第3話

 初めての授業は、副担任を務める四組のものだったが、まぁいい加減なものになってしまった。教育実習でも授業はこなしてきたが、自分一人で五十分間クラスを任されることにはまだ慣れておらず、地に足がつかないというのか、何ともふわふわした心持ちだった。

「ハルさん、その漢字間違っとるよ!」、「ハルさん、その話さっきもしたで!」などと、アキを筆頭に、何度もダメ出しを食らった。

 そしてこいつがハルさんハルさんと呼びつけるものだから他の奴らも面白がってか、ハルさんと呼び、中にはそれを囃し立てる者もいた。

「アキ、あんたいつの間に先生と仲良くなったんよ?」

 それでもアキは飄々としている。

「そんなん二人の秘密やし!な、ハルさん!」

 最近の女子高生ときたら。いや、おれが知らないだけで、女というのはいつの時代も年代もこういうものなのだろうか。

 

 たまたま帰りが黒縁と一緒になった日があった。おれは社会科の準備室に自分の席があるから、他の教科の職員とは顔を合わせる事が少ない。黒縁とも久々に顔を合わせた気分になった。

「先生はすごいですね。一か月で皆からハルさんって慕われて」

 アキから広まり、いつの間にかおれは授業で会う生徒達からはハルさんと呼ばれる様になった。それにしてもまぁ、こいつは見当違いの事を言っている。

「馬鹿にされとるの間違いやろ。でも、先生なんて呼ばれるよりはずっとマシや」

「いやいや、羨ましいですよ。僕なんか自分のことでいっぱいいっぱいで」

 きっと校長の様な人間が、黒縁みたいな奴を苦しめているのだろう。「良い先生」であろうと気張るからいっぱいいっぱいになるのだ。あんな奴の言う事など放っておいて、おれみたいに好きにしていれば良いのに。真面目な奴は気苦労が絶えないのだろうな。おれも決して得する性格ではない自覚はあるが、こいつもこいつで大変そうだ。今度コーヒーでも奢ってやろう。

 黒縁と別れ駅に向かうと、うちの制服を着た女子生徒が数名たむろしている。その中の二つ結びの奴が、おれを見つけるや否や駆け寄って来た。

「あ!ハルさーん!」

 アキだった。人目も憚らず大声で呼びつけてきた。

「ハルさん、今帰り?遅かったね!お疲れ様!」

 時計に目をやると十七時十五分。おれの定刻は十七時だから何も遅いことはない。

「制服のままちょろちょろせんと、早よ帰れや」

「せっかく可愛い生徒に会えたのにそんな態度取るん?冷たー!」

 そう言いながらアキは、つんとそっぽを向いた。自分で自分のことを可愛いなどと口にする者にろくな奴はいない。

「ハルさんっていっつもこの時間まで仕事しよん?ハルさん、通勤は電車なん?ハルさんってどの辺に住んどん?」

 喧しい。おれの口は一つしか無いのにそう一辺に喋るな。

「ねぇー、アキー。もう行こー」

 向こうで待っている友人に呼ばれたアキは、返事をしながらそちらへ歩いて行く。おれと、その友人達の半ば程の距離でこちらへくるりと振り返った。

「じゃーねー、ハルさん!また明日学校でねー!」

 アキは後ろ向きで歩きながらこちらへ大きく手を振っている。おれも軽く手を挙げて、はいよと返事をし、そのまま改札へと向かい帰ることにした。


 こんな調子がしばらく続いた。週に五日ある学校のうちの、少なく見積もっても三日は、帰りの駅でアキとその友人に出くわしていた。最初のうちは、またこいつらたむろしてやがると思っていたが、しばらくするとそう気にならなくなった。

 さすがにこうも頻繁に顔を合わせるものだから、アキの友人達とも話をする様にはなってきた。そして、こいつらはこいつらで本当に暇なのだろうとつくづく感じる。

「お前らいっつもここでダラダラ駄弁りやがって。そんなに暇ならバイトでもせえ。その方がよっぽどマシや」

「うちは親がバイト許してくれんのよねー」

「うちも。門限あるし。二十時までには帰らんと親に怒られるんよ」

 女というのは、高校生になっても親から何かと縛られている訳だ。大事な大事な愛娘が、夜な夜などこをほっつき歩いているか分からないとなったら、気が気じゃないのは当然と言われれば当然だが。

 確かに、大学生の頃の女の知り合いでも、外泊は禁止、日付が変わるまでに帰宅する様にと親から言いつけられている奴がいた。親からすれば、子どもはいくつになっても子どもだということなのだろう。

「アキのとこの親は厳しくないん?」

「うん?ウチのとこもそんな感じやで」

 アキにしては何やら歯切れが悪い。年頃の子だから親とうまくいっていないのか、家のことは話したくないのか。こいつなりにも色々あるのだろうかとは思い、それ以上は誰も聞かないのでおれも放っておいた。

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