31


 お偉いさんとの面会を承諾した後に、橋本からもらった錠剤の欠片。橋本は何も言わなかったが、俺はそれがカインだと察していた。カオリも言っていたように、同じMDMA系のカインであれば、SEXtasyを投与した者の、中毒性を抑える効果がある。もちろんそれは橋本の言う通り、使用量を「厳正に管理」した上での話だが。だから橋本は、俺に「ほんの欠片」だけを渡していた。そしてその後の面会待機中も、午前中と午後の1回ずつに限り、その欠片をくれていた。


 だが、1回につき「一片の欠片のみ」であれば、中毒症を抑えるのに役立つだろうが。その欠片の束を、一度に飲み干したら……? 俺は最初に欠片を受け取ったその時から、舌の上に乗せて飲んだフリをして、ずっと「保管」していたのだ。結果として、今日までの3日間に溜まった欠片の量は、1錠分以上に相当するものになった。



 これを一気に体内に取り込めば、恐らく……。


 俺は、「ああ、大丈夫だ。すまん」と、自由の効かない腕で床に踏ん張ろうと手を突く形を取りながら、その流れで口元を手の先に近づけた。俺は溜め込んだ欠片を口の中に含み、「ごくり」と飲み込んだ。



 見張り番も橋本も、急によろめいた俺の体を支えることに精一杯で、俺の密かな行動には、まるで気付いていなかった。「じゃあ、行きましょう。慎重にね」と、橋本は改めて見張り番に声をかけた。急によろめいたりしたのは、自分がロボトミー手術を受けると知って、俺が精神的ダメージを受けてるのだと思っているかもしれない。そうであれば、なお好都合だ。


 そして、欠片を飲み込んでから数秒後。明らかに、俺の中で「異変」が起きていた。……さあ、来い。目覚めさせろ。俺の中の「本能」を、目覚めさせろ……!!



 俺の体の奥底で、確実に「何か」に火が点いた。それは、最初は小さなかがり火のようにも思えたが、あっという間に炎は「ぼおっっ!」と巨大化し、体全体を内側から燃え上がらせていた。来た……間違いなく、来た!!


 俺はいきなり、上半身を「ぐわっ」とのけ反らせ。驚いた見張り番の、まず右側にいる奴に。のけ反らせた体を、元の位置に戻すその勢いのまま、首筋に「ガブリ」と食らいついた。



「うぐわああ、ぐわああああああ!!」


 見張り番は恐怖に震える目で、俺の腕を押さえていた自分の手を、俺の頭に押しつけ。食いついた俺の口を、喉笛から強引に引き離そうとした。俺はその、「引き離そうとする力」も利用して。喉元に食らいついたまま、体をもう一度大きくのけ反らせた。


 びきいいいいっっっっ!!


 そいつの喉元の肉は、俺の口に噛みつかれたまま、ものの見事に引き裂かれた。ぶしゅうううっっっ……! 肉を引き裂かれた喉元から、真っ赤な血潮が勢いよく噴き出した。「がーー、あーーーー……」そいつは喉元を押さえた両手を鮮血で染めながら、なんとも切ない目付きで俺を見つめていた。なぜ、こんなことが起きたのか。なぜ自分はこんな目に逢っているのか。どう考えてもわからない、理屈に合わないと、俺に訴えているかのようだった。


 しかしもはやそいつの訴えは声にならず、何か言おうとするたびに、「ひゅう……ひゅう……」という、頼りなげな音が口から漏れるばかりで、自分の求めた疑問の答えを得られぬまま、その場に「バタリ」と崩れ落ちた。


「て、てめええ!!」


 俺の動きに呆気に取られていたもう1人の見張り番は、そこでようやく我に返ったかのように、掴んでいた俺の左腕を引っ張り、俺を床に押し倒そうとした。しかしそれは、俺にとっては願ってもない行動だった。俺は引っ張られた勢いのまま、そいつの体に自分の体を「どしん!」と押しつけた。そいつが思わず体勢を崩したところで、俺は痛烈な頭突きをそいつの脳天にお見舞いした。

「がつんっっ!!」猛烈な音が響きわたり、そいつは眩暈を起こしたようによろめいた。しかし俺の方は、思ったより痛みを感じていなかった。これも恐らくSEXtasyの「痛みを弱める効果」なのだろう。その隙を逃さず、俺はそいつの喉元にかぶりついた。


「ぐはあっっっ」

 先ほどもう1人の見張り番が、無理やり俺を引きはがそうとして喉笛を食い千切られたのを目の当たりにしたばかりだったので、そいつは食いついた俺をどうしたものかと悩んだあげく、仕方なく俺の背中を両手でガンガンと殴っていたが。そんなものは、今の俺には何の効き目もなかった。俺はガブガブと何度か首筋に噛みつき、血が滲み傷だらけになった喉元を、おもむろに食い破った。


 再び、ぶしゅううううう!! っと鮮血がほとばしり、そいつは「ぐああぁ……くわあぁ……」と、視線を空にさまよわせながら、やがてバッタリと倒れこんだ。と、そこで。俺の中の本能が、更なる欲望を剝き出しにしようとしていた。


 ……こいつらを、食いたい。こいつらの肉に、内臓に、むしゃぶりつきたい……!!


 そう、俺よりもカオリの方が、本能を表出させる状態に近かったせいか。カインの欠片を飲み込んだ直後から、カオリの本能が強く反応し始めていたのだ。凶暴化させるはずだった俺の本能は、今や「相手を食らう」、カオリの本能に取って変わろうとしていた。


「ああ、ああああああ!!」


 俺は……いや、「カオリ」は必死に、血まみれで倒れこんだ見張り番から目を背け。先ほど降りたばかりの、エレベーターの前へ走った。エレベーターの扉を開けると、閉まらないよう背中と足で固定し。綺麗に磨かれている、「鏡のような壁」の前に立った。カオリは壁に映った「自分の顔」を、真っすぐに見つめた。そして、そこには……カオリではなく、「俺」が映っていた。



「ふう……」


 そこで俺は、なんとか「俺自身」を取り戻し、その場にへたりこんだ。カインを取り込むことで「急性中毒」に近い症状を起こし、凶暴化する本能を呼び起こす……! という作戦だったが、カオリの本能までが目覚めるのは予想外だった。だがこないだも考えたように、俺とカオリの境界線があやふやになっているとすれば、それも十分あり得ることなんだな……。


『部屋から出て行こうとする男たちを「食べちゃいたい」って思った時も、史郎の顔を見て正気に戻れたから』


 カオリが言っていた、その言葉がヒントになった。カオリは俺の顔を見ることで、本能の暴走を食い止めることが出来る。それも、中毒症状が更に進行すればどうなるかわからないが、今のところはまだ大丈夫らしいな……。



 俺は見張り番が倒れている場所に戻り、拘束された腕を必死に伸ばして、ポケットを探った。なんとか手錠の鍵を見つけ出したものの、手錠を外しても肘を固定された状態で体に巻かれたベルトを解くのは、相当に困難だった。


 そこで俺は、見張り番の首から噴き出した鮮血を顔面に浴び、真っ青な顔で立ち尽くしたままの橋本に声をかけた。

「なあ、俺の体に巻き付けてある、ベルトを解いてくれないか? 手が自由になっても、あんたに飛びかかったりはしないからさ」



 足をガクガクと震わせ、その場から逃げることもままならなかったのであろう橋本は、俺の言葉にただただ「はい、はい……!」と、涙目で頷くばかりだった。




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