海亀トールの怪律

羽々霧 由芽

第1章 プロローグ

第0話 はじまり

 最初の異変は、不明瞭な喧騒けんそうだった。


 ガタンゴトンという列車の振動音とは別に、ガヤガヤと何やら騒がしい。


 座席にすわったまま、おもむろに顔をあげた。

 ぼんやりと思案に浸っているあいだに少し眠っていたらしい。


 クロスシートタイプの居心地のいい座席。その隣の窓際の席は、ポッカリと空いていた。


 寝落ちする直前に誰かが座った気配を感じた気もするが、正直自信はない。まぁ些細なことだ。気のせいかもしれない、で済ませていいだろう。


 それよりもと、まどろみめきらない頭を通路側に傾ける。

 伸びる通路の前方を見やって眉をひそめた。


 喧騒けんそうはすぐ近くから……ではない。

 少し遠いところから漏れ聞こえてくる。

 前の車両だろうか。


 次の瞬間、すんと腹の底が冷えた。


 喧騒けんそうに混じり、不意に耳朶じだに届いたのは──幾重もの悲鳴。


 瞠目どうもくし、弾かれたように立ち上がった。


 何が起こっているのか、状況が分からない。


 乗客の心情はみな同じようで、この車両にも不穏な空気が立ち込め始めた。


 周囲の狼狽ろうばいがさざ波のように連鎖していき、動揺がパニックに代わるのにそれほど時間はかからなかった。


 とにかく、ただ事ではなさそうだ。


 ……とはいえ、どうしろというのだろう。


 少し冷静になり、前の座席のヘッドレストに手を添えて考える。


 別にこの車両で何かが起こっているわけではないのだから、いたずらに慌てるのも違う気がする。


 車内で何か緊急事態が起こったのなら、じきに列車も止まるだろう。

 きっと車内アナウンスも入る。


 集団心理に惑わされて、変に騒ぎ立てても仕方がない。

 進退の判断は、とりあえず保留にしよう。


 そう言い聞かせ、ゆるゆると席に座り直した。


 ちらりと窓の外を見やった。

 車窓に、飛ぶようにせゆく景色が映る。


 車窓に映るあおい海のきらめきを無感動に眺める一方で、とある切望が心にひしめいていた。


 のだが。


 その思いに呼応したわけではないだろうが、遠くて近い海がひときわ強くキラリときらめき、一瞬目がくらんだ。


 目をつぶると不定型の白い残像が居座っている。

 憎たらしげなそれは、やがてすぐに霧散した。

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