第4話
体の震えがまだ止まらない。
(お母さん)
声が出て来ない。
ゆっくりと由紀子に近付いて行く。
夫、修はもうとっくに会社に行く時間だったが、田んぼからまだ帰って来ていなかった。
(今日は休むのかしら)
と思ったりもしたが、彼女はすぐに否定した。
(何か、やることがあるのかな?)
由紀子は、今日は、会社を遅刻する気なんだ、と自分を無理矢理納得させた。どんな用事があるのか知らないけど・・・彼女は気にはなった。
それよりも彼女が気になっていたのは、朝美だった。幼稚園に行く時間になっていたが、まだ帰って来ていない。
(あの人が用事を頼んだんだけど・・・どうしたのかな!)
なぜか、急に不安に襲われ、探しに行かなくては・・・そんな気持ちが限界に近づいた時、朝美が帰ってきた。
「どうしたのよ?」
(どうしたのかな・・・)
朝美の幼い体は震えている。唇も震えている。どう答えていいのか分からないのだ。
なにかが・・・変に見えた。
五歳の女の子なのだ。
幼稚園に行くのに、ちょっとだけいい服に着替えさせなくてはいけない。普段でも人様には見せられないような服は着せていなかった。由紀子のちょっとした見栄だった。
その服が、何をやったか知らないが泥だらけに汚れていたのである。泥だけじゃない。由紀子は気になる色に目を曇らせた。赤い小さな点がいくつも・・・何なの?
「へっ」
朝美は舌を出して、笑った。笑った彼女の様子は普段と変わらなかったのが、由紀子はちょっと首をひねった。
(この子、何で震えているの!)
「ねえ!」
言葉が出て来ない。ようく観察してみると、
(何で・・・服が汚れているの?)
どうしたの、と訊こうとしたが、言葉に詰まってしまう。
女の子にしては気が強い子だった。朝美が、服を汚すことはけっして不思議なことではなかった。
特に、幼稚園から帰って来てから、遊びに飛び出して行くと、服を汚して帰って来たことが何度もあった。
しかし、今は朝なのである。喧嘩するような相手が、この時間近くにいるとは思えなかった。
由紀子は朝美の服装を改めて良く観察した。確かに白いブラウスは泥で汚れていたのだが、それよりも由紀子が気になったのは、下着・・・パンツが汚れ、半分下がっていたことである。
由紀子は一瞬生暖かい冷気が彼女の背筋を走るのを感じた。
(まさか・・・)
と由紀子は思った。ここは、そのようなことが起こる場所、地域ではない、と彼女は自分に強く言い聞かせた。
「来なさい」
由紀子は朝美の手をひっぱり家の中に入れた。これからの彼女の行動は素早かった。素早く朝美の服を脱がし、素っ裸にした。そして、キッチンに掛かっているお絞りを水でぬらし、朝美の身体を拭きにかかった。
(何かがあった?)
由紀子は自問した。この子に聞いてもいい。しかし、どう聞けばいい。
(男に乱暴されたの・・・)
それ程遠くない所で気になる事件が起こっていたのを、彼女は知っていた。修も知っているはず。しかし、このことで修と話したことはない。
(まさか、ここで・・・)
由紀子は朝美の幼い下半身を何度も何度も拭いた。なぜだか知らないけど、由紀子の目は涙で溢れていた。まだ、この子はあんなことをされたと決まったのではないのに。あの人は大人しい人、でも・・・気分を損ねると、あの人がこのことを知ったら、どうおもうだろう、と由紀子の脳裏を滅多に怒らない修が感情を乱した時の目の焦点の会わない顔が掠った。
由紀子はぞっとした。彼女は修が感情の自制を失ったときの怖さを良く知っていた。背後に人の気配を感じたので振り返った。でも、誰もいなかった。もう会社に行かなければならない時間なのに、まだ帰って来ていない。
(どうしたんだろう?)
彼女は夫のことも心配していた。でも、今はこの子の方が気掛かりだった。
(気のせいで良かった)
あの人がいたら説明のしようがない、と由紀子はほっと胸のときめきを消した。でも、そろそろ帰って来る違いない、急がなくでは。由紀子は急いで新しい下着をはかせ、服も、この日曜日に買った服を着せた。
由紀子によって朝美が幼稚園に行く準備が出来て、十分くらいしてから修は帰ってきた。朝美はすっかりいつもの五歳の少女に戻っていた。
(おやっ!)
と由紀子は訝った。奇妙な違和感が漂っていた。ただ、理由もなしにそう思った、いや、そう感じただけだったのかもしれない。
由紀子は朝美に受けた同じ印象を抱いたのだが、修の場合ちょっと違い、何が変なのか、どう変なのか言葉に出来なかった。
修の服は泥が付き汚れていたが、そんなことはたびたびあった。ズボンも汚れていたが、ぜんぜん不自然なことはなかった。彼女には毎日見慣れていた朝の夫の姿であった。そして、鎌は少しの汚れもなく鈍い輝きを見せ、修の左手に握られていた。
朝美はそんな父に、
「お父さん」
といった。朝美もいつもと違う修を感じたのだろうか?そのせいか、にこりと微笑みを作ろうしたが、少ししか唇が動かなかった。
修は、
「幼稚園に行かなくて、いいのか!遅れるぞ。それよりも、用事は」
と、修は少し怒ったようにいった。朝美の言ったことに機嫌を損ねたのか、娘を睨み反した。
「してきたよ」
と、朝美はいつもの張りのある声で答えたのだが、彼女の目はおびえているのか、感情のない目で父を見つめていた。
(この子はまだ五歳だ。それなのに、この反抗的態度はどういうことだ)
こう思ったが、修は極めて冷静に見えた。何かを我慢しているように、由紀子には見えた。
「何を?」
(分からない・・・?)
修の顔色に変化は無く、変わらず娘を見つめていた。
この日から一週間の後。
修の叔父亀谷秀雄の無残な死体が宮川に掛かる寄合橋の下で発見された。秀雄の顔二十数か所ばかりの無残な傷があり、鋭利なもので何度も傷付けられていた。顔中が傷で覆われ、何処の誰だかすぐに断定するのは難しかった。左の腕も首もかろうじてくっ付いている状態だった。失血死と断定された。肉体はばらばらではなかったけれど、そのような残虐な事件はテレビドラマか映画だけと思っている人々が住む所で起こったのだから、警察だけでなく地元の人たちに大きな衝撃を与えた。
すぐに大台署から刑事がやって来て聞き込みにまわったが、大きな成果は得られなかった。不審者をみかけたことはなかったかだけでなく、秀雄自身についても恨みや憎しみの線から聞き込んだが、何も浮かんで来なかった。
そして、考えられないことだが、一ヶ月も経たない内に警察の捜査は行き詰ってしまうのである。栃川町字大里の人たちも、秀雄が無残な死にかたをしたことを話題にすることがなくなっていた。
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