第27話

母、八並由紀子から電話があった。家のことをあれこれ考えなくなった時、不思議と電話が掛かってくる。そして、

「一度でいいから帰っておいでよ。お願いだから。お父さん、寂しがっているよ」

由紀子は決まってこう言う。

「分かっているって」

朝美はいつも決まってこう答える。

「本当にだよ」

由紀子は朝美が理由は分からないが、そう簡単に帰らないのを知っている。でも、いずれ帰るだろう。修と朝美が交わした約束も知っている。しかし、由紀子はそれまでに一度でいいからやはり帰って来て欲しいと思う。朝美が東京へ出て行ってから何回となく交わされた会話である。由紀子が真剣にいうのも変わっていないし、朝美が素っ気なく答えるのも変わっていない。

「分かっているわよ。何か、用?」

何も用などないのは、朝美にはよく分かっている。

「朝美がどうなのかな、と思ってね」

「何もないわよ」

「まだ二年なのね」

「そうね」

「早いわね」

「切るわよ」

「無駄遣い、していないわね」

「してないわ。感謝している。アルバイトしなくていいんだもの」

そして、由紀子は必ず修の近況に触れる。

「お父さん、何も趣味がない人よ。家族みんなのために働いてきたの。私が一番良く知っている。今は朝美のためにだけ働いている。それだけの人」

「お父さんに有難うといっておいて。もう遅いから切るわよ」

由紀子からの返事が返って来ない。

朝美は思い切って受話器を置いた。こうでもしなければ、電話を切る機会を失ってしまう。受話器を置かなければ、由紀子は健次や春美の近況を話し始める。朝美には聞きたくないことだった。

「お母さん?」

榊原京子が朝美の部屋に遊びに来ていた。たまにうとうとと寝てしまい、朝までいることがある。今日はそうなるのか、まだちょっと分からなかった。

「そう。くどいんだから」

朝美はベッドに座った。気分が落ち着かないのか、すぐに立ち窓辺に行き、窓を開けた。そこには間違いなく東京の夜があった。由紀子も同じ夜の中にいるはずである。彼女の胸はざわざわと落ち着かない。

「心配なのよ。一度帰ったら」

「いいのよ。いずれは帰らなければならないのだから」

「でも、東京へ来てから、まだ一度も帰ってないんでしょ?」

朝美は目をつぶった。

「私のお母さんもくどいの。どこの親も同じね。うるさいくらい。でも、すごく心配しているんだと思う。ここでは誰も心配してくれる人なんていないんだよ。家族っていいと思う」

「私は嫌い」

朝美は大声を出した。

京子はびっくりして朝美を見返した。

「あっ、ごめん。大きな声を出して」

朝美は謝った。彼女は気恥ずかしさからか、窓を閉めた。そして、隠れるように顔からベッドに飛び込んだ。

二人とも黙ってしまった。時々喧嘩をしたようないさかいをする。みんな、つまらないことばかりである。今日は、それではない。

「朝美はいずれ帰るんだからね。今を楽しむのがいいのかも」

そんな時必ず京子から話し掛けてくる。気まずい雰囲気があっという間に霧散してしまう。

「お父さんとの約束でしょ」

朝美は返事をしなかった。

「わたし、朝美が羨ましい。すっごく可愛がれていると思う」

そんなことはない、と朝美は思う。が、言うべきいい言葉が出てこない。でも、仕方なく、

「迷惑なのよ」

と言ってしまった。

「駄目よ、そんなことを言っちゃ。家なんか、私なんかちっとも可愛がってくれていないんだから。今も誰かにすっごく甘えたい気分、分かる?」

「・・・」

朝美は言葉を失っていた。

「いろいろな手段を使って、お父さんとかお母さんに甘えようとしている。とにかく可愛がって欲しい。頭を一度でもいいから撫でて欲しい。出来る限り和歌山には帰るようにしている。何かをせずにはいられないの。でも、でもね、今の所、私のやること、全部だめ。家族のみんなから、私の小さな体は撥ね退けられしまう。泣いたこともある。その内、泣かなくなった。泣いても仕方がないというのが分かってきたのね」

朝美は父修の無表情の顔を思い浮かべていた。

「なぜ、可愛がられなかったの?」

朝美は思い切って、聞いた。

「泉・・・」

泉とは京子の妹で、今、高校の二年だった。

「今も思っている。私は可愛がられていないんだと。泉の方が可愛がられているってね。時々妹が憎くったらしくなる。でも、こればっかりはどうしょうもないの。そうでしょ。泉を殺すことなんて出来ないでしょ?」

朝美は肩をぶるっと震わせた。彼女は無表情のまま、空気の流れの止まった空間の一点を見つめたまま何も言わなかった。

「朝美。お父さん、好き?」

「嫌い」

朝美に少しの迷いもなかった。唇が震えているのに気付く。

「お母さんは?」

朝美は少し間をおいて、首を振り

「嫌い・・・そんなに好きじゃない」

と答えた。

「私は嫌い。みんな嫌いだけれど、正月とか夏休みにはあそこに帰る。なぜだか分かる?」

京子の目は潤んでいた。涙は、朝美と同じにいる間、これまで京子は見せたことがない、

「あそこが私の故郷だから」

「ふるさと・・・」

「そうよ。ふるさと。これは、絶対の逃げることの出来ない事実なの」

「私、嫌いで帰らないんじゃない」

「じゃ、素直にかえったら」

朝美は、

(きらい、ふる・・・)

言葉がうまく出てこない。

「嫌なの。とにかく嫌なの。嫌なものは絶対に嫌なの」

朝美の頭の中は混乱していた。

「ごめん。怒らないでね。朝美の生活に立ち入る気はないけど、朝美が帰らないのは、あの人が原因?」

朝美が不機嫌になりつつあるのに、京子は気付いた。彼女が、もう一度ごめんと言おうとした。

「何?」

京子は窓ガラスがぶるるっと震えたのに気付いた。彼女は立ち上がり窓に近づいて行った。

「何なの。風が吹いてきたのかな?」

彼女が窓の傍に着いた時、窓ガラスが激しく震え、それが次第に大きくなってきた。

「何なの?これ、風じゃないわ。風なんか吹いてない」

京子はその場で腰が砕けてしまった。何か尋常でない事象に接した時、人は言い知れぬ恐怖を感じてしまう。京子にとって今がその時だった。しかし、彼女にはそこから逃れる方法を知らない。 

「キャッ!」

京子は悲鳴を上げた。窓ガラスの一枚が踊り狂わんばかりに震え出したのである。彼女はこの瞬間誰かに助けを求めた。それが朝美だった。

「朝美!」

京子は声を張り上げ、叫んだ。だが、彼女の悲鳴はすぐに止まった。自分が子供みたいな動揺をしているのに気付き、恥ずかしさを感じたのか。そこで気持ちを落ち着かせようと胸の騒めきを抑え込もうと、大きく深呼吸をした。激しい呼吸が徐々に収まって来た。でも、まだ平静さを取り戻せない。

京子は、朝美を視線を移した。

「どうしたの?朝美」

京子はそこにいる朝美の様子に、いつもと違う異様な雰囲気を感じたからである。ついさっき京子が窓ガラスの震えに恐怖を抱いたのと同じ異様さだった。違うのは一方がガラスで、もう一方は人間だった。

「朝美」

京子は少し手荒いとおもったが、思い切って近くにあった目覚まし時計を、朝美に投げた。 

「ごめん」

と、京子は謝った。時計は見事に朝美に当たった。

朝美は胸に当たった時計に衝撃を受けたようだったが、眠りから覚めた時のように目を大きく見開いている。

京子は窓ガラスの震えが止まったのを確認した。

「何だったの!」

と、彼女は朝美にじつと見つめたまま、考えた。しかし、何の答えも得られそうもないので、京子はすぐに考えるのをやめ、ぐったりと肩を落とした。


この後、朝美は目を開けたまま、浅い眠りの中を漂っているように、京子には見えた。

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