第四十三話 大妖怪

 すこし離れた場所にある滝から落ちる豊かな水の音。

 風で葉が触れ合い、浅い川の上にかけられた紐に干された布がはためく音。

 鳥たちが歌い、魚が跳ねる。

「心地いいですね」

「素敵よね。私も大好きな場所なの」

 二人で奎星楼の入口に向かって歩いていると、向こうから少し汚れた作務衣を着た背の高い女性が歩いてきた。

「竜胆ではないか!」

胡仙フーシェン!」

 膝も顔も手も土まみれ。それでも微笑む姿は品があり、声は柔らかな絹糸のよう。

 この体格のいいがっしりとした女性が、世界中の知識を集めているという大妖怪天狐の胡仙フーシェンだ。

仙子せんし族のかわいこちゃんを連れてくるとは。お前もなかなかやるなぁ」

「いやいや。親友だよ。色恋の仲じゃないんだ」

 いつの間にか本来の姿に戻っていた竜胆は、わたしを見てニコリと微笑みながら紹介してくれた。

「こちらは杏守あんずのもり 翼禮よくれい。私の大親友」

「ほう。杏守あんずのもり! なんとも懐かしい名を聞いたものだ。翼禮よくれいわらわの名は胡仙フーシェン。ここ、奎星楼で楼主をしておる。仲良くしてくれ」

「はじめまして胡仙フーシェン様。こちらこそ、よろしくおねがい……」

「様はよしてくれ。友とは対等でいたいのだ。胡仙フーシェンでいいぞ」

「では……、胡仙フーシェン、よろしくおねがいします」

「うむ! で、ここへは何用で? とりあえず、お茶でもしながら用向きを聞くとしよう」

 胡仙フーシェンが指笛を鳴らすと、それはそれは巨大な雲が飛んできた。

「お主たちも聞いたことがあるだろう。これはとある金毛猿からの贈り物でな。筋斗雲というやつの複製品れぷりかじゃ」

「お、おおお、おおおおお!」

「実物、初めて見ました……」

 夕焼けに染まった雲のような温かみのある黄金色の雲がふわふわと浮いている。

「さ、触ってもいいですか?」

「もちろんじゃ。これに乗って最上階に行くからのぉ」

「ふ、ふわふわ! ふわふわに乗るんですか!」

「なんだ、翼禮よくれい。可愛い喜び方をするのだなぁ」

「え、あ、す、すみません。興奮してしまって……」

「……薔薇の香りがする」

「あ、ああ、わたしののろいです。大隔世遺伝で棘薔薇いばらのろいがかかっていて、気が高ぶると出てきてしまうんです」

「おおお! 一輪、もらってもよいか? 痛いか?」

「どうぞどうぞ。お好きな薔薇をおとりください」

「では……。うん、良い香りじゃ」

 胡仙フーシェンは薄い橙色の薔薇を手折ると、まるでキスするように近づけ、そっと香りをかいだ。

 その姿があまりに官能的で、わたしはドキドキしてしまった。

「ふふふ、すまんな翼禮よくれい。どうもわらわは色香が溢れてしまうのじゃ。この体格のせいかのう。困ったものじゃ」

「す、素敵です。羨ましいです」

「ふふふ」

 わたしたちは筋斗雲に乗り、最上階へと昇って行った。

 その乗り心地は素晴らしく、絹織物のなかにたっぷりと柔らかな綿が入った大きなクッションが連なった贅沢なソファのよう。

 油断すると寝てしまいそうだ。

「もっと乗せておいてあげたいのだが、着いてしまったなぁ。さぁ、欄干に気を付けて中に入ってくれ」

 わたしたちは順番に筋斗雲から降り、簀子縁すのこえんに足を付けた。

「とても美しい眺めですね」

「雲に太陽の光が反射し、まるで夢の中にいるみたいだろう? 時々、雲間が切れて下の景色が見えると、神になった気さえする。とても危険な美しさだ」

 雲が風で流れるたび、波打つそれは、染める前の布が川の中を泳いでいるようだ。

「さぁ、中へ。ここはわらわが書き物をする部屋だ。わらわ以外は滅多に近づかないから、ゆっくり話も出来よう」

 積まれている座布団はどれも色鮮やかで、どこか異国情緒が漂う刺繍が施されている。

「好きなところに座ってくれ。あまり広くはないが……。すまない。本が出しっぱなしで。よくやってしまうんだ。片付けるのが苦手でね」

 わたしは大型の本が積まれている横に座布団を敷き、そこに座った。

 一番上の本には『本草学』という題名と、様々な薬草の詳細な絵が描かれている。

 とてもきれいな本だ。

「それで、わらわに何が聞きたいのかな?」

「葦原国皇帝家……、初代皇帝の直系子孫に関する噂でも伝承でもなんでも、御存知のことを教えていただきたいのです」

 胡仙フーシェンはわたしの言葉がひっかかったのか、口元をニヤリと歪めると、魅惑的な声で話した。

「……今、噂と言ったな? 何があったか詳しく話してくれ。それによって、わらわの言葉も変わるだろう」

 わたしは新たな若き皇帝と、禍ツ鬼マガツキの第二鬼皇子きこうしである烏羽玉の関係を話した。

 そしてその繋がりである廃后された姫君についても。

「ふむ……。記憶をたどってみようではないか」

 そう言うと、胡仙フーシェンは香炉で薫香を焚き始めた。

 あたたかな蜜柑とバニラが混ざった香りは少し重めだが、心を落ち着け、高所にいる不安もすべて溶かしてくれた。

「……ある噂を思い出してきたぞ。うん、そうだ。あれはたしか数千年前のこと……」

 初代皇帝の血統にある双子がいた。

 皇子は将来皇帝になることが決まっていた。だが、国に仕える巫女が言うには、皇女が継いだ方が上手くいく、とのこと。

 皇帝は、初めはその占い結果を信じなかったが、育つ過程で気品や文武の才に明確な差が現れた。

 そこで、双子が十五歳になったとき、皇帝は皇女の方を親王に冊封さくほうした。

 皇子はそれが許せなかった。皇帝とは男性が継ぐもの、という教育の元で生きてきたからだ。

 双子は十八歳のときにそれぞれ結婚。皇女の夫となったのは皇帝の側近の息子。いよいよ皇女派閥の力が強くなってきた。

 そんなとき、悲劇がチャンスとなって訪れた。

 双子が二十歳になったある日、皇帝が病に倒れたのだ。

 それをきっかけに、皇子は計画を実行に移すことにした。

 自分が皇位を継承するためには、皇帝が生きている間に親王に冊封されなければならない。

 今までの非礼を詫び、兄妹きょうだい仲良く国を治めていくために宴会をしようと、皇子は皇女の家族を含めた派閥の者すべてを集めてもてなした。

 そして夜も更けた頃、暗殺が実行された。

 それも、皇子の派閥も含めて。

 実はすべて左大臣、雪原 兼続ゆきわら かねつぐの策略だったのだ。

 左大臣は王朝が統一される二世代前の皇帝の親族と婚姻関係を結んでおり、もしその親族が復権すれば自分が皇位につけると考えたのだ。

 そのために皇子の味方をするふりをして操り、皇帝の血筋を一網打尽にしたのだった。

 ただ、このとき、皇女はある文章とともに自分の子供たち二人を乳母めのとに預けて国の外へと逃がしていた。

 こうなることを予期していたのだろう。

「その文章こそが失われし言語である桃華タオファ文字で書かれたもので、子供たちの正当な血統を示す唯一の公的文章だと言われている。そしてそのとき逃がされた子供の一人がその文章の写しと印形いんぎょうをもって皇帝家に現れ、后の一人となったが、皇帝家が簒奪を恐れて廃后にし、山へと追いやった。それが烏羽玉と現皇帝の母親なのだろう。原本は今ではただの噂の種。本当にあるのかは証明されていない。もしそんなものが存在したら……。烏羽玉は葦原国の皇帝になることができるな」

 わたしは心の底からゾッとした。

 背筋に冷たい汗が流れる。

「もしそれを阻止したいのなら、先にその文章を見つけて処分しなければならない。状況は不利だ。烏羽玉は自分と弟が正当な血統だと知っていたから、弟を皇帝にするために色々と手を尽くしてきたのだと思われる。才覚だけで皇帝につけるほど甘くないからな。きっと何人も殺されているだろうよ。弟の知らないところでな。烏羽玉は文章の存在を示す、何か証拠のようなものを持っているのかもしれん。おそらく、姫君が持っていたとされる印形だろう。文章の原本はもう一人の子供の子孫がもっているかもしれないな……。子孫が誰一人生きていなくても、遺体と共に墓に収められている可能性もある。前途多難だな」

 胡仙フーシェンは一気に話し終えると、熱いお茶を注ぎ、ぐっと飲み干した。

「ああ、すまない。失念していた。茶を出さねばな。菓子もあるぞ」

「私がやるよ」

 竜胆は慣れた手つきでお茶を淹れ、戸棚からいくつか菓子を見繕って盆にのせて持ってきてくれた。

「あの、ありがとうございます」

「いやいや。……卑怯なことを言うが、この情報の見返りに、翼禮よくれいに質問させてはくれないかな?」

「え、ああ、はい。いいですよ」

「では聞く。翼禮よくれいにはなぜ固有の能力が無いんだ?」

 ビクッとした。

 竜胆も驚いた顔をしてわたしを見ている。

「ご存知なのですね。妖精族のしきたりを」

「ああ、知っている。妖精族……、そう、仙子せんし族はある年齢に達すると、所属している聖域シードの妖精王族から特殊な能力を授けてもらえる。見たところ、お主にはそれが感じられない。何故だ? 棘薔薇いばらのろいというやつのせいか」

 胡仙フーシェンの好奇心で射貫くような目に、わたしは正直に話そうと口を開いた。

「そうです。わたしには新しい能力を受け入れる空間のようなものがないのです。そこに、のろいが植わってしまっているので……」

 胡仙フーシェンはわたしを凝視し、突然笑い出した。

「そうか! なるほど! あはははは! そういうことか!」

 わたしも竜胆もわけがわからずポカンとしていると、胡仙フーシェンは悪戯っ子のような笑みを浮かべて話し出した。

「お主にかかっている棘薔薇いばらのろいは、言うなれば貯水湖のような役割をしているのだな」

「貯水湖、ですか」

「そうだ。お主、一度も仙力切れで術を使えなくなったことはないだろう?」

「それは……」

 そういえば、一度もそんなことになったことはない。いくら長時間戦っていても、仙力が切れたことはなかった。

「それはな、棘薔薇いばらが常日頃からお主の仙力を吸い取り、それをお主が引き出して使っているからだ。……うん、ものすごい量の力が見える。これはちょっとやそっとでは使い切れぬであろうな」

「そうなんですか……」

「これはすごい。こののろいを作った者は、かける相手のことを心から愛していたのだろうな。どんな状況でも力を発揮し、生きていてほしいと願って……」

 透華とうかの顔が思い浮かんだ。

 わたしを見つめる優しい瞳。あたたかな手。愛おしい声。

「恋する乙女の目じゃな」

「え、あ、その、えっと、その話はまた今度で……」

 顔が熱い。薔薇が頭に咲き、恥ずかしさで弾け飛びそうだ。

「まぁ、よい。そのうちゆっくりと聞かせてくれ。絶対にな」

「あ、ああ、はい……」

「では、秘密の桃華文章が見つかるよう、何かヒントになりそうな本でも探すとするかのう。三百年以上前の古い文献は地下にある。さぁ、行こうか」

 わたしと竜胆は胡仙フーシェンのあとに続いて再び筋斗雲に乗り込んだ。

 今度は一階まで降りていく。そこからは階段で地下に向かう。

「昼飯はどうする? 街にでも行くか?」

「私、久しぶりに胡仙フーシェンの手料理が食べたい」

「おお、それは良い考えだな。二人が文献を漁っている間に作っておこう。楽しみにしているがよいぞ」

 胡仙フーシェンは腕を捲り、大輪の花束のような笑顔を浮かべると、厨房がある部屋へと向かっていった。

 わたしと竜胆はその後姿を見送り、地下へと降り、おびただしい量の本棚から資料を漁り始めた。

 題名だけでは内容が推察できないような本もある。

 手あたり次第、気になったものを中央にある大きな机へ運び、片っ端から読み始めた。

「あ……」

「何か見つけましたか、竜胆」

「とても古い、宮廷の恋愛ゴシップのようなものを物語調に描いた絵巻物なんだけど、どうやら廃后の姫君は子供を成す前に内裏から追い出されたみたい」

 絵巻物には、后の中でも一番寵愛を受けていた疑惑の姫について語る雅な女房達が描かれていた。

『ぽっと出の若すぎる姫があんなに寵愛を受けるのはおかしいわ』

『きっと妖術の類を使っているに違いない』

『噂では、初代皇帝の血をひいているとかいないとか言って入内を許されたそうよ』

『証拠はあるの?』

継父ままちちだって名乗る男が書状のようなものと、何か箱を陛下にお見せしたそうよ』

『ねぇ、じゃぁ……、皇位を簒奪しに来たんじゃない⁉』

『自分が皇帝になる気なのよ!』

『いや、さっさと子供を作って自分の子に継がせる気なんじゃない?』

『もう皇太子がいるのに! やっぱり乗っ取りに来たのよ!』

 人はセンセーショナルな話題であるほど、信じたい情報を信じるようになる。

「だから子供が出来る前に追い出されたんだね」

「酷いですね……」

 もしこういった話を烏羽玉が聞かされて育ったのなら、皇帝家に恨みがあっても不思議ではないだろう。

 わたしと竜胆はさらに書籍を探し続けた。

 空腹なことも忘れるほどに。

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