第37話

由紀子の眠気は完全に消えていた。目を大きく見開いた後、またゆっくりと閉じた。


あの日は朝から変なことばかりある日だった。味噌汁の具のホウレンソウ、油揚げ、人参を切り煮たて、味噌を入れる段階になって棚を開けてみると、味噌がなかった。

「この私が、この私が味噌を切らすなんて考えられない。私に何があったの?」

今考えてもその基となった原因を思い出すことが出来ない。でも、(何かが・・・)

ごく小さな歯車が狂っていたのかも知れない。全てでないにしても、あの日はみんなが馬鹿みたいに狂気の中にいたような気がする。

「あの子に何があったの?」

あの頃松阪市や近くの町で子供がいなくなったりしていた。誰もが口には出さなかったが、心の中で誰もが、子供・・・特に女の子を持つ親は恐怖で体を震わせていたのは間違いない。

その内、この近くまで、得体の知れない化け物がやって来る。計り知れない恐怖だった。小さな子供のいる親は、うちの子は絶対怖い目に合わせない。そう願うが、どの親もどうすれば自分の子供を守れるのか、その方法さえ分からなかったのが事実だったと思う。だから、特に本里ではそ知らぬふりしていた。まったく世間の出来事に疎く、その怖さを感じていても口には出さない。

朝美が修に頼まれて、叔父の家に茄子の種を届けに行ったのが、朝の六時半ころだった。少しも不思議なことではなかった。修は時々朝美に簡単な用事をさせていた。少しは気にはなったようだけど、それほど、まだ朝美には無理と言うようなことではなかった。

健次と春美はいつもの時間に学校に行く時間になり、送り出した。この二人はいつもと同じだった。そう・・・思う。今となってはそう思いたい。

気がつくと妙な不安な気分が襲われていた。初めそれは何か分からなかったけど、自然と使いに行った朝美の帰りが遅いと気になりだした。叔父の亀谷秀雄の家は五つの女の子が使いに行くには遠いかもしれない。だけど、何度か修と一緒に行っているから心配はしていなかった。

そんな気持ちままずっと気にしていると朝美が帰って来た。すぐ朝美の異常なオーラに気付いた。言葉が出て来なかった。走り寄り朝美に駆け寄ると、確かに異様な風体だった。これは率直な印象だった。他人が見れば、いつもと変わりない朝美に見えた。でも、全然ちがった。

「何が?」

朝美に言葉を掛けたかったが、やはり声が出てこなかった。あの子の目がじっと私を見つめ、何かに怯え、耐えている表情をしていた。私に何かをしてくれというのではない。自分でも、どうしたらいいのか、今の自分の気持ちをどう伝えたらいいのか分からなかったのかも知れない。この瞬間、

「あっ!」

すぐに分かったというより、恐ろしいという不安が導き出した直観だった。行方不明になった女の子はまだ見つかっていないと聞いていた。本里の誰も口には出さなかったけど、きっと思っていたに違いない、乱暴されて殺されているに違いない。    


私は朝美のスカートを荒っぽくまくり上げた。泥に汚れ不自然な形で乱れていた。由紀子にはそう見えた。そして、

(やっぱり)

と思った。

「何が?」

もう一度自身に問い返した。

(私の子が、この子が・・・一体何をされたの?)

得体の知れない化け物は、こんな小さな子供に何を望むの?私の子供なのよ。

私の経験を超えた想像が必要だった。

「あの男。あの叔父」

怒りというより怖さが先にたった。最初に会った時の印象が今もはっきり残っていた。なぜ、あの叔父なのか、自分でも分からない。あの感情のない冷たい目が気に入らない。顔を少し下げ、冷たい目で睨み付けてくる。私に何を望むの、と思った。そうしたら、あの叔父亀谷秀雄はニタッと笑った。

私の心が読めたのかしら?私がそう思ったのは、彼がニタリと笑ったタイミングがぴったりだったから。気味が悪くなった。

修との関係から全く接触を無くすわけにはいかなかったから、我慢するしかなかった。でも、出来るだけ近付かないようにしていたし、子供たちも近づけないようにさせた。だけど、修は、この私の気持ちを知ってはいたようだけど、時々亀谷秀雄と会っていた。また子供たちにも・・・というより、なぜか朝美にだけ用事を見つけては、させていたようだった。

あの叔父、

「嫌いなの」

私は自分の気持ちを隠さずに修にぶつけた。修がどこまで私の気持ちを支えてくれるか分からなかったけど、何としても自分の気持ちを吐露する必要があった。

「あいつは確かにおかしなところがある」という。何を考えているのか、俺には全く分からない。でも、俺のお袋さんの妹の子だ。父親は借金を残し家出してしまった。母親はそんなことから精神的にまいってしまい病院に入院しっ放しの状態だ。俺が何とかしてやらなくてはならないんだ。

修には言わないでいたけど、ある時期から誰かに見られているような気がしてならなかった。はっきり口には出さなかったが、間違いなくあの感じは叔父だったと思う。

それにしても分からないのが、叔父秀雄がウサギを五羽飼っていたことである。あんな無残な死に方をした後、可哀そうなので修が餌をやっていた。今は四匹になってしまった。あの頃一匹が妊娠していて、二羽の子供を産んだ。叔父は、ウサギの何処に魅力を感じて飼っていたのだろう?私には分からない。

それとあの日の朝美がどう関係するのか分からない。でも、あの日のことを考える度、叔父の存在が頭に引っ掛かって来た。

朝美が帰って来て、しばらくしてあの人は帰って来た。というより私の知らない間に家に帰って来ていた。朝美の着替えが終わり、台所に戻るとあの人がちゃぶ台の前に座っていた。服はいつも仕事に行く薄水色を着ていた。

私が、いつ帰って来たんですって聞いたら、

「今」、

とだけ答えた。

「今日は転んでしまい、服もズボンもドロドロに濁してしまった。悪いが洗っといてくれ」

修らしくないことを言って、由紀子は驚いたが、

「はい」

と返事をしておいた。今でもその時の様子をはっきりと覚えている。本当に泥まみれで、どんな転げ方をすればこんなに汚れるのかと思うくらいきたなく汚れていた。洗濯機の水がすぐにこれまでに見たことがない色に染まってしまった。なぜか、その色に引き付けられてしまい見続けていたが、気分が悪くなり吐いてしまった。

「キィ・・・」

という悲鳴を上げてしまった。頭に浮かんでいたのは一点の赤いシミだった。

「これは・・・」

帰って来た朝美の姿に、由紀子の心はくちゃくちゃになっていたので冷静さを失っていたのだが、それは今もはっきりと脳裏の奥底に残っていたようだった。

あれは・・・血。赤い点は、血。薄いピンクのティシャツに付いていた赤い点。

(血、だとしたら、何?何があったの?やっぱり・・・)。 

また私は叔父のことが気になり出した。修から叔父ことでこんな話を聞いたことがある。叔父が十六歳の時、家の近くで火事があったらしい。どういう成り行きかは知らないが、その火事は叔父が関係しているという噂が広まった。そして、最後には叔父が火を点けたと誰も言い始めた。実際は、籾殻を燃やした後の不始末が原因のようだった。

どうやら叔父もこういう噂が広まっているのを知っていたらしい。しかし、叔父は何も反論しなかったようだ。噂はあくまで噂だから、誰も叔父に言ってこない。だが、その広まってしまっていた噂を止めることが出来なかった。おかしなことだが、その噂は公然と伝搬していない。実際、叔父もその噂を耳にしていないはずである。

修は、人からその噂を耳にすると憮然とした目付きなった。俺は、

「あいつは嫌いだ。しかし、こんな馬鹿な奴にへつらうのはもっと嫌いだ」

といい、しばらく機嫌が悪かったことを、由紀子ははっきりと覚えている。

私も叔父は嫌いだけど、放火する人間だとは思わない。多分に神経質な所があるように見え、この事件では相当苦しんだらしい。十六歳の少年には苦しい日々だったに違いない。

その辺から、叔父の性格が全く変わってしまった、と修は言う。私は以前の叔父がどんな人なのか知らない。人は変わると思う。外見は変わらないが、見た印象より全く違った人格の持ち主がなってしまうことがある。そして、外見も内面も違ってしまうこともある。

叔父の場合どうなんだろう?修に言わせると、人に会わなくなったという。以前から余り人付き合いの好きな他人ではなかった。目が曇り、疑い深い目で本里の人たちを見るようになった。

そんな叔父を、修は見捨てる気にはなかった。それまでと同じように接し、叔父の家に出入りしていた。

由紀子は修から聞いている。寄合橋の近くにある大黒屋という雑貨店で、叔父が買い物をしながら歩き回っていた時、なかなか決められないでいると、その店の若い嫁が近づいて来て、

「あんた、そんな所で何をしとんの?」

と、侮蔑した目で睨み、怒って見下されたのである。十六歳の少年はびっくりして、縮み上がり走って逃げ出した。

「なぜ、俺はこんなに人から馬鹿にされるのか・・・」

当然、彼の・・・その答えは、ない。

そのころから叔父はウサギを飼い始めたようだ。

「なぜ?理由は?」

修にもそれは分からないらしい。朝美もウサギが可愛いといっていた。だからといって、由紀子は叔父の家に遊びに行かすことは絶対に許さなかった。が、修は違った。

あの日、修は叔父の家に朝美を使いにやった。

そして、あの朝、叔父は無残な姿で見つかった。それだけが形として現れた。

(そんなことはない。そんなことはない。まさか・・・)

今思い出してみて、修の行動そのものがいつもと違っていた。いつもは山の方に歩いて行くのに、あの日は川に向かって行った。以前にそうしたことがあったのかもしれないが、はっきりとした覚えはなかった。その方向には亀谷秀雄の家があった。

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