第35話 本当の初めまして
ルシードの答えは、予想外だった。
レティナはてっきり、バレたのだとすれば今だとばかり思っていたのに――。
「そ、そんなに前に……?」
「ああ」
「でも、それならどうして……」
なぜ、黙っていたのか。
その疑問はそのままそっくり、顔に出ていたのだろう。
ルシードは一瞬視線をそらしたが、咳払いすると口を開いた。
「お前が一生懸命男のフリをしていたからだ。保護対象で性別を偽るほどの事情を抱えている相手に、軽々しく暴いたことを指摘出来るはずがない」
ルシードはレティナの心情を慮って黙っていてくれたのだ。
彼の思いやりに、レティナは胸をあたためる。
「ありがとう、ございます」
「……礼などいうな。黙っていながら、俺はお前の素性を勝手に調べたのだから。レト……いや、レティナ・チャバル男爵令嬢。貴方の秘密を暴いたことを、どうか許して欲しい」
「――っ」
名前を……本当の名前を呼ばれ、ドキリとした。
謝ることではない。それは隊長として当然のことだと、レティナは首を横に振る。
「謝らないで下さい。むしろ、僕……私が、クーズリィ・ダーメンスと婚約関係にあった人間だと知りながら、保護して下さった温情に感謝しております」
ドレスも着ていない。髪はぐしゃぐしゃだし、服だってびしょ濡れ。
みっともない姿だが、きちとんと淑女らしい振る舞いが出来ただろうか。
言われたとおりの仕草。言われたとおりの表情。言われたとおりの言葉。
――あの家で、言われたとおりのことを一通り表現して……それから、レティナはルシードの顔が曇っていることに気付いた。
(違う)
これは、今のは、全部違う。
こんな、上辺をなぞっただけのような羅列ではなくて。
レティナが伝えたいのは、もっと心からの――。
「……全部、知っていて、黙っていて……隊においてくれて、ありがとうございましたっ、リグハーツ隊長」
飾り気のない言葉。綺麗さも優雅さもない、貧相な濡れ鼠が、泣きながら口にする感謝の言葉。
けれど、それには、レティナの本心がつまっていた。
「……泣くな」
「も、申し訳ありません……」
「礼を言うのは、こちらの方だ。ずっと、そうだった。――お前が隊をつなぎ止めてくれた。お前がそばで支えてくれた。だから……ありがとうレト」
ルシードに手を握られて、感謝される。
それから、彼は表情を改めた。
「そして、レティナ嬢。どうか、許して欲しい。俺は……転びそうな貴方を助けるためとはいえ、必要以上に密着し……その、ひ、秘密を――図らずも、秘密を暴いてしまった……!」
「え? いえ、あの」
「胸が、ぁ、いや、違う、胸の……それも違う! 俺は――とにかく、俺は、あの時の感触に、気付いて……、だから、ずっと、謝らねばと」
気が付けば、レティナは笑っていた。
ルシードはポカンとしていたが、やがて表情を緩める。
「許します、隊長。ですから、隊長も、僕を……私を、許してくれますか」
「無論だ」
「それから、感謝も」
「謹んで受け取ろう」
頷くルシードは、レティナに手を差し出す。
「……レティナ・チャバル嬢。力を貸して欲しい――廃屋にいた連中は、取り締まりの厳しくなった国から逃れてきた、薬の売人たちだ。奴らは、この地で薬を製造しようとしている可能性が高い。薬が普通の茶に紛れて姿勢に出回れば、以前の中毒者のような者が増える。俺はそんな事態を防ぎたいんだ。貴方は、連中の中に知った顔を見つけていたな? どうか、我々に……俺に、協力して欲しい」
「――もちろんです、リグハーツ隊長」
以前は掴みそびれた彼の手を、レティナはそっと握る。
すると、ルシードは顔を上げると、ぎゅっと強く握りしめた。
「感謝する、チャバル嬢!」
「あ、あの、私の事は、これからもレトと呼んでくだされば」
「……そうか。便宜上、そうせざるを得ないか……。だがチャバル嬢」
「その、本名を呼ぶときも、そんなに畏まっていただかなくても……レティナでかまいません、リグハーツ隊長」
ルシードは数度目を瞬くと、レティナの手を軽く引いた。
「では、レティナ嬢。リグハーツ隊長は、レトが俺を呼ぶときの名前だ。貴方が俺を呼ぶときは、ルシードと呼んで欲しい」
区別、あるいはけじめに違いない。そう考えたレティナは「はい」と素直に頷いた。
「では、さっそく呼んでみてくれ」
「……え?」
「練習だ」
なんの練習だろうかと思いつつ、期待されているような気がして、レティナは素直に許しを得たばかりの名前を口にした。
「ルシード様」
――音にしたとたん、ドキドキする。これは再びのときめき死と思いきや、ルシードの様子がおかしい。
真っ赤になった彼は、硬直していた。
「え、た、隊長? リグハーツ隊長! しっかりして下さい!」
「っ!? ……驚いた、息が止まった」
「止めたらダメですよ! 死んじゃいます!」
「ああ、そうだな。名前を呼ばれただけで昇天などと、騎士としてあるまじき失態。……忘れて欲しい」
真面目な顔でツラツラ語るルシードを見て、レティナは思った。
軽々しく、名前は呼ばないことにしようと。
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