020.幸せの四面楚歌

「はいっ、流すから目つむって~!」

「こ、こうですか……?」

「いくよ~…………ざっぱーんっ!」


 バシャァッ!

 背中越しに勢いよく水が流される音と楽しそうな話し声が聞こえてくる。

 それは女性二人による親子のようなやりとり。俺は二人の声を聞きながらギュッと身を丸めていく。


「流れたから目開けていいよ~」

「はい……」

「じゃあ次!身体洗うから手を上げて~!」

「えっ!?いえ奥様、手伝っていただかなくても私は一人で――――わぷっ!」


 ここは白い湯気立つ銭湯のような浴室。

 楽しい会話の一方で俺はシャワー台のほうから女性二人の声を聞きながら広い浴槽の隅で1人、体育座りをするように膝を抱えていた。

 拗ねているとか不機嫌なわけでは決してない。ただとてつもなく居づらい空気に呑まれ、できる限り気配を薄くしていた。


 何故こんなことになったのか……それは言うまでもなく聞こえてくる声のうち1人の女性によるもの。俺は高鳴る心臓を必死に抑えながら水面に自分の顔を映す。

 神山の教えはいくつかある。そのどれもが心身ともに自立し他者に呑まれない強さを手に入れるためのもの。

 しかしこればかりは絶対にダメだ。"見る"ことはんもちろん、"意識"することさえダメだと水面のような澄み切った心を意識する。


「ご主人さま。隣、いいですか?」

「シエル……」


 長らく膝を抱えてジッとしていたのだろう。

 ふとそんな声に顔を上げると自身の従者であるシエルがこちらを覗き込んでいた。

 ここは浴室。湯船に浸かる俺もそうだが彼女も身を包むものは一つもなくすっぽんぽん。隠す素振りすらみせない彼女だが、それでも信頼する従者の姿を目に収めたところで少しだけ心に余裕が生まれる。


「どうされました?隅っこで膝を抱えて」

「あぁいや、なんでもない。いらっしゃい、隣どうぞ」

「はい、失礼しますね」


 さすがに主人のプライドとしてこの場に居づらいだなんていうこともできず。

 部屋のベッドで隣を促す要領で水面を叩くと腰を降ろして肩を並べる俺とシエル。

 彼女はまだ幼い。いくらすっぽんぽんだろうが心乱されるものなんて何一つとしてない。


 平和だ。暖かいお湯に穏やかな空気。そして昨日のような諍いもない。

 互いに湯船の平和なお湯に身を委ねていると、不意に彼女からクスリとした笑い声が聞こえてきた。


「……ふふっ」

「うん?」

「いえ、すみません。なんだかお昼一番にお風呂に入るってこう、新鮮で罪悪感もあってワクワクもして、なんと言いますか……」

「背徳感?」

「そうですね。……背徳感をすごく感じちゃいます。えへへ」


 濡れた髪の束をつまみながらはにかんでみせるシエル。


 シエルはこの時間、メイドとしての仕事が忙しい頃合いだ。

 昼食の準備・片付けに掃除、少し経てば洗濯物など繁忙期といって差し支えない。

 メイドになるまえならいざ知らず、今の彼女にとっては責任感との両挟みで背徳感を感じてしまうのだろう。

 楽しげに手で水鉄砲を作り遊んでいる彼女に俺は頬杖をつきながらその姿を見守っていると、ふとイタズラ心が内に芽生える。

 

「だったら毎日コッソリ昼に入っちゃえば?」

「へっ……?」

「もっと背徳感を味わうためにこれから日課にしちゃえば?大丈夫、俺もついてるからさ」

「それは……」


 彼女の視線が揺れ動く。

 ほんのちょっとのイタズラ心と好奇心。真面目な彼女だ。甘い誘いにどれだけ乗るだろうと思い問いかけると、しばらく迷うように逡巡したが、数度の後大きく首を横に振るう。 


「い、いえっ!それはいけませんっ!普段は大事なお仕事がありますので……!」

「――――わぷっ!」

「わっ!すみませんっ!」


 ギュッと力を込めて俺の誘いを断るシエル。その際水鉄砲の形をした拳が強く握られ、暴発した水の塊が俺の顔面へ。

 彼女自身も予想していなかった水鉄砲と死角からの攻撃に二人して驚きの声を上げる。これが因果応報というものか。水が入りツンとなる鼻を抑えていると慌てたようにシエルが俺を案じる。


「すみませんご主人さま!大丈夫ですか!?」

「―――――たな」

「もしかして昨日の怪我が……ご主人さま、どこか痛いですか!?」

「―――やったなぁ!シエル!!」

「きゃぁっ!…………へ?」


 やられたらやりかえせ。

 昨日のこともあってか、いつも異常に心配してくれるシエルだが、そんな彼女の不意を突くように両の手のひらで水を掛けるとパチクリと目を見開いて膝立ちになる俺を見上げていた。

 突然の水に何が起こったかわからなかったのだろう。しかし俺がニヤリと笑っているのを目にすると、だんだんと表情が呆然から交戦に切り替わっていき、彼女もまた手のひらに水を貯めていく。


「も~!ご主人さまってば心配したじゃないですかぁ!」

「あははっ!ごめんごめん!あんまりにもシエルが真面目で可愛いからさ!」

「むぅ、そんなお世辞を言ったって許してあげませんからねっ!」

「お世辞じゃないってばぁ」

「……もうっ」


 プイッと。

 俺を襲う水が次第に収まっていったと思いきや顔を背けられた。


「まったくもう……ご主人さまってばイタズラばっかりなんですから」


 そう背中越しに呟く彼女だが、こちらから僅かに見える口の端は大きく歪んでいて笑っていることが見て取れる。

 きっとお世辞でもなんでも嬉しかったのだろう。そんなところも可愛いと思いつつ優しい従者の姿を見つめていると、不意に後方からパシャリと水の跳ねる音が聞こえてくる。


「どうしたの二人とも、なんだか楽しそうね」

「あ、奥様」

「っ――――!!」


 ――――水面のような心が大きく揺らめいた。

 不意に後方から聞こえる声。その声が聞こえた瞬間、膝立ちだった俺の身体が一瞬で耳まで沈んでいく。

 水面のような澄み切った心――――しかし水面とは時に大きく荒れ狂うもの。

 シエルとの会話で落ち着いてきた心はその声によって再び大きく高鳴り始める。


「スタンちゃ~んっ!しばらく放っておいてごめんね~!」

「ちょ……まっ…………!」


 やはり。と、まさか。の声が同時に自分の中で上がった。


 ギュウッ。 

 彼女が高い声を出すと同時に抵抗する暇なんてない俺は、気づけば強く強く抱きしめられていた。


 それは母による抱擁。

 シエルに続いて身体を洗い終え湯船に合流した母はまっさきにこちらに向かい、背を向けていた俺を180度回転させて胸の内に収めていく。


 ここはお風呂。裸の付き合いという言葉があるように言うまでもなく入るものはみな裸だ。

 それはもちろん母も例外ではない。着替えて身体を洗って湯船に浸かるまでほぼ見ないように目を背け続けていたのに、ここに来てパワープレイで俺は彼女と正面を向き合い、そして抱きしめられた。


 年齢一桁の子どもには当然力で抵抗なんてできるわけなく、ただ彼女に飲み込まれていく。


「や~んっ!恥ずかしがるスタンちゃんも可愛いわぁ!食べちゃいたい!!」

「~~~~!!」


 「食べる」なんて物騒な言葉が耳に入りつつも虚しい抵抗は意味もなさず。


 彼女……母は街で見かければ間違いなく多くの人が振り返るほどの美人だ。

 長いダークブロンドの髪と、道中すれ違ったメイドさんよりスマホの縦幅ほど高い身長を持つ女性。

 そして何より驚くべきは一児の母でありながらモデルのような体型。腰は細く、出るところは出ている。抱きしめられて飛び込んだ先が彼女のもつ豊満なそれで、服というフィルターすら無いものだから俺の顔は一瞬でゆでダコのように赤くなる。


「お、奥様……」

「なぁに~?あ、私がいない間お父さんは浮気してなかった?」

「いえ、旦那様は立派に働いているかと……。僭越ですが奥様の年齢を聞かせてもらってかまいませんか?随分とお若く見えますが」

「そうかなぁ?普通だと思うけど。たしか……23かな?」

「にっ――――!?」


 シエルの問いから返ってきた答えに思わず抱きしめられる俺も目を見開いてしまった。

 すごい美人だとは思っていた。20代は確実、子ども1人産んだとは思えないほど。

 それがまさか23とは。逆算するととんでもない年齢で子どもを産んだことになるがこの世界では普通なのか判断つかない。

 その上父の年齢は目算40程度のはず。年の差がありすぎて色々と事情がありそうだ。


「やはり……となるとスタン様を出産したのは更に若く……」

「やぁねぇ。年齢なんて飾りよ飾り。魔王が居なくなったとはいえ人はすぐ死ぬ生き物だもの」

「それはそうですが……」


 酔っているのかと思うほどおおらかに笑う彼女は考える素振りを見せるシエルの頭をそっと撫でる。


「私はねシエルちゃん、人はすぐ死ぬからこそ悔いのないように生きたいの。だからスタンも産んだしあの人と結婚もした。シエルちゃんもやりたいことを我慢しなくていいのよ?」

「奥様……」


 母を見上げるシエルの瞳は僅かに揺れていた。それは彼女の言葉に何を思ったのか、母のそばにそっと近づく。


「奥様、私も何かあれば頼らせていただいてもよろしいでしょうか……」

「えぇ、もちろん!シエルちゃんもメイドとはいえ私たちの家族だからね!!……それとも何?今のうちから頼りたいことでもあるの?」

「それはっ……そのぅ…………」


 フフッと口を歪ませて笑う母に虚を突かれたように目を伏せるシエル。

 そんなシエルは指先を突き合いながらチラチラとこちらを見てきて、何のことかわからず俺は首をひねる。


「ま、いいわ。必要になったときに聞きましょう。…………それよりも問題はスタンちゃんよ!」

「え、ボク!?」


 グルンと。彼女のシエルを見る優しい瞳から何か真剣なものに切り替わって思わず戸惑う。


「えぇ!聞いたわよ!1度ならず2度までも!事故に加えて昨日誘拐されたって!大丈夫!?怖くなかった!?もう大丈夫だからね!」

「ちょっ……それは……ぐっ………助け…………」


 タップ、タップ。

 俺を拘束――もとい抱きしめる力が更に強くなる。

 先週の事故の知らせを受けて飛んできた母。いつの間にか昨日の件も耳に入っていたようだ。

 馬車を降りて以降、俺達と一緒の母。唯一の情報源候補であるシエルに目を向けるとしきりにこちらに頭を下げているのが見て取れる。


「お母さん……大丈夫だよ……怪我もなかったし……。だから……離し……」

「やっ!人はすぐ死んでもスタンちゃんは許さない!そんな危険な目に遭った後に1人になんてさせませんっ!これからはウチにずっといましょうね!」

「お、奥様……これからは私がずっとそばに居ますのでご安心を……」

「や~~!!」


 たしなめようとするシエルの対して、まるで子どものように駄々をこねる23歳児。

 シエルの尽力により母が平静を取り戻す頃には、俺は嬉し恥ずかし天国と地獄の四面楚歌によりのぼせる直前となってしまうのであった。

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