17.月を見上げてうさぎ鳴く<9月22日②>

 休日の、それも家族連れの帰宅時間と重なっているため、駅は混んでいた。電車も混んでそうだ。

 乗車待機列に並んで、電車がくるのを待つ。鷺山は泣くことも不安がることもせず、じっと前を見つめていた。

「……鷺山」

「はい」

「やっぱり、お祭り行くのやめよう」

 提案しても鷺山は答えない。ぎゅっと強く握りしめるこの指先から、固い意思が伝わっていた。

 駅のホームにアナウンスが響く。電車が到着しますと告げているけれど、人が多いからホームに立った駅員さんが笛を鳴らしていて、それにかき消された。

 風が、動く。電車がもうすぐやってくる。

「僕は……幸せでした」

 風音にかき消されそうな小さな声で、鷺山は言った。

「僕の話を信じて、僕のせいではないと言ってくれたのは、あなたが初めてでした――だから、」

 その先の言葉は聞こえなかった。電車がやってきて、轟音にかき消される。

 電車は、停止位置ぴったりに止まって、扉を開ける。乗っていた人たちが降りて、そして人波に巻き込まれるように私たちも乗りこんだ。


 兎ヶ丘駅の一つ手前まで近づいて、電車に乗る人たちは減っていく。座席は空いていたけれど、鷺山は扉にもたれかかって座る様子がない。私も鷺山と一緒に扉の前に立っていた。

「……もうすぐですね」

 次の駅で降りて、月鳴神社に向かう。引き止められるタイミングが少しずつ減っていく。

「鷺山。ねえ」

「……」

「やめよう。未来、変えようよ」

「……」

「生きるって、約束して」

 何度言っても、鷺山は答えない。視線はドアのガラスに向けられていた。

 電車が着く。私たちの降りる駅は次だ。私たちが立っている側のドアが開いたので、降りる人に配慮して避ける。電車に乗っていた人たちが何人か降りて、新しくまた乗ってくる。

 その入れ替わりが終わって、発車を報せるベルが鳴った時だった。

 強く手を引っ張られた。

「え?」

 間抜けな声をあげて、真意を確かめるように鷺山を見る。

 鼓膜を揺らすベルの音。視界には鷺山がいて――彼は、悲しそうに笑っていた。

「さよなら、香澄さん」

 どん、と肩を強く押された。繋いでいたはずの手は離れていて、悲しそうな鷺山の顔を遮るように視界に映っている。

 私の体はバランスを崩して、後ろに倒れていく。電車の床を踏みしめていたはずの足が今は浮いている。それは反応できないほど数秒のこと、けれどゆっくりとした出来事のように思えた。

 私たちを分断するようにドアが閉まっていく。遠くの方で駅員さんが「危ない」と叫んだ。


 ずさ、とお尻と背に痛みが走る。私は電車から落ちて、駅のホームに座りこんでいた。

「ま、って」

 慌てて立ち上がり叫ぶけれど、ドアは閉まっていた。その向こうに鷺山がいる。

「待って、待って!」

 電車に駆け寄ろうとしたところで強く後ろに引かれた。駅員さんが私の体を掴んでいる。

「危ない! 何してるんですか!」

「電車、落ちて、人が、鷺山が乗ったまま」

「離れて。まずは落ち着いて。次の電車に乗れば会えますから」

 だめだ。それじゃ間に合わない。

 彼は一人で行くつもりだ。私を連れて行けばどうなるかわからないから、一人で行くつもりだったんだ。

「だめ! 一人で行かせちゃだめ」

「離れてください!」

 駅員さんに引きずられて、電車から遠ざかっていく。だいぶ離れたところで駅員さんが手をあげた。

 それを合図に、電車が動き出す。

「……行かないで」

 叫んでも届かない。鷺山はドアのガラス越しに私を見つめて、それから悲しげに笑った。

 唇が、動いている。何かを伝えている。

 四文字。たぶん、それは。

「さよならって……言わないで……」

 ゆったりと滑り出し、徐々に勢いを増していく電車が、涙腺を揺らす。

 悲しくて悲しくてたまらない。こんなお別れなんて、絶対に嫌だ。

「……大丈夫ですか?」

 電車が去った後駅員さんが優しく声をかけてくれた。

「落ち着くまで少し休まれますか? 次の電車を待ちますか?」

 手を借りて立ち上がる。次の電車がくるのは五分後。それまでに鷺山の乗った電車は次の駅に着いているだろう。

 だけど。

 鷺山は、ずっと私を追いかけていた。好きという気持ちと謝罪の二つの感情に苦しんで。

 彼がいたから、私は変わることができたのだ。こんなところで諦めてはいけない。

 好きな人のために死ぬと告げた彼のように、私は好きな人のために未来を変える。

 鷺山を、一人にさせてはいけない。

「ご迷惑おかけしました。もう大丈夫です。タクシー探しますから」

 気丈に告げると、駅員さんは安堵したような顔で頷いた。

「気をつけてくださいね。無理なさらず」

「はい。ありがとうございました」

 ホームを出て、走る。

 兎ヶ丘駅から月鳴神社までは距離がある。徒歩で二十分ほど。私がいるのは兎ヶ丘の隣駅。タクシー乗って直接月鳴神社に向かえば間に合うかもしれない。

 けれど、改札を出て外に出ると、普段は列を作っているタクシー乗り場は閑散としていた。一台は止まっていると思ったのに。

 どうしてか、うまく行かない。ここから歩いていく、いや走った方がいいか。徒歩なら間違いなく時間がかかる。

 苛立ちと焦燥で、またしても泣きそうになった。泣いている場合じゃないと唇を噛みしめ、空を見上げる。

 まんまるとしたお月様が浮かんでいた。白く、青白い満月。

 光の加減で青白く見えているのかもしれない。冷静に考えながらも、私はその満月に不気味なものを感じていた。

 予知で見た月は二つ。私と鷺山の前に浮かんで、それぞれが死ぬ未来を映していた。そして鷺山は未来を選び、残ったのは白い月。今日の月はそれによく似ていた。

「私を、例大祭に行かせないように……してる?」

 呟くも、返事はあるわけがなく。夜の街に溶けていく。

 急がなければ。私は走り出した。ポケットからスマートフォンを取り出して握りしめる。誰かに連絡をして鷺山を引き止めてもらうことを考えて――その時だった。

 クラクションが鳴った。車のライトが私と歩道を照らす。

 振り返るより早く、車は私を追い越し、少し先の場所で歩道に寄せて止まった。

 車? でも家の車でもないし、ハナ先生の車でもない。見たことのないものだ。

 警戒しながら様子を窺うと、後部座席の窓が開いた。それから見覚えのある顔が出てくる。

「鬼塚さーん」

 それは古手川さんだった。

「こ、古手川さん?」

「よかった、鬼塚さんじゃなかったらどうしようかと思ったの」

「どうしてここにいるの?」

 焦る私と異なり、古手川さんはふんわりと微笑む。

「お母さんと買い物にきてたの。これから守り隊の打ち上げに行くから、月鳴神社に行こうと思っていたんだけど――」

 月鳴神社。

 その単語を鼓膜が拾って、頭が認識して、すぐに。私は古手川さんに頭を下げていた。

「お願い。乗せてほしい」

「うん、いいけど……鬼塚さん、何かあった? 泣いてるよ」

「理由は後で話すから。お願い。急いでるの。鷺山を一人にしちゃいけない」

 伝えたいことが多すぎて早口でまくし立てる形となった。それでも古手川さんはちゃんと聞いてくれた。しっかりと頷いて、ドアを開ける。

「乗って。何があったかわからないけど、鬼塚さんが言うなら、きっと大変なことが起きていると思うから」

「……ありがとう」

「急ごう――お母さん、急ぎで月鳴神社に向かってほしいの」

 古手川さんが言うと、運転席に座っていた古手川さんのお母さんが振り返った。

「はじめまして。鬼塚さんね?」

「はい。突然すみません」

「いいのよ。娘から話を聞いていたの――じゃ、急いで向かいましょう」

 古手川さんに似ておっとりとした、優しそうな人だ。

 後部座席に乗りこみ、車が走り出す。

 そこでスマートフォンを見ていた古手川さんが言った。

「いま連絡がきて、篠原くん旧道にいるって」

「篠原が?」

「藤野さんのこと心配なんだと思う。篠原くん、なんだかんだ言ってるけど、藤野さん大好きだから」

「あー……そういうこと。それでよくちょっかいかけてたんだ」

「鬼塚さんと防犯の話してたから、藤野さん一人の留守番が気になるみたい。でも意気地なしだから家まで行く勇気はないだろうけど」

 篠原の行動は、そういう理由が隠れていたのか。いつも藤野さんに突っかかっていたのは、好意の裏返しだったのだろう。天邪鬼なやつだ。

「でも、鬼塚さんもでしょ?」

 気づけば、古手川さんは私の顔を覗きこんでいた。

「鷺山くんを一人にしちゃいけないって言ってたから、何か事情があって鷺山くんを追いかけてるのかなって」

「……うん」

「じゃあ応援する。私に手伝えることがあったら言ってね」

 流れる景色の中、ビルの切れ間に満月が姿を現した。未来を変える。その決意を胸に睨みつけるも、満月は再びビルに隠されて見えなくなった。


 旧道は歩行者天国となっているため通行止めで、その近くも渋滞している。古手川さんのお母さんは、小学校から月鳴神社へと向かう坂の途中で車を止めた。

「ここから歩いて行く方が早いと思うわ」

「ありがとうございます!」

「急いでいるんでしょう? 気をつけてね、今日は人が多いから」

 私と古手川さんは車を降りた。あとは旧道に向かうだけ。

 例大祭最終日ということもあって、旧道へ向かう人の数は多い。

「鷺山くん、いた?」

「いない」

 あたりを探してみたけれど鷺山の姿は見当たらなかった。

 車で送ってもらったことで時間は追いついたので、ここを通るか旧道に着いているかのどちらかだ。ここで待つべきか旧道を探すべきか悩ましい。

「私、ここで鷺山くんが来るか待ってるよ」

「え……いいの?」

 古手川さんが私の肩を叩いて、頷いた。

「鬼塚さんは旧道で鷺山くんを探して。何かあったら連絡するから」

「……ありがとう」

「任せて」

 お礼を告げて、私は走り出す。目指すは旧道。

 くだり坂はすぐに勢いがつくけれど、その分足がもつれそうになる。バランスを崩しかけても何とか耐えて、前に前にと足を出した。

 焦燥感は足に纏わり付き、どれだけ走っても息があがる気配はない。いつもより早く走れている気さえある。

 前方に人がいれば「すみません」と声をかけて追い越し、後ろは振り返らず前だけを見た。鷺山悠人という人物だけを頭に入れて。

 坂道が終われば、住宅地を通る。ゆるやかなカーブだ。歩道はあれど古い作りだから狭く、けれどこの道は住民しか通らないので車数が少ない。今日は例大祭だからなおさらだ。

 カーブを曲がれば、つきあたりに行き着く。左手に進めば月鳴神社が、右手には旧道に続く石階段がある。

 鳥居が視界に入った時、心臓をぎゅっと何かで締めつけられてるような、息苦しさと不快感がこみ上げた。急き立てられて空を見上げれば、白々と輝く満月がある。満月。予知と変わらない空だ。

 旧道に向かう階段は人が多い。これからお祭りに行くのだろう家族連れもいる。

「すみません! 通ります! 急いでいます!」

 再び声をかけ、道を開けてもらう。空けてもらった隙間を通る。お礼のため頭を下げると髪が揺れて汗ばんだ首に張り付いたので、さっと手で払ってから駆け下りた。

 旧道に並ぶ屋台はもう見飽きた。目を向ける必要はない。

 こうして旧道を走る姿に既視感があった。予知で見たものと同じ。私が息を切らして走っていくのも、周りの景色も。

 辺りを見渡し鷺山を探すことはしなくなっていた。予感だ。私が鷺山に会えるのはここではない。旧道半ば、藤野さんの家近く。

 そして――私は、足を緩めた。

 ついに彼の背を見つけたのだ。その場所は、昨日まで守り隊が使っていたテントの前、藤野さんの家近く。今日はテントを町内会が使っている。長机の上に、ビールが入ったプラカップは見当たらず、置いてあるのはお茶だった。

「鷺山!」

 私が名を呼ぶと、その背が振り返った。背は高いくせに重いものがのし掛かっているように猫背で、長い前髪。お世辞にも今時とは言い難い鷺山悠人の姿だ。

「香澄、さん……どうしてここに……」

「あんな別れ方……許せるわけないでしょ……」

 ここにいるのが私だと信じられない様子だった鷺山も、理解したのか次第に顔色が青くなる。

「戻ってください! ここにいてはだめです!」

「嫌だ」

「何が起こるかわかりません。未来が、予定していたものでなくなったら――」

 鷺山はひどい慌てようで、私の両肩をぐいと掴む。少しでも、これから事件が起きる場所から離そうとしているようだった。

「未来、変える。鷺山も生きよう」

「……香澄さん、お願いです。離れてください」

「生きるって言うまで帰らない」

「香澄さん!」

 感情が大きな波となって揺れる。叫び声が私の鼓膜を揺らそうとして、けれどそれは別のものにかき消された。

 ガシャン、と割れる音が聞こえた。始まりを報せる合図のように。

 特にその場所近くを歩いていた人は気にしているらしく、一斉に同じ場所を注視する。見ずともわかる。藤野さんの家だ。

 カウントダウンが始まったのだ。鷺山も私も固まったように動けなくなる。周りの人だけが「何の音?」「割れた?」とひそひそ話していた。

「きゃあああ」

 悲鳴は藤野さんのものだろう。彼女の家に、不審者が入りこんでしまった。

「……香澄さんは僕の後ろに」

 掠れ声と共に鷺山は私を隠すように前に立った。ぴんと背が伸びていて、前方が見づらい。少しでも状況を把握しようと身を乗り出した時、旧道から藤野さんの家へとまっすぐ、誰かが駆け抜けていくのが見えた。

「え――」

 驚きに声をあげているうちに、家の敷地を囲むブロック塀に遮られ、その人物は見えなくなってしまった。軽やかな身のこなし、滑りこむように家に入ったのだと思う。

 それからまもなく、ドタドタと暴れるような音が聞こえた。藤野さんが反撃したのか、それとも。

「……来ます」

 鷺山が呟いた。玄関扉が開き、男がやってくる。

 九月だというのに深くかぶったニット帽と黒いジャンパー。どこかで見たことのある格好。予知だけではない、何度も彼を見たことがある。

 記憶を辿り、背筋が震えた。この人は、おばあさんの財布を盗もうとした男だ。

 私は事件の犯人と遭遇していたのだ。なんてことだろう。

 あの時に捕まえていたら。警察に届けていたら。事件を防ぐための一番の方法はここにあったのだ。

 後悔しても遅い。男は興奮しているのか荒い呼吸をしながら叫んでいた。

「いってえなあ、クソガキ!」

 振り返り藤野さんの家方面を睨みつけている。その手には大きなナイフが握られていた。

 男が持つ刃物は、旧道にいた人たちを怯えさせた。悲鳴があがる。平穏だった旧道に、不安と恐怖が波紋を打つ。まもなく、この場所を中心にして、旧道はパニックに陥るのだ。

「泥棒! 捕まえて! だれか!」

 その声は家から転がり出てきた藤野さんのものだった――が。

 おかしなことに彼女の体に、傷は見当たらない。服も体も血に汚れていることはなく、見れば不審者の手も黒い手袋のままで赤い色はなかった。

 変わったことはそれだけじゃない。無傷の藤野さんを支えている人、あれは篠原だ。折れた竹刀を持って、藤野さんをかばっている。遠くから見ても彼の表情が鬼気迫るものだと伝わってくる。普段言い負けている篠原ではなく、藤野さんのために駆けつけたヒーローの姿だ。

「……おかしい」

 鷺山が呟いた。彼もこの違和感に気づいたのだろう。

 予知では彼女は一人で、肩に大怪我をしているはずだった。それが変わっている。

「なあにやってもうまくいかねーなァ! どうせムショに入るなら――」

 不審者は苛立っているのかニット帽を投げ捨て、旧道を見渡した。

 旧道は静まり、不審者だけが浮いているようだった。夜に溶けそうな色の格好をして、けれど満月や例大祭の提灯がスポットライトのように彼を照らす。

「どうせ捕まるなら……一人ぐらいやってやる!」

 叫び声と共に、男がナイフを振り上げた。

 光を浴びて煌めく凶器が、大波を生んだ。旧道のどこかから「逃げて」と悲鳴がした。そこにいた人たちが、一斉に動き出す。男から逃げるため、走り出したのだ。

 混雑していた旧道は地獄へと化す。我先にと逃げる人や、子供を抱きかかえて走る母親。人に押されて転んだのか、道路に座りこんで泣いている子もいた。

 男もナイフを振り上げて誰かを傷つけようと歩くも、その足取りはふらふらとしていた。獲物となるような人は見つからず、狙うも逃げられ、そして――目が合った。鷺山の背から顔を出し、覗きこんでいた私と彼の目が合った。

「……お前! お前は知ってるぞ!」

 じり、と一歩詰め寄る。鷺山の体が強ばった。

「てめえのせいでババアの財布落としたんだよ。覚えてるぞクソガキ」

 男の罵声。そして、駆け出す。

 ここからでも、ナイフを振り上げる手に力がこめられているのが伝わってくる。

 怖い。この景色を知っていたはずなのに、体は恐怖で竦み上がっていた。

 逃げなければ。鷺山を連れて。

 けれど彼は私の体を背に隠したまま。腕を引っ張るけれど、微動だにしない。表情はわからずとも固い意志がそこにあった。

 死ぬ。鷺山が死んでしまう。

 未来を変えると約束したのに。

「香澄さん、僕の後ろから出ないで」

「逃げよう!」

 私が叫んでも、彼は振り返ることさえしなかった。

 緊張して呼吸が短く急いている。恐怖を与える男は、化け物のように見えた。恐ろしいけれど目を瞑りたくない。

 そして高く掲げられた鋭い殺意が振り下ろされた。


 私たちが選んだ未来は鷺山の死。この場面で、男は私を狙っていたが、鷺山が身を挺して守り、そして予知通りの結果に進むのだろう――と思っていた。

「う、ぐ……」

 うめき声は鷺山でも私でもなく、間近に迫った男から発されていた。

 振り下ろそうとしていた手は、横から伸びた別の手が掴んでいた。その手はたくさんの皺が刻まれた、赤黒い肌の手だ。

「離れろ!」

 誰かが叫んだ。私でも鷺山でもない、別の人の声。

 浅い呼吸を繰り返し、全身の力が抜けていく。しぼんだ風船みたいに、へなへなとその場に尻をついていた。鷺山の腕を掴んだままけれど、彼も脱力していたのだろう。私に引っ張られるまま地面に座りこむ

 どうなっているんだ。この、未来は。

 呆然としながら顔をあげる。見上げれば『兎ヶ丘町内会』の文字が刺繍された法被はっぴが見えた。

 一人ではない。続々とテントから人がやってくる。加勢にきたおじいさんの一人が、誘導棒で男の手を強く叩いた。恐ろしく感じた大きなナイフも、からりと間抜けな音を響かせて地面に落ちる。

 武器を失った男は押さえこまれて地面に伏せる。これでは立ち上がることもできないだろう。

「な……なんで……」

 呟きは鷺山から聞こえた。呆れているよう声でありながら、両肩が震えている。どういう感情だろうとみていれば、次に聞こえたのは笑い声だった。

「は、ははっ……い、生きてる……生きてる……」

 両手を眼前の前で開き動いているのを確かめる。それからこちらに振り返った。

「……僕も、香澄さんも……生きてますね」

「うん」

「無事ですよね? ちゃんと動けますよね?」

 青白くなった顔の、その目は潤んでいた。恐怖から解放された喜びだろう。まもなくその綺麗な瞳から、澄んだ涙がこぼれ落ちるのだと思った。私も鷺山と同じように嬉しくてたまらない。

「未来、変えるって言ったでしょ」

「……本当、でした」

「私たち生きてる。未来は変わった」

 彼の手を掴んで、私の首筋に持って行く。ここらへんに頸動脈があるのだと鷺山が言っていたから、生存を証明するにはこれがいいと思った。どくどくと、生きている音がするだろう。

「ちゃんと、生きてますね」

 彼は目を伏せ、鼓動に聞き入っているようだった。

「僕は……明日も、生きていていいのでしょうか」

「うん。明後日も明明後日しあさっても」

 頬に光るものが伝う。私のために死ぬと言っていた鷺山も、本心では死が怖かったのだろう。それを感じさせる綺麗な涙だ。

 その間にも周囲は慌ただしい。私たちが我に返ったのは、駆けつけた古手川さんの声がきっかけだった。

「二人とも!」

 辺りの様子から察したのだろう。座りこんだ私たちのところへやってきた古手川さんの顔色は真っ青になっていた。

「怪我はない!?」

「うん。大丈夫」

 返答すると今度は篠原と藤野さんがやってきた。藤野さんは篠原に支えられた状態でやってきたので怪我をしたのかと不安になったが、開口一番「腰が抜けちゃって」と笑った。

「怖くないって思ってたけど、だめだった。震えが止まらないや」

「……まだ、掴まってていいから」

「ごめんね――あと、」

 それから藤野さんは小さな、とても小さな声で「助けにきてくれてありがとう」と言葉を結んだ。それは篠原に向けたものだろう。本人に届いたのかは知る由もない。

 私たちが集まっているのを見て、町内会の一人がやってきた。会長さんだ。

「みなさん、怪我はありませんか?」

 それぞれが頷くと会長さんは安堵の息をついた。

「よかった。いま警察がきますから」

 見れば男の両手は紐で縛られ、ナイフも取り上げられていた。抵抗は無意味と察したのか、押さえつけられるがまま、顔をあげる気力さえないようだった。

「助けていただいてありがとうございました」

「いやいや。君たちが大事なことを教えてくれたからです――今日は町内会の誰一人として、お酒を飲んでいません。あのポスターで町内会員の防犯意識が高くなりました。あの目に見られていたらお酒なんて飲めませんよ」

 事件が起きてしまった以上、防犯対策として作ったポスターは意味をなさなかったけれど、別の効果を生んだのだ。

 ぜんぶ、繋がっている。

 ポスターを作ったことも、藤野さんたちと知り合えたことも、町内会の人たちと話し合ったことも。

 それだけじゃない。飼育小屋の幽霊話、えこちゃん。

「幽霊も予知も過去もぜんぶ。今に繋がってる。だから私も鷺山も生きているんだ」

 呟くと、鷺山が頷いた。

「奇跡……っていうよりは積み重ねた結果かもしれません」

 未来は変わったんだ。誇らしい気持ちから、空を見上げる。

 あの憎らしいほどまんまるとした月に、この結果を見せつけてやろうと思って。


 けれど。満月は白く、白く。

 不気味なほど青白い月が嗤っているように見えたのだ。そういえば鷺山もこれぐらい青白い肌だった、と思った瞬間。

「……う、あ、」

 浅い呼吸と溺れてかけている声を混ぜたようなうめき声が聞こえて、咄嗟に目をやる。

 その声は、額に汗をびっしりと書いて白い肌をした鷺山からこぼれたものだった。

 彼は胸元を強く押さえた後、ぷつりと糸が切れたように前のめりで倒れこんだ。

 ごん、と鈍い音がした。地面に倒れた鷺山は起き上がろうとせず、ここからは後頭部のぼさぼさとした髪しか見えない。

「鷺山!」

 咄嗟に彼の体を抱きおこそうとしたけれど、ひどく重たい。かろうじて骨で支えられた柔らかな人形のようだった。

 いつかのように彼の首に触れる。けれど、どこを探っても音がしない。まだ肌は温かさを保っているのに、鼓動だけがうまく聞こえなかった。

「脈……生きてる音……」

 呆然と、探す。私の指先だけ別のものになったように感覚がない。

 全身から血の気が引いていく。凍り付くように寒い。淀んだ水の中に沈められていくように、涅に埋もれて体が動けなくなる感覚。

 白いのだ。あの満月と同じように。

 嗤っている。

 私たちがあがいても未来を変えても、結末は同じ。

 鷺山は死ぬのだと、私たちがそれを選んだのだと、月が嗤っている。

「救急車を呼んで!」

 古手川さんの叫び声がする。視界の端で、弾かれるように篠原が動いたのが見えた。テントに向かっている。

「誰かきてください!」

「医者、看護師さんいませんか!?」

「藤野、手伝え!」

 藤野さんや篠原の声。町内会の人たちも駆けつけて、あたりは騒がしいはずなのに、私のところだけ静かだ。みんなの声が遠くで発されているように感じる。

「……生きるって、約束してない」

 鷺山は冗談の苦手な男だ。嘘がつけない。その彼が最後まで交わさなかった約束。

 でもこれは彼も予想していなかっただろう。だって、男が取り押さえられて事件の終わりが見えた時、生きていることに喜んでいた。涙だってこぼしていた。

 こんなの、嫌だ。

 鷺山に死んでほしくない。

「鷺山……起きてよ……」

 ぎゅっと手を握る。力が入っていないから重たく感じる。握り返してくれることはなかった。

「鬼塚さん、離れて」

 古手川さんに引きずられて、離れていく。

「まって、まって」

「今、藤野さんたち、頑張ってるから」

「さぎやま……死んじゃう……」

 朦朧としながら手を伸ばす。滲んだ視界は鷺山の体の輪郭をぼかし、肌色の何かにしか見えなくなっていた。

 私が彼の元に行かないよう、古手川さんが遮る。そして、温厚な彼女が初めて、声を荒げた。

「信じて!」

 その言葉が、私の頭を揺さぶった。

 どこかからピーと電子音が聞こえる。藤野さんと篠原が何かを叫んでいたけれど内容は伝わらなかった。町内会の人たちや旧道にいた人たちも駆けつけている。

「鷺山くんを、私たちを、信じて」

 遠くでサイレンの音が聞こえる。パトカーだ。不審者の事件で駆けつけたのだろう。救急車の音はまだ聞こえず、どこにいるだろうかと辺りを見渡せば、あの満月と目が合った。

 月鳴神社。予知を見たあの場所。

 ふらりと立ち上がる。旧道では少し距離を離して、人々がこちらを見ていた。

「鬼塚さん、どこいくの?」

 一歩、月鳴神社の方へと歩き出した時、引き止めるように古手川さんが言った。

「行ってくる」

「どこへ?」

「私にできること……たぶん、あるから……鷺山のこと、お願いします」

 そして、走り出す。後ろでは古手川さんの叫ぶ声が聞こえたけれど振り返る余裕はなかった。

 頭に浮かぶのは、神社掃除の時に聞いた月鳴神社の話だ。

 『昔、空に白い月と赤い月があったんだって。でも空にいられるのはどちらか一つだけだから、月鳴神社にいるうさぎ様が選んだの』

 『選んだのは白い月。赤い月に会えなくなってしまったから、新月の夜は寂しくなってうさぎ様が鳴くの。だから新月の夜になるとどこかからうさぎの鳴き声が聞こえるんだってさ』

 私たちに未来を視せたうさぎ様なら。どちらかの未来を選んだことでうさぎ様が後悔を背負ったのなら。

 人混みをかき分けて、旧道を走る。石階段を上って、鳥居をくぐって。そして――月鳴神社の拝殿で、私は頭を下げた。

「うさぎ様、お願いします。未来を選び直したいです」

 けれど返答はない。場所が変わったり未来を見たりなどの変化も起きない。

 私は拝殿ではなく境内の奥に向かった。もう一度、あの斜面を滑り落ちたなら見れるだろうか。

 立ち入り禁止の張り紙もカラーコーンも越えて、下を覗く。境内の明かりは届かず夜の闇に支配されて、向こうは見えない。生い茂る草の音しか聞こえなかった。

 躊躇わず、飛びこむ。草や枝が足や体にあたって、ガサガサと激しい音がした。

 暗いからかどれほど落ちたのか距離がわからない。滑り落ちる音は止んで、背には湿度を含んでじめついた土の感触が伝う。

 それでも、変化は起きなかった。

 土に倒れ込んだまま空を見上げる。

 月だ。白い月だ。

「うさぎ様……」

 きっとうさぎ様も後悔した。片方を選んでしまったがための罪を背負い、だから新月の夜に泣いていたのなら、この辛さをうさぎ様も知っているのだろう。

「鷺山を助けてください。こんな未来は嫌です」

 後悔するぐらいなら、どちらも選びたくはない。

 私たちが辿ったのは、赤い月が示した『鬼塚香澄が刺される未来』でも白い月が示した『鷺山悠人が刺される未来』でもない。提示されたものと異なる未来だ。

 未来は変えることができる。

「私は生きていたいです。でも鷺山がいないとだめです」

 涙がこぼれた。目端からこめかみを通って落ちていく。

「鷺山が好きです。二人で明日を迎えたいです」

 月が白い。悔しいほどに輝いている。

「こんな後悔をしたくない。誰にも後悔させたくない。未来は変えれます、だから――」

 涙と土で顔はぐちゃぐちゃ。頭も混乱している。どこにうさぎ様がいるかもわからないのに月に向かって泣いていた。

「鷺山を助けてください」

 その声が響いて、消えて。

 滲んだ視界になぜか、赤いものが見えた気がした。

 確証はないけれどその赤いものが、月のように思えてしまって、瞼が重たくなっていく。滲んでいた視界も夜に呑まれてしまうのかもしれない。ぼんやりとしながら私は眠ってしまうのだとわかった。

 猛烈な眠気に抗えず、意識を手放してしまう瞬間。どこか遠くで草葉の揺れる音が聞こえた。

 何か小さなものが、跳ねたような音だった。

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