五の段 たつぞう、過去を懐かしむ事。

(一)

「ふ―――ん」


 たつぞうは指南所で昨晩に辻斬りがあったことを聞き、それだけを言った。

 武蔵流の兵法指南所というのは、城下の侍屋敷の立ち並ぶ区画の西端、少し歩けば明石川にいきつくという場所に小さく作られた屋敷である。

 小さくとも四間(13メートル)四方はあるから、それなりの規模があった。

 創建されたのは二十年ほど前、元々は新当流の道場だった。そこの道場主が病気で引退すると決めたのが一昨年の話で、その際に交流のあった武蔵へと譲渡して今に至る。

 すっかり汗と血が染み付き、床が黒ずんでいるその指南所の端に座り、たつぞうと向かい合っている男がいる。

 ひどく沈鬱な表情で。


「残念なことです」


 と言った。

 武蔵不在の時に指南所を預かっている弟子で、塩田松斎という。

 弟子とは言っても武蔵より七つほど年上で、元々は新免無二の流儀を学んだという使い手だ。

 新免流は捕手、棒術、十手などの剣術以外の諸々の武術によって構築されていて、塩田は特に棒術と小具足を得手としている。

 後に当理流を創始することになるこの塩田は、最初武蔵に挑み、その強さに感服して弟子入りしたという経緯があった。

 小具足や柔術使いというのは骨接ぎや打ち身の治療などにも長じているもので、先日も武蔵に張り手で打たれた的場某の手当てを頼んだのだが。


「残念なことです」


 と重ねてが松斎が言ったのは、辻斬りの犠牲者がその的場何某であったからだった。せっかく施術したのにという、無念のようなものが伺えた。

 ただ――。

 犠牲者とは言っても、的場は死んでいるわけではない。

 話はこうだ。

 一昨日の夜、何をするでもなく気力の抜けた的場は、姫路の居酒屋で飯を食った帰り道、用水のほとりへと迷い出た。

 それで的場は、柳の木にもたれかかって体を休めていたところ――


「襲われたと」


 それも、


「前髪の残った凄腕か」

「という話です」


 夜目にも派手な小袖を羽織っていたというその若者は、的場を兵法者と見て急に切りかかったのだという。

 ひどく物騒な話だ。尋常な兵法者のすることとは思えない。

 そこで的場が咄嗟に応じられたのは、さすがに遍歴の兵法者と言うべきか。

 抜刀の妙術で打ち込まれた野太刀を捌き、そこから反撃の打ち込みを仕掛けようと動き、


「気づけば、右手を斬られていたそうです」

「へえ」


 驚いたという風でもなく、たつぞうは言った。相槌を打っただけともとれるし、感心したという風にも聞こえる。


「幸いにも手首が落ちたというようなものではなく、傷としては浅いものでしたが」

「筋を斬られたんだねえ」

「はい」


 ――残念なことです。

 さらに重ねて、松斎は言った。

 筋が斬られるということは、もはや完治してもその腕はまともに使えないと言う事である。この時代の医学では到底筋を新たに繋げるなどということは不可能なのだ。

 そして、右腕が使えないということは――兵法者としての終わりを意味していた。

 兵法者が真剣勝負をするということは滅多にあることではないが、木剣での撃ち合いでも打たれれば骨は折れるし眼球や喉も潰れることはある。死なずとも生活もまともにできない障害が残る可能性は常にあった。それだけに兵法者たらんとする者は皆覚悟はしている。的場もしていたに違いない。

 それでも、やはり――

 施術した身としては、やり切れぬ思いが残っていたのだろう。


「それで、そんなの相手に、よく死なずにすみましたな」


 とたつぞうがいうと。


「いや、それが――」


 逃げたのだ、と的場何某は告げたそうだ。

 右手を斬られ、その時に反射的にしゃがんだ理由はよくわからなかったそうだ。取り落とした刀を左手で拾い上げたのも、まるで他人がやったようだと彼は語っている。そして立ち上がり、迷い無く背中を見せて、逃げだした。


「へえ」


 今度は、楽しそうなものを含んだ「へえ」だった。


「そりゃあ、さぞ呆気にとられたでしょうな。その若衆辻斬りも」

「さあ、そこまでは――」


 それで気づけば、常宿にしているところにきた。

 無我夢中というものであったらしいが、よくもまっすぐに帰れたものである。そしてそのまま宿の前で倒れて。


「たまたま、同じ宿に私がいたのです」

「へえ」


 塩田松斎が姫路にいたのは、故郷である塩田村に帰る途中であったからであるが、そこで数日前に自分が施術した人間とまた出会うというのは奇遇もいいところだった。

 宿の主と塩田が懇意にしていたので、すぐ呼ばれたというのも鉄斎には幸運だったろう。松斎は、できる限りの処置をした。とは言っても、できることはほとんどなかった。的場も切り傷の処置は心得ていたらしく、脇の内側を抑えて血止めをするという程度のことはしていた。

 不幸中の幸い、筋は傷ついたが血管はさほど斬られなかったようだった。松斎がしたのは、押し付けてあった着物の袖を剥ぎ取ってから傷口を酒で洗い流し、別の布に取り替えただけである。。

 的場の意識はしばらく朦朧としていた。死に掛けたというわけでもなかったが、しばらくは気力が何もわいてこなかった様子だった。

 そして昨日になってようやく頭がはっきりして、ことの顛末を松斎に教えたのだと――そういう話だった。 


「しかし、辻斬りとは――」

「それも、岩流となると」


 二人は顔を見合わせた。

 たつぞうも、松斎も、共犯者を眺める目をしていた。

 しばしの沈黙の後、たつぞうは腕を組み、溜息混じりにぼやいた。


「その前髪、恐らくは姫路の三木之助様を襲ったという者と同じでしょう」

「……姫路で、その岩流使いの前髪の話は幾つか聞きましたが」


 姫路に現れたのは一ヶ月ほど前で、武蔵流の人間を見つけては挑んでいる、という話だった。

 挑んでいるとは言っても、いきなり襲い掛かるというのではなくて、道場などにきて教えを請うようにという形の――いわば、廻国修行者としての体裁は守っていた。少なくとも松斎が聞き及んでいる限りでは。


「いずれ前髪を残した若造と侮っていたようで、適当に勢法を見せたり、軽く仕合はしてやってたという話です」

「なるほど」


 とたつぞうは頷いた。


「その前髪が、もしもあの岩流の縁者だとすると、それは武蔵流の手の内を知るためであったということですな」

「二十年も前のことなど、今の門弟は知りませぬ。それに、〝兵法に表裏なし〟――若い者ほど、武蔵先生の教えを頑なに守ろうとする」


 いずれ現実を前にして、各自がそれぞれ自分に合った指導法を構築するだろうが……そう言いかけて、松斎は言葉を濁した。

 彼の師である新免武蔵は、こと兵法の指導者として――いや、およそ芸事の師匠としては異質な存在であった。

 格式だの様式だのというものに対して、ほとんど価値を認めていない。

 自分が指導する剣術に関しては特にそうだった。

 例えば他流の剣術では初伝、中伝、皆伝という風に、段階的に型や口伝を教えるのだが、武蔵は型は多くなくともよいと説く。

 技の数をいたずらに競うことに意味はない、という。

 それならばまだ他の剣豪も似たようなことを言ってはいるが、武蔵はさらに「兵法に表裏なし」とする。

 つまり、奥伝も秘伝もない、ということである。他の流派では秘伝に属するような拍子の機微、口伝となるような心理戦の要訣を、武蔵は当たり前のように初歩の段階で解説する。

 あとは千日の稽古をもって鍛とし、万日の稽古をもって錬とする――

 必要なことは数少なく、それをとにかく鍛え上げろ。

 ということだ。

 ――身もふたも無い。

 だから、免許なども発行していない。技をとにかく練り続けるのが肝要なのであるから、これを覚えればよい、これができたのだという証明書、保証書の類は必要ない――ということなのだろう。

 この辺りの直截さは、しかしだからこそ若者にとっては魅力的だった。いつの時代でも、若い人間は新しいものを求める。

 それも、程度問題ではあるが。


「手の内は知られているとして間違いないでしょうな。的場を襲ったのは、その上に胆力をつけるためか、腕試しか……」


 松斎は、苦虫を噛み潰した顔をしている。

 武蔵流以外のほとんどの流派では、技は隠す傾向がある。

 常に未知の技を隠し持つことは真剣勝負に対して有利に働くし、流派の宣伝の上でも何か秘密がある方がハッタリが効く。

 少なくとも、この時代の常識ではそういうものだった。武蔵よりも年上ということもあるが、松斎は元々は武蔵の兵法の基礎となっている新免流を学んでいた。それだけに武蔵がどれほどに先進的であり、優れているのかということも理解できるのだが――やはり、得心いかないものがあるのだった。


「へえ」


 とたつぞうはその松斎の内心を察しているのか、そう相槌を打つ。。

 とりあえず、とたつぞうは話の流れを修正した。


「二十年もたって、今更前髪の若衆が乗り込んでくるというのも妙な話ですな」

「確かに……縁者としても、多田市郎には妻子もなく、故郷の周防にこそ親族はし何人かいたものの、それらとは折り合いが悪かったという話です。長門にいたのも、半ば追い出されるようにして出奔したからだと」

「へえ」

「何がどうなっているのか……」


 と、その時になって、松斎はたつぞうが面白そうな、何かを期待しているように笑っているのに気づいた。

 微かに不機嫌そうに眉を歪める松斎の表情から内心を察したものか、たつぞうは決まり悪そうに鼻の頭をかいた。


「まあどうせ、何があったとしてもね、問題ないでしょう。ご隠居様が、たかが手の内を知られた程度のことで負けるはずなどがあるわけがない」


 松斎は不意を撃たれたような顔をしたが、すぐに「それもそうか」と頷いていた。

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