「初めまして。私は、橋本悟はしもと さとると申します。片山史郎かたやま しろうさん……で、宜しかったですね? あなたのことは、こちらにいる山下カオリさんから聞いています」



 ピシッとした髪型で銀縁の眼鏡をかけ、一見やり手の営業マンに見えるような、きっちりとした背広を着た橋本というその男は。見かけに相応しい、きっちりとしたお辞儀で俺に挨拶をした。ほぼ寝起きの恰好に近いままで、軽く羽織っただけの薄汚れたジャンバーに、シミの付いたチノパンといういで立ちの俺は、「ども」と軽く頭を下げるに留めておいた。


「早速ですが、何分内密の話になりますので。部屋の中に、お邪魔しても宜しいでしょうか?」


 まあ、扉の前に立たせたままにしておくわけにもいかないだろうから、仕方あるまい。俺は「どうぞ」と感情のこもらぬ声で、橋本を部屋の中に招き入れた。



 俺の住まいは、雑居ビルの屋上にある物置を改造した、通称「ペントハウス」と呼んでいる部屋だ。昔配信で見た『傷だらけの天使』という昭和の古いドラマが俺は大好きで、ドラマの主人公が住んでいたのが、ビルの屋上にある「ペントハウス」と呼ばれる住居だった。いつかあんな場所に住んでみたいと思っていたので、俺にしてみれば「長年の夢が叶った住居」ということでもあった。


 ビルのエレベーターは最上階、つまり「屋上の下の階」までしか通じておらず、そこから屋上までは階段を登って来ることになる。俺にとっての夢の住まいも、カオリにしてみれば「ダルい、めんどくさ」とブツクサ文句を言う対象に過ぎなかったのだが。


 それでも俺は、晴れた日に屋上から見下ろす、薄汚い都会の光景が大好きだった。地上のゴミゴミした雑踏とも、腐臭を放つゴミの山とも切り離されたところに、俺が暮らしている場所がある。例えそれが錯覚や思い込みに過ぎないとしても、そんな感覚を味わえるだけでも、この場所は俺の「理想の地」だと言えた。


 そんな俺のかすかな感慨に、一切関心を示さぬまま。橋本は俺の目の前で、持参した黒いスーツケーツを「かちゃり」と開けた。


「こちらが、普段私が扱っている商品です。すでに山下さんにはお見せしていますが、片山さんにも一度確認して頂いた方が宜しいかと思いまして」


 普段から「カオリ」「史郎」と呼び合っているので、山下さんとか片山さんとか言われると、何か他人のような気がしてしまうが。俺は「ああ、それじゃあ……」と腰をかがめ、床に置かれたスーツケースの中身に手を差し伸べた。



 色とりどりの錠剤や白い粉末が収められたビニールシートは、清潔感を保つようきちんと密閉され、ぱっと見てどんな品揃えなのかがすぐわかるように配置されており、橋本という男の几帳面さを表していた。俺はその中で、真ん中よりやや下に置かれた、ほのかなピンク色をした錠剤を取りあげた。


「……さすが、お目が高い。最初にそれを選ばれるとは……」


 それは決して俺に対するおべんちゃらではなく、俺の「見る目の確かさ」を評価した言葉だろうと思えた。そして俺はその言葉で、初めて見るこの薄ピンク色の錠剤が、恐らく橋本が持ってきた中で一番高価なブツであろうことを再認識していた。



 まず、橋本の几帳面さがひと目でわかる、スーツケース内のブツの配列。この配列が、「意図しないもの」であるはずがない。つまり、この配列は単に綺麗に見せるためだけのものではなく、橋本の確かな意図が込められているということになる。ならば、その「意図」とは何か。


 橋本が見た目通りに「優れたブツの営業マン」であるならば、それに見合うだけの利益を上げているのは間違いない。それは、客に「より良いもの」を提供するのが最大の目的ではなく、「より利益を上げられるもの」を提供することを目的とし、実践してきたということだ。


 ならばスーツケースを見て「一番目を引くもの」は、橋本が最も売りたいと考えているものであり、すなわち「仕入れ価格より販売価格を高めに設定した、利潤を得やすいもの」ということになる。イコール、そのブツは決して「最高品質ではない」ということだ。


 開けられたスーツケーツを見てまず目を引いたのが、真ん中あたりにズラリと並べられた、赤や黄色などの原色を用いた錠剤類だった。いかにも「これが売れ線ですよ」とばかりに並べられたそれらの錠剤が、橋本が「一番売りたいもの」であろうことは、すぐに察しがついた。ゆえに、高品質のブツを選択するのであれば、これらは真っ先に「選択肢から外すべきもの」だった。



 そして、真ん中あたりに並べられたものとは対照的に、四角いケースの四隅に置かれた錠剤類。これはその色も真ん中のものとは対照的に、昔ながらの「薬品」のような、灰色や白に近い色合いをしていた。オセロで四隅を取ったかのように置かれたそれらの錠剤が、一般的には真ん中の原色類に次いで「目を引くもの」だと思われた。


 しかしこれらは、「それなりに品質の高いもの」であろうと俺は考えた。ベテランの客なら、こういった「薬品っぽいもの」により興味を引かれるだろうことを意識した配置なのだ。原色で色合いの目立つ錠剤は、それゆえに若者や女性に人気があるが、その分「安かろう、そして質も悪かろう」という確率が高い。「昔ながらの地味な色合い」の方が、年配者は品質面で安心出来るのだ。


 だからこの四隅の錠剤は、それなりに高品質ではあるだろうが、ケースの中で「最上級」ではないと思えた。最上級なら、「四隅」などに置かず、ひとつのところに「そっと置いておく」はずだ。それを「見つけてくれる者」を、その場所でじっと待ち受けているかのように。そして俺は、「それ」を見つけ出した。最も目立つ原色の錠剤の下に、さりげなく置かれた「薄いピンク色」のブツを。



「これは昔、『アダム』と呼ばれていたMDMAを改良したもので、アダムは最も有名なエクスタシーに次ぐ人気があったと言われています。エクスタシーがMDMAの代表格として知られて行く中で、アダムはより『通な人々』に愛用されていたと言えるでしょう。


 こういった錠剤は合法化により、MDMAにお決まりの『不純物』などは一切含まず、服用することによる危険性も極めて薄くなっています。しかし、それでは『物足りない』のが、合法化以前から薬物を使用していた方々の悩みでした。山下さんには、私共の『懐古セット』を愛用して頂いてますが、そういった懐古主義に頼ることなく、現代に於ける『確かな刺激を与えてくれる薬物』として、これは開発されました。アダムの『直系の子孫』ということを踏まえ、この錠剤はアダムの息子、『カイン』と名付けられています」


 橋本はさも自慢げに、俺が取り上げた薄ピンク色の錠剤、通称「カイン」の説明を語った。これが、カインか……。俺もその名前を聞いたことはあったが、実際にこうして目にするのは初めてだった。アダムの「後継種」としては、「エヴァ」と呼ばれるものが現在最も出回っているブツだったが、それは橋本が言ったような、アダムの効能を「薄めたもの」で、アダムを服用したのと「似た気分」が味わえる、といった案配のものだった。

 

 カルピスを何倍にも薄めたような味わいしかないエヴァに比べ、一年ほど前からそのウワサを聞くようになったカインは、ほぼ「原液」を味わうようなインパクトがあるという、もっぱらの評判だった。そうそう、老舗のカルピスは21世紀後半の現在もまだ、家族に愛される飲料製品として、「お茶の間」に君臨している。やはり長年愛されてきたものは、それだけ確かで、安心感に満ちたものだということなのだろう。


 その「ウワサのカイン」をこうして持っているということは、更にウワサの域を出ない「伝説のブツ」、SEXtasyも。こいつは手に入れることが出来るということなのか……? 俺は橋本が「やり手で実績のある営業マン」であることは認識したが、果たして「そこまでの男」なのかどうかは、正直読み切れなかった。



「ね、橋本さん凄いでしょ? それであたし、史郎のこと橋本さんに話したの。そしたら橋本さんも、その気になってくれて……」


 カオリは、カインの錠剤にじっと見入っている俺を見ながら、嬉しそうにそう言った。カオリの言葉を受けて、橋本がその後を自分の言葉で引き継いだ。



「……はい。片山さんが、非常に腕のいい”ハンター”だとお聞きしまして。しかも、薬物合法化直前から施行に至るまでの、最も混沌とした時代に。【ストライダー】と呼ばれその名を馳せていた、伝説のお方だと……」



 ……伝説ってのは大袈裟過ぎるが、まあ俺がそんな時代に、色んなことをやってたのは間違いない。薬物合法化法案が施行される直前、それまで出回っていた「ヤバいブツ」をどう処理するのかが、法を施行する側もクスリにハマっていた奴らにとっても、重要な課題になっていた。


 明らかに「違法な手続き」を経て出回ったブツを、法案施行後も引き続き「違法」とするのか。薬物を合法化するのだから、そういったブツも「合法」だと規定するのか? その「線引き」はどこに設定する? ……法案自体が無理難題だったがゆえに、「違法だったブツ」の取り扱いもまた、無理やりと言える落としどころを見つけるしかなかった。


 苦肉の策として発表されたのは、法案の施行が決まった期日を「セーフティライン」とすることだった。それ以前に作られたものは「違法」、それ以降ならば「合法」という、強引極まりない線引きが設けられたのだ。


 そして予想通り、この「セーフティライン」を巡って、そこら中で虚々実々の駆け引きが行われるようになった。このブツはセーフなのか、アウトなのか。アウトならば、どうすれば「セーフに出来る」のか……? 誰もが自分に都合のいい結論を求める状況の中、それをある程度信頼度の基準をクリアした上で、客観的に判断出来る奴が必要だった。俺がやっていたのは、そういう仕事だった。


 それは恐らく、俺が「持って生まれたもの」だったと思う。「鼻が利く」なんて言い方をよくされるが、俺はまさに自分の「嗅覚」によって、ブツの「目利き」が出来たのだ。嗅覚だけでなく、味覚や視覚、触覚も人より優れていたようで、ぱっと見て「こりゃダメだ」と判断出来たり、見た目でわからなくとも臭いを嗅いだり指で触れたり、少し舌に乗せたりするだけで、そのブツの優劣を「嗅ぎ分ける」ことが出来た俺は、法案施行前の混乱状況の中で、引く手あまたの状態だった。



 更に俺の「嗅覚」はなぜか、身に迫った危険を敏感に感じ取ることも可能だった。お上の手入れが入りそうな、そんな「ヤバイ雰囲気」をいち早く察知し、「今日はやめにしよう。しばらく連絡も取るな」と皆に言い渡し、何度も危機を回避してきた。そんな理由もあって、「ブツの鑑定を頼むなら、片山に」という情報が裏社会で広まっていたのである。


 そしてブツの鑑定と共に俺が得意としていたのが、クライアントが欲しているブツを「見つけ出すこと」だった。これもやはり、俺に備わった独特の嗅覚が役立っていたと言えるだろう。混乱状況の中、高価なクスリがその価値基準を判断出来ない奴の手に渡っていたりすることもあり、そんな希少品を探し当てる仕事を請け負う俺のような輩が、通称”ハンター”と呼ばれていた。


 その中でも俺は、組織などの壁を超えた色んな「現場」を渡り歩き、同時に結果を出すまでの手腕も素早かったことから、大股で、そして速足で歩く者=【ストライダー】という呼び名を授かることになった。


 だがまあ、それも法案施行前後の混乱期に於ける「一時的なもの」で、やがて世界が「薬物天国」と化していくに連れ、俺のような「やさぐれた役目」を請け負う現場は減っていくことになった。その代わりに、橋本のような「キッチリとした売買」を仕事にする奴が、キッチリと現場を仕切るようになっていったのである。


 それと並行して、俺は「役目を終えた」ものだと認識し、昔の「つて」で入手したブツを楽しみながら、このペントハウスで余生を送る……という日々を送っていた。カオリには、「余生とか、まだ30代になったばかりなのに何言ってんの?」と言われたが、昭和の頃にT.Rexってバンドがあって、そのボーカルだったマーク・ボランって奴はな……などと、カオリに説明してもしょうがないだろうと思い、あえて言われるがままになっていたのだが。



 どうやら橋本は、俺のその「昔取った杵柄」な嗅覚を利用したいらしい。奴の目的は、あくまで自分の利益だ。もちろん俺にも働いた分の配分は回すだろうが、自分中心で考えることは間違いないだろう。利益に置いても、そして安全面に置いても。



「私はこの時代に薬物を取り扱い販売する者として、それなりのことを成し遂げてきたという自負はあります。しかし、それだけは足りない。あなたのような、幾つもの修羅場をくぐって来た経験こそが、SEXtasyを探し当てるためには必要不可欠である。私はそう考えました」



 修羅場をくぐってきた、経験値か……。まあ俺の場合は、修羅場になりそうな危険を察知して、その前に脱兎のごとく逃げ去るのが「得意技」だったからな。それもまた、ストライダーとよばれた由縁だ。だから決して、修羅場自体を「体験した」ことはそれほど多いわけじゃない。修羅場になってもおかしくない現場の経験値ってことなら、確かに頻度は高いと言えるだろうけどな……。


「まあ、俺もSEXtasyの話は聞いたことあるから、もしほんとにそんなものが実在するんだったら、見てみたいって気持ちはあるよ。だが、雲を掴むような話、砂漠に落ちたコンタクトレンズを探し出すような話じゃどうにもならん。あんたは、ある程度の『当たり』は付けているのかい……?」


 俺はあえて、やや挑戦的な口調で橋本にそう問いかけた。しかし実際、実在するかどうかも定かでないブツを探すのに、何もないところから始めたのでは、途方に暮れるばかりだ。こうして俺のところに来る以上は、恐らく「何らかのとっかかり」くらいは掴んでいるのだろうと思われた。



「はい……それは、もちろん。もし、私に協力して頂けるのでしたら、詳細をお話します。詳細を聞いてからでなければ返事は出来ないというのであれば、その『ヒント』くらいはお話することも可能ではありますが」



 ……なるほど、な。さすが「やり手」だけあって、交渉術に長けた男だ。自分の中で「詳細」と呼べるだけの材料は揃っている。だが、協力することに同意しない限り、その全てを明かすわけにはいかないと。まあ、それは当然だろう。手持ちのカードを全部晒してから、ポーカーの勝負に出る奴はいない。まずは手札の中の、1枚か2枚だけお見せします。そこにベットするかどうかは、あなた次第……ってことか。


 どんな手札を揃えているか知らないが、恐らくエースやジョーカーは持っていたとしても見せてこないだろう。だが、絵札のワンペアくらいは「チラリ」と覗かせてくる可能性はある。スリーカードやフルハウス、フォーカードにまで「化ける」可能性があるワンペアだ。想像を膨らませ、聞く側を上手く刺激するような、そんな「艶っぽい手札」を見せてもらうとするか……。


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