間の寸前で止まるのと、ほぼ同時であった。
「双方、引き分け」
検分役として立っていた馬廻組の清川が、そう告げた。
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