闇は月下に咲く
鼓ブリキ
Introduction/自殺霊
「はー、
まだ肌寒い時期、女子高生が一人。彼女は学校の屋上にチョークで書いた魔法陣の中央に立っている。
「なんで『仕事』の時は学校の制服着なきゃいけないのかしら。ねえ、どう思う?」紫苑は彼女から見て正面やや左側に声を掛けた。傍から見れば、何もない空間に話しかける異常な光景だろう。ハンズフリーの通話と言い訳する為にはイヤホン等のデバイスが絶対的に欠けている。答える声も、やはり聞こえない。
「だってアンナちゃんはそんな指定ないじゃないの。女子高生がこんな遅くに出歩いてたら絶対あやしいって。しかもこの辺の高校の制服でもないし」どうやらこの学校は紫苑の母校ではないようだ。「そうだ、ならあたし達の制服を作らない? ううん全身じゃなくていいの、ジャケットとかTシャツとかさ。あたし達だけに分かるようなロゴとか
彼女は缶入りのカフェオレをごくりと一口飲むとポケットからスマートフォンを取り出して時刻を確認する。「あと十分、ね」星を隠す曇天の下、画面の発光が一時彼女の顔を照らす。
「まあ時間指定してくれるだけ良心的よね。この前のやつなんか酷かったでしょ、覚えてる? 一晩中寝ないで待ち続けて、出て来たのが朝の三時五十分。あの後授業中ずーっと眠くてさあ、ノートなんか読み返したらもう文字すら書けてないの。ほんとサイアクだったわ」スマートフォンと交代に紫苑は折り畳まれた紙片を取り出した。夜の帳の中ではその中身を読む事は叶わない――が、もう読んで知っている。
『今夜十二時、屋上に来てください』もし来なかったら、井口先生と同じ目に合います。差出人の名前はなし。それが最も新しい手紙で、六通目だった。
「とあるクラスで生徒の連続飛び降り自殺。かと思いきや五通目は教師のところに来て、無視したらなます切り。警察は凶器の特定さえ出来ていない。うーん、もうちょっと早く来られればなあ。ん、いやその教師から何か聞けたんじゃないかなって」彼女達は飽くまで隠れて活動しなければならず、そうなると聴取可能な人間も限られてくる。校長は「何も心当たりがないんです、強いて言えば受験へのストレスから集団ヒステリーを起こしている……、とかでしょうか」不在がちの責任者からはこれ以上の情報は望むべくもない。
空を覆う雲は都市部の灯りを反射して、仄かに光っている。地上を照らすには足りないが。
「お、来たみたいね」
沈黙の内に数分が流れ、紫苑が呟くと同時に、冷ややかな空気が急に生温かく湿っぽいものに変わった。塩一粒程の変化――だがそれが決定的に状況を変えてしまっていた。
不浄な色の燐光が、夏のホタルの如く無数に湧き出し、それらは寄り集まって頭、胴体、腕と脚は二本ずつ。救急車両のランプを思わせる赤い目がぎらりと光り、猫背で小柄なそれは猿のようにも見えた。
「……知らなイ人。誰? だレ? 野上サンはドこ?」
「『野上さん』は死ぬのが嫌なんだってさ。そっちこそ何者? 何が目的でこんな事してるワケ? まあそれは後で聞くとして、今すぐ投降して大人しくするんならこっちも手荒な事はしないであげるけど、どうす」
「ああああアああアアアぁ!」猿のような『それ』は怒り、あるいは絶望の叫びを上げると紫苑に飛び掛かってきた。
投降する悪霊ってホントにいるのかしら、もしかして無駄な確認なんじゃ? と紫苑は内心で考える。慌てる事はない。『それ』の手は魔法陣を起点とした不可視の防護壁に阻まれる。紫苑は袖口に仕込んであった針を抜いてダーツよろしく投げつける。針は『それ』の
『それ』は少し身を捩る。破魔の術式の籠もった針が効いたのだ。だがそれ以上の効果はないと知るや、『それ』が嘲笑うような音を立てた。
「こンなもの、せいぜイ足止めにシか――」
「まあそうでしょうね」紫苑もそれに負けず不適に笑った。「でもそれであたしには――、いいえ、あたし達には十分」
どういう意味か、尋ねようとした。
出来なかった。
『それ』の胸を、青黒い鉤爪が貫いていた。
最期の力でもって『それ』は後ろを振り向いた。二メートルはあろうかという青黒いそれは、頭の
「ぐるるぅうううああああああああがああああ!」長身の怪物が咆哮する。
崩壊しゆく霊体越しに、紫苑は親指を立てて見せた。
「
種を明かせば何という事はない、紫苑は魔法陣を二つ描いていた。一つは自分用の防護式、もう一つは相方を隠す為の隠匿の術式。この魔法陣の内側に置かれたものは、術者以外からは見る事も聞く事も出来ず、高精度の探査術式でもなければ透視すら出来なくなる。
衝動的に危害を加えるのではなく、わざわざ標的を手紙で呼び出すような相手だ、明らかに異常な能力を持つ彼が居たら警戒して姿を現さないかもしれない。紫苑の策は見事に成功したのである。
「おっと、回収回収っと」紫苑は足元のバッグからシャーレのようなものを取り出すと、崩壊しゆく霊体に向かって突き出した。『目』の赤い光だけがそこに掬い取られる。もはや人型を装うだけの力も失ったらしく、二つの光は縮みながら一つに集まった。
怪物じみた彼女の相方こと
「これで良かったか?」ぶっきらぼうに彼は言った。
「おっけー、バッチリ」紫苑は親指を立てて見せる。「そんじゃ、解析始めましょ」
彼女は片膝をついて座り込み、シャーレを置いた。キャラメル色の手袋を嵌めた両手をそれに向けてかざし、ほとんど聞き取れない程の音量で何かを唱え始める。永理也は彼女の詠唱を聞き取ろうとしたが、僅かに聞こえる発音の仕方から日本語であるらしいという事しか分からなかった。戦闘、強襲、破壊、それらに関してならば彼は部隊の中でも飛び抜けた実力者であるが、それ以外の任務に必要な能力――例えば聴取、解析、協調といったもの――はおよそ不十分どころか欠落している、というのが各部の顧問が彼に下した評価であった。もっとも、彼としてはその評価に不満はなかった。
永理也はふと空を見上げた。分厚い雲の切れ間から、半分明るい月が覗いていた。満月へと膨らんでいくそれは昨夜見たものよりも表面の凹凸から成る模様がはっきり見える気がした。
「ねえ、永理也。……ちょっと、見てくれない?」
視線を下ろすと紫苑が険しい表情で手を差し出していた。彼はその手を軽く握る。悪霊の正体を彼自身が分析する事は出来ないが、術式や能力によって発信された情報を受信する事は可能なのだ――感度の悪い永理也の場合は相手の体やそれに近しいものに触れる必要があるのだが。
流れ込む悪霊だった誰かの記憶は、決して快いものではなかった。
――机に油性マジックで殴り書きされた罵詈雑言の数々。ロッカーに詰め込まれた生ゴミ。そして暴力。休み時間などはさながら狩猟のようだ。彼は襲い掛かる拳や足から逃れるべく机の並んだ教室を逃げ回るが、上履き筆箱雑巾果ては掃除用具入れのロッカーから持ち出されたバケツや箒、モップが投擲される。永理也はこの高校の陸上部が槍投げもしている事を思い出し、きっと無関係ではないのだろうと考える。
服を剥ぎ取られ、返してほしければ土下座をしろと主犯は言う。もう彼に抵抗するだけの力は残っていなかった。言われるままひれ伏すと、弾けるような爆笑とスマホのカメラが立てるシャッター音が鼓膜を打つ。
――彼とジャージ姿の教師の他には誰もいない教室。訴える為の証拠は彼自身に十分過ぎる程残されていた。彼らを罰してほしいとは言わない、せめて自分が安心して学業に勤しめるように取り計らってほしい。それは最後の希望だった。両親は多忙で迷惑をかけられない。どうか、せめて。だが教師は顔を歪めた。それは薄笑いにも似ていた。
でもなあ、お前、たいして成績良くないだろ? 無理して進学しなくたっていいんじゃないか。浪人とか、さ。
校長先生も心配してるんだ。皆の進路をな。うちの高校のブランドに傷をつけたら、後輩達も苦しむ事になるんだよ。な? ストレス発散くらい大目に見てくれないか?
堤防は決壊した。
――これから屋上から飛び降りて死のうというのに尿意を催す自己に、彼は自嘲的な気分になった。どうせ死んだら自律神経による抑制がなくなって汚物を垂れ流す事になるのにな。
習慣的に手を洗い、ふと顔を上げると鏡があった。
鏡の中の自分の顔に蛍火のような、何色とも形容しがたい色の光の粒が貼り付き、その面貌を捻じ曲げる。それは悪魔的な笑みを浮かべてこう言った。
「どうせ死ぬなら、君の体、ワタシにチョウダイ」それは彼の唇から発せられていた。
「ね、分かったでしょ? 心当たりがないなんて、あの校長、出鱈目言ってたのよ」視界は現在の現実に戻る。そこには、憤然と立ち上がる紫苑の姿があった。
「何をする気だ?」
「決まってるでしょ、明日これを見せる。言い逃れは出来ないわ」彼女は頭一つ分以上の身長差を持つ永理也をきっと見上げた。「何か文句でもあるの?」
「ある、大いにある。俺達の仕事はなんだったか忘れたのか? 怪異の正体の特定、及びその排除、それだけだ」
「原因が学校ぐるみのいじめの隠蔽なのよ、無関係なお節介じゃないわ」
「俺達の領分を越えるな、と言ってるんだ。俺は所詮警備会社の社員、お前はアルバイト。正義の味方ごっこをさせる為に連れて来たとでも思ってるのか?」
「警備会社なんて表向きの看板だけでしょうが。社員とかバイトとか以前に人としてどうなのよっ。アンタはなんとも思わないわけ?」
なんとも思わないはずがない。可哀そうだとは思う。だが彼女の主張を認めるわけにはいかない。
「……俺は一番最初に教わったし、お前にも教えたはずなんだがな。『余計な肩入れをしてはいけない、我々の仕事は畢竟いち個人の為でしかないし、社会正義の為などと思い込んではならない』」自分にこの教義を教えたあの男なら、こういう時どうするのだろう。思いを巡らすが、怪物じみた男の思考回路を真似るのは不可能だ。
さて困った。言いくるめるには彼は不利だ。劇作家と舞台女優のもとに産まれた紫苑の語彙は永理也のそれを上回る。かと言って、力づくで黙らせるわけにもいかない。
顎に手を当ててしばし考えた後、彼はこう言った。
「あくまで原因の報告と改善案の提示に留めろ。感情的になるな。それだけは守ってくれ」
こんな事言っても無駄だろうがな、という言葉は呑み込む。
果たして彼の忠告は役に立たなかった。原因がいじめにある事を聞いた校長は冷笑を浮かべた。
「では、もう完全に原因は取り除かれたのですね? ああ良かった、我が校の名誉と生徒の健やかな生活を取り戻していただき本当に言葉もありません」脂っぽい肌の中年男はそう言った。
「何がいいもんですか! 死んでいった生徒の無念だとかはどうでもいいってわけ!?」紫苑は憤慨して立ち上がる。
「そんな事は言っていませんよ。いじめをする屑も、いじめられる能無しも消えてせいせいしました。お嬢さんは大学受験について本気で考えた事がないから分からないでしょうが、この時期はとても大切なんです。みんなデリケートになってしまう。その上余計なストレスをかけるのは良くない。代々に渡って難関大の入学者を大勢輩出してきた伝統を、私の代で終わらせたくなかったんですよ」
「それって、結局あんたの都合じゃない! 自分がへまをしたのを認めたくないだけでしょ!」
永理也は何も言わない。
「ねえ、江崎さんは分かってくださるでしょう?」この小娘とは違いますよね? とでも言いたげな、媚びるような笑みを口元に浮かべて校長が永理也の方に顔を向ける。だがその目は陽光を浴びてきらめく軽蔑を隠そうともしていない。
「分かりません。私は小学四年から引きこもりだったので」細かい事情を説明するに値しない人間向けの
「まあでも、風通しを良くしておくに越した事はないと思いますよ」
校長があからさまに不機嫌そうな顔をする。「あなたまで説教ですか?」
「単なるアドバイスです。若者というのはおしなべて感情の起伏が激しく、それに伴う力が様々なモノを呼び寄せる。それにここの校舎は霊脈の真上にあります。対策は十分に取って損はないかと。……次の依頼をしなければならないのはそちらもお嫌でしょう」永理也はあくまで淡々と述べる。
校長は「はあ」とも「まあ」とも聞こえる曖昧な返事を口の中でモゴモゴさせた。潮時だ、と永理也は考えた。
「では我々はこれで失礼します。……帰るぞ、榊」目の前の校長の百倍くらい機嫌の悪そうな顔をした紫苑を立ち上がらせる。俺達の仕事は依頼人への説教ではないし、依頼人から説教を受ける事でもない。
二人は黙々と裏口へ歩く。紫苑は校長室での不機嫌な顔そのままだ。授業中らしい、二人は誰にも見られる事なく敷地の外まで歩いた。
そこで紫苑がふっと表情を緩めた。「これであのタコ校長はあたし達がやったとは思わないでしょ」
「は?」永理也が見れば彼女はスマートフォンを忙しなく操作していた。
「送信完了、っと」先程とは一転して晴れやかな顔でスマホをしまう。「実はさっきの会話、全部録音してたのね。
永理也は困惑した。「諦めたんじゃなかったのか」
「だって、こんなの明らかに間違ってるじゃない。何がいけないの?」
「依頼人の情報を漏洩してる」
「あたしがバラしたんじゃないわ」紫苑の顔がみるみる不機嫌に戻っていく。
「責任転嫁がお前の正義だとでも?」
「じゃあどうしろって言うのよ!」
「同じ事を何度も言わせるな。俺達の仕事は、大多数の人間がどうにも出来ない問題の一部を解決するだけだ。いじめだの人間関係の不和なんてのは当人達が解決すべきであって、余計なお節介は誰の為にもならない」
「さっき自分で言った事も忘れたの? 問題を根本から解決しなければ、今回のあたし達の仕事は対症療法でしかない。あんな腐った人間の吹き溜まり、風穴開けるくらいしてもお節介にはならないわ」
「……お前は自分が正しい事をしていると思っている。だがそれは独善だ。俺達はただの掃除屋だ。正義の旗の下に戦ってなどいない」
「何よそれ。永理也はそんなので本当に良いと思ってるわけ? 人の為に戦う自分を誇りに思った事がないの?」
人の為? 永理也の脳髄で黒い感情が渦を巻く。お前は俺のこの能力が何故発現し、何に使われたのかも知らないくせに。だが理性がそれを押し留めた。
「――天壁をあまりこき使ってやるな。ただでさえ情報部は人手不足なんだ」
「はーい」不承不承といった顔で、それでも紫苑は表面上は折れてみせた。「ごめんなさい、もうしません」話は終わった。二人は再び歩き始める。
「あ、そうだ」けろりとした顔で紫苑は永理也を見上げた。「この辺に、デニッシュが美味しいカフェがあるんだって。帰る前に寄ってかない?」
時間を確認する。「昼飯にはまだ早いぞ」
「ごはんじゃないってば。おやつだよ、デニッシュ」
「デニッシュ、って何だ?」
「えー、パンとケーキの中間、みたいな」
「パンケーキか?」
「それとはちょっと違うんだけど――」紫苑は足取り軽やかに歩いていく。その背を見て、報告書に何と書いたものか、永理也は頭を悩ませるのだった。
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