第2話

その事件は、事件というほどの出来事ではなかった。修が思い出せないほど時間は経っている。

修は亀谷秀雄より七つ年上だった。

亀谷英雄が、十六歳の時、栃川町字本里に火事が起こった。その火事は、事件としてはごく普通の事件だったが、問題は、最初に火事を発見したのは秀雄だったことである。八並の家と亀谷の家は大人が走って、五分と掛からない距離にあった。

その日、秀雄は学校から帰り何もやることがないので、家の居間で寝転びテレビを見ていた。いつもと変わりない、平安な日であった。そのように思われた。

⌒・・・)

秀雄は辺りが急に暗くなったのに気付き、夏だったこともあって、入道雲がわいて出て来たのでは、と思ったという。不安というか妙な胸騒ぎが、彼の心を動揺させた。すぐに起き上がり空を見上げたのだった。

秀雄が胸騒ぎを感じた。黒い煙がもくもくと何の敵意を見せずに出ていたのだった。もくもくという煙の動きだったが、得体のしれない化け物のように動いていた。このような場面に遭遇した多くの人がそうであるように秀雄も動転してしまっていた。

秀雄は慌てて裏庭に走った。煙がそっちから出ていたと直感したのである。その時には煙の出ている家が秀雄の隣の家、青山だと違いないと思った。誰も火事に気付いていないようだった。黒い煙が空の大部分をおおつているのに誰も気付いていないのは可笑しなことだが、事態が変な方向に働く時には、大体こんなものなのかもしれない。ともかく十六歳の秀雄だけが、最初に火事の現場に着いたのである。

結論から言うと、やはり誰かが消防署に知らせ、三台の消防車が来て消化したのである。

だが、ここから変なことになっていくことになる。

秀雄が放火した、という噂が広まる。

何の根拠もないのだが、すぐに秀雄が火を点けたという噂になり、本里に広まってしまった。

その暴言をはっきりと秀雄は耳にしたのではないが、接するみんなの態度、本里の人間みんなの目からそう思われている、と十六歳の秀雄は感じた。お前の気のせい、気にし過ぎたと言われそうだが、こういう処では事はそう容易くない。気にするようなことではない、と言うかもしれないが、ここはそういう所なのである。そこに、秀雄は小さい頃から住んでいた。自然と意識づけは、秀雄の心に植え付けられてしまった。そうなると、秀雄は眠れられない日が続いた。そして、

秀雄にはその日以来、ここは、実に住みにくい場所になってしまった。もともとそういう意識があつたのかもしれないが。腹が減ったときにはいつもアンパンを買っている大黒屋という雑貨店に言った。店に入ったら、三人の中年の女が何やら話し込んでいた。秀雄が入って行くと、ギョと彼を睨んで来た。秀雄は、ビックリして、瞬間店から逃げ出したくなった。

特に店の若い嫁が怒った顔で睨みつけてきたのである。若い嫁といっても二十七歳の出戻り女であった。以前には軽蔑したような目で見られたことはなかったと思っている。十六歳は幼く何も言えない。秀雄はそれ以来大黒屋雑貨店に行っていない。

さらに、亀谷秀雄は時々八並の家に遊びに来ていた。別に八並の家が彼にとって魅力ある場所ではなかつたが、秀雄の居場所が他になかったといった方がいい。それ程秀雄は人付き合いがへただった。秀雄の相手は結局修しかいなかつた。秀雄が来るとくだらない話をしたり、十六歳の秀雄は、新聞に入ってくる広告紙で飛行機を作ったりしていた。

ところが、火事の事件があった数日後、秀雄は修の腹を突然殴りつけたのである。

修は驚きの目で秀雄を睨んだ。

「なぜだ。なぜ、俺を殴る。俺がお前に何をした」

秀雄は答えを思いつかなかった。ただ、こいつも俺が火をつけたと思っているのか、そんな噂を聞いたのか

修は何の反抗もしなかった。反応することが怖かったのである。もしここで何らかの反応をすれば、たとえば修が殴り返したとしたら、ますます秀雄は本里の人の目が冷たくなると思ったのである。

(だから・・・)

それ以上の争いにはならなかったが、その日以来修は秀雄の相手をすることはなかつた。

他人は、

「何だ、そんなこことか」

というかもしれない。

以後、

秀雄の心は非常に頑なになり、心の内に激しい憎しみを抱くようになったようだ。年下のものに馬鹿にされたり、道を歩いていて、蹴飛ばされもした。俺は何も悪いことはしていない。俺は・・・火など点けていない。この頃にはもう自分がどんな噂をされているのか感じ取っていた。

その辺りから続く秀雄の深い憎しみだった。しかも、秀雄はその感情を表に出さなかった。

由紀子は秀雄の対する当時の噂話を耳にしていた。仲には、あいつが火を点けたと言い切っている者もいた。余りにもひどい擦り付けで、彼女はただ聞いていた、あんな叔父だけど、可哀そうになって来た。

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