下・3
初めての晩から一ヶ月と経たないうちに、彼女は私の部屋に住み始めた。もとい、住まざるを得なくなった、と書いた方が正確だろう。理由は単純である。元の家に暮らすことが出来なかったからだ。
朝の幸福は長続きしなかった。私と同様、彼女もスマートフォンに大量の不在着信が入っていることに気づいた。しかし、その発信元は、彼女の母親であった。昨晩、彼女はただ「友達の家に泊まる」とだけ伝えて家を出たのである。そして、そのまま家に帰らなかった、両親の連絡を一切無視して。これは彼女の母親にとって、生まれて初めての事だった。だから、ヒステリーを起こすのは目に見えた話でもあった。
目が覚めた後、彼女は落としていたスマートフォンの電源を入れた。そして、表示された画面を見て大きなため息をついた。「ごめんね」と言ってその場から離れると、彼女は電話をかけた。その相手は、もはや言うまでもなかった。離れていても聞こえるくらいの金切り声が、電話口から聞こえてきた。彼女は絶えず謝っていた。あんなに弱々しい声で話す彼女は初めて見た。
長い電話の後、私は慰めるように話しかけた。彼女も嫌なことを忘れたがっているように見えた。しかし、ふたりの会話は何処かぎこちなかった。私達は笑った。無理に笑った。ただ、空間の何処かに裂け目が入っていて、それから逃れられないらしかった。
以降、地獄のような日々が続いた。彼女の両親への愚痴は、前よりも遥かに多くなった。泣き出すことも少なくなかった。会う度にやつれていくのがわかった。目のくまが酷く、笑う時間が減った。
耐えられなかった。まるで自分がいじめられているように辛かった。「一緒に住まないか」という言葉が出てきたのは、だから当然の帰結だったのかもしれない。無論、彼女の両親に反対されることは目に見えていた。それもあってか、彼女自身も最初は難色を示していた。しかし、それよりも実家での生活の耐え難さが勝ったらしい。激しい口論が続いた。毎晩のように、彼女から電話が入った。その度、憎悪と憤怒、そして涙の混じった声で報告するのを聞いた。最終的には、ある程度予測の出来る結果を迎えることとなった。彼女はほとんど家出まがいの形で私の部屋に越してきた。少しずつ、私の部屋に荷物を移しながら、ある日書き残しを置いて実家を出ていった。
私とXの同居生活が始まった。しかし、それは決して楽しいものではなかった。はじまりから、生活は苦しいと言ってよかった。私の部屋は二人が暮らすにはあまりにも狭すぎた。彼女の両親は厳格であったが、双方共に弁護士であるため、裕福ではあった。よって、加えて貧困が問題となった。私は自分が生活できる程度にしか働いていなかったから、今のバイトを辞めて、別のものを探さなければならなくなった。それとXがお年玉等でつくった貯金に頼ることになった。しかし、その貯金も半年が経つ頃には尽きてしまった。何度か彼女も仕事を探そうとし始めた。しかし、それは私が拒んだ。これまで何処でも働いたことがない彼女に無理をさせたくない。そう言って説得した。しかし、実際には別の理由があった。バイト先で、彼女が私以外の人と仲良くするのを想像したくなかった。無理があるのは承知だった。
もう一つ、問題が浮かび上がった。それは通学についての問題である。当初、彼女は私の部屋から大学に通うことを考えた。私の部屋は、辞めた大学にそれなりに近いところに位置していた。しかし、両親の問題や、突然始まった慣れない共同生活から、決して精神的に健康な状態とはいえなかった。むしろ、元々何とかして保ってきた心の均衡が、まるで一連の出来事によって打ち砕かれたかのように見えた。彼女は病んでいた。初めは無理をしてでも行こうとしていた大学だが、次第次第に行く頻度が減ってゆき、最後には休学することで落ち着いた。そして、そんな状態では、やはり働かせることなど出来るわけがなかった。私は彼女を心配する反面、心の何処かで安堵していた。
ただし、安堵の代償は大きかった。生活は更に厳しくなった。仕事が忙しくなるあまり、以前よりも遥かに読書をする時間が減った。Xと過ごす時間もあるから尚更そうであった。やがて私は、「仕事」と偽って、毎日一時間、ある喫茶店で過ごすことを決めた。おざなりにされていた様々な読書に取り掛かるためであった。
波乱に満ちた同居生活が始まって、やっとささやかな休息を得ることとなった。ただ、代わりに、Xと過ごす時間が苦痛になり始めた。
寝ても覚めても、Xはいつも辛そうな顔をしていた。私が仕事から帰れば必ず愚痴を漏らした。それは他ならない、自分自身に対する愚痴であった。彼女は罪悪感に苛まれていた。「いっそ死んでしまいたい」と何度も口にしていた。しかしその度に、こう付け加えるのであった。
「でも死ねないの」
私は「なぜ?」と聞いた。すると彼女は、その言葉を待っていたかのような、皮肉っぽい笑みを浮かべて、言うのであった。
「死んだあとが怖いからよ」
「どういうこと?」
「その言葉通りよ。私が死んだら、きっと皆私の悪口を言うに違いないから」
「そんな、考えすぎだよ」
「いいえ、絶対そうに違いないわ。私が死んだら、家族も友達も、皆私の陰口ばっか言うんだ。葬式会場なんて酷いもんに違いないわ。『アイツは他人に迷惑ばかりかけていた』『どうしようもない馬鹿で、出来損ないだった』『余計な問題だけを残して勝手に死んでいった』。まあ、そんな事ばかり言われる様が目に浮かぶかな」
そう語る彼女の眼差しは、部屋の隅をただじっと、真摯に見つめていた。まるでそこに恐るべき幽霊がいるかのようだった。その強ばった顔つきは、神経質に震えていた。顔色は絶望しきっていた。
「死にたい。出来ることならさっさと、今すぐにでも死んでやりたい。でも出来ない。死んだあとの面倒とか、皆の噂陰口とかを考えると、死にたくても死ねない。それに……君もなんて言うかわからないし」
「なあ、僕が悪く言うわけないだろう……」
「さあね、わからないよ。だって私、こんなに君を苦しめてるんだもん。こんなに君に迷惑をかけてるんだもん。きっと私のことを悪くいうに違いないわ。もしかしたら、もう見えないところで、バイト先の人とか、一緒に同人誌やろうとしてた人とかにも語ってるんじゃないとも思ってる」
「なんで」と、私は涙ぐみながら言った。
「なんで僕を信じてくれないんだ?こんなに君を愛してるのに」
「ごめんね。ごめんね。でもね」
突然、彼女は泣き出した。私は彼女の肩をかたく抱いた。
「お父さんとお母さんに申し訳なくて仕方ない。こんな出来損ないの人間、二人だって産みたくなかったろうに。私のせいで、お父さんもお母さんも、いつも迷惑そうな顔をしている。期待に添える人間になれないのが辛い。せっかく産んでもらったのに、せっかく育ててもらったのに、それに応えられるようなものが私には何も無い。辛い。辛いよ。私だって二人が望むような人間になりたかった。でもなれなかった。なんで、なんで私はこんな出来損ないなの」
叫ぶような独白の後、彼女はしばし黙って泣いた。私はその間、何度も慰めようとした。にも関わらず、自分が口にした言葉を、何一つとして覚えていない。きっと、どれも彼女の心に響いていないことに気づいていたからだろう。
やがて彼女はあんぐり口を開いた。それは呆然とした、焦燥し切った姿であった。
「ああ、死んでしまいたい。なんで生まれてきたんだろう」
事件は、私達が一緒に暮らしてから三、四ヶ月が経つ頃に起きた。
今までにないくらい多忙な日々の中で、たった一時間であろうとも、静かに読書できるのは幸せだった。喫茶店は昼でも暗く、音楽はいつもフォーレかサティが流れていた。気分を乱す要素は何もなかった。店側からも顔を覚えられて、サービスしてもらうことも少なくなかった。自室に居場所を感じなくなりつつある私にとって、唯一の休憩所といってよかった。
ある日、いつも通り店に顔を出すと、偶然にも例の同期がそこにいた。会うのはあの晩以来、共に呑んだ日以来であった。挨拶を交わした後、せっかくだから同席することにした。私は謝った。Xが悲しむことを考えて、彼と距離を取っていたから。同人誌の件については、ただ一言、「諸事情があってやれなくなった、すまない」と連絡しただけだった。彼はそんな私を許してくれた。まるで仏のように優しい奴だと思った。そして、それを率直に伝えた。同期は独特の微笑みを浮かべて、「やめろや」と言った。あまり褒められ慣れていない人に特有の、気取らないが故にちょっと気持ち悪い笑い方であったが、それ故に益々彼が愛おしくなった。
楽しいひと時だった。私は彼にXとの件について打ち明けた。長い話になったが、最後まで黙って聞いてくれた。何故こんなに親身になってくれるのか、不思議な程であった聞き終わったあとは、ただ「そうか」とだけ述べて、説教することも、追従することもなかった。その簡素な態度に、私は改めて胸を打たれた。
結局、その日は本を読まずに帰った。しかし、気分はいつもより満たされていた。やはり、彼は私が生まれて初めて持った同性の親友であった。
以後、私達は定期的に喫茶店で会うことになった。そうでない時だろうとも、店内に居座る時間は増えた。そして、彼と話し、愛する本を読む時間が増えるにつれて、「ああ、やはり自分は文学がやりたい」という気持ちが強くなった。Xとは文学のために知り合ったにも関わらず、親しくなるにつれて本の話をしなくなったから、尚更そう考えた。
「俺、やっぱ文学がやりたいよ。批評もそうだけれど、実を言うと、小説も書きたいんだ。今は正直何を書けばいいのかわからないし、書く時間もないけど、いつかちゃんとしたのが書いてみたい。でも、このままじゃとてもじゃないが書けないな……」
ある日、私はそう同期に打ち明けた。彼はそれを聞いて、暫く唸った。
「よし、やっぱりやろう」
やがて彼が口を開いた。「何を?」と私が聞いた。それに対して、彼は明るく答えた。
「決まってるじゃないか、同人誌さ。書く時間なんてなんとかなるよ。大切なのは意志だ。知ってるか?何かをするよりも、何かをしようとする意志を維持する方がずっと難しいんだ。でも、こうして互いに刺激を与え合う相手がいるならば、それはきっと維持されやすい」
その日はお互い定期的に文章を書いて、それを読ませ合うことで話が落ち着いた。長さはどの程度でもよかった。Xと同居して以来、私はブログを書くのを辞めていた。読み手を意識ない文章こそ、もっと誠実なものだと言えるが、しかし誰かに読まれるのを意識しなければ、人は中々書くのが難しくなる。私はその事を理解した。そして次第に、未完ではあるが、自分なりに面白いと思えるものが書けるようになってきた。
労働環境にも変化があった。同居生活が始まって以来、私は夜勤をしていた。元々、労働全般が得意ではなかったから、既に二度仕事を辞めていた。彼女にはそれを伝えなかった。余計な心配をかけたくなかったから。
しかし、今度の職場は上手く行きそうな気がした。自営業の飲食店で、あったが、店員の人達は誰も親身に私の話を聞いてくれた。結果として、その日余った食材を多少なりとも持ち帰ることが許された。食材については、いつも「職場のおばちゃんから貰った」と言い訳していた。かつて、私は世間を悲観していた。しかし世の中というものは、もしかすると、自分が思っているほど悪い人間ばかりではないのかもしれなかった。職場の女性の先輩に、Xについて相談することも少なくなかった。私は答えを求めてはいなかった。ただ、やり場のない苦しみを吐き出す場所が欲しかった。先輩はそれを理解してくれたのかもしれない。同期とおなじく、私の話を黙って聞いてくれた。
事件が起きたのは、まさにその矢先であった。Xはすべてを知っていのだ。彼女は一週間、私の動きを尾行していた。本当に、彼女はすべてを知っていた。例の同期(らしき男)と会っていること、その際に書いた原稿を渡していること、知らぬ間に以前とは違う店で働いていること、そこにいる人間と仲睦まじいこと、等々。写真も撮っていた。コンビニでプリントしたと思われるそれらの証拠を、彼女はさも勝ち誇った態度で床に叩きつけた。
私は説得を試みた。これらは皆、彼女のために行っているのだと言った。僕が作家として大成すれば、君との関係も後ろめたいものじゃなくなる。君の両親も僕を認めてくれる。何より、僕は作家になる夢が諦められないんだ。飲食店でバイトを始めたことについては、黙っていて申し訳ないと思ってるけど、店の人は皆いいひとだし、余った食材だってくれる。おかげで最近は食費が浮いてるし、生活も前より苦しくないはずだ。
ああ、うるさいうるさいうるさいうるさい。彼女は聞く耳を持たなかった。私が許せないのはね、私に隠し事をしていたことなの。怒ると思った?そう、そうね。多分怒るわ。あーあ、でも、おかげでいつも私が悪者だ。いつもそうやって立派な人間の振りをして、私を傷つけるんだね。もうずっと前から思ってたこと、言っていい?私達、性格合わないよね。君も私も、お互い苦しんでばかりじゃない。
「でも、これで丁度いいかもしれないね」と、彼女は続けた。
「正直、私もここでの生活にうんざりしてたから、もうやめにしましょう。そろそろ家に帰る時なんだと思う」
彼女は冷たい、空洞のような眼差しで地面を眺めていた。そして口には薄ら笑いを浮かべていた。
「皮肉だね。家にいる時は両親が憎くて仕方なかったし、こっちに来てからもそれは変わらないけれども、家を離れたおかげで、自分が両親の資産をかじって生きている寄生虫だってことに気づいたわ」
ふう。ため息をつく彼女。そしてゆっくりと、時間を静止させるかのような口調で、次の言葉を口にした。
「さようなら」
その瞬間、私は背筋がゾッとした。何かが足元から崩れ落ちていくのを感じた。自分がバラバラになっていくのを覚えた。そして知らぬ間に、彼女の服の裾を掴んでいた。不安で仕方なかった。そして、この不安を解消するためには、彼女にしがみつくことしか出来なかった。
息は荒かった。頭は真っ白になっていた。私は思いつく限りの言葉を口にした。行かないでくれ。君に置いてかれたら、僕はどう生きればいいのかわからない。これ以上僕を苦しめないでくれ。等々。どれも、思い出すと恥ずかしくなるものばかりだった。しかし、自分でも何を言ってるのか正直よく理解していなかった。とにかく、引き止めたかった。何としてでも引き止めなければならなかった。私は気がついた。知らぬ間に、自分の生活のほとんどを彼女に依存していたということに。一見すると、それは目にみえなかった。しかし、彼女を失って生きるを考えると、途端に前が真っ暗になった。自分が二本足で立って、何とか社会の中で生きていくためには、「Xのために生きる」という正当化が必要であった。確かに、生活は苦しかった。彼女のせいで、沢山のストレスを抱えた。彼女はいつからか、私の重荷になっていた。しかし、その重荷がなければ、私は生きていけなかった。そして、のしかかる彼女の重苦しさが、私には心地よかったのだ。私は自分を苦しめるものを愛していた。何故なら、自分はただ存在するだけで彼女を苦しめていることを知っていたから。その罪滅ぼしとして、彼女のために苦しむことは当然だった。
彼女はそっと振り向いた。懇願する私を見下ろした。その口元は嬉しそうに笑っていた。瞳は明るく輝いていた。そして言った、「だよね」と。
「やっぱりそうだと思った。私がいなきゃ、君は生きていけないんだよねえ」
私も嬉しそうに笑った。そして彼女を見上げながら、言った。
「ああ、そうだよ。君なしじゃ生きていけないんだ。前に言ったろ、僕には君しか友達がいないって」
その時、やっと自分達の関係が不健全なもので、お互いのためによくないことに気がついた。そして同時に、もう一切が手遅れなことにも気がついた。
あれから何度、私達は似たようなことを繰り返したろう。彼女が怒る。私が反論する。彼女が去ろうとする。そしてそれを引き止める……。何度、このやり取りを繰り返したろう。少なくとも、月に一度はしたに違いない。そのどれもが決して演技ではなかった。私も彼女も、心の底から怒りを覚えたり、絶望したりしていた。いつかまた繰り返すことはわかっていた。何度も同じ所に頭をぶつけているのは理解していた。そのはずなのに、彼女を失うことを考えると、息が苦しくなって仕方なかった。だから、また同じ馬鹿を繰り返すしかなかった。そして恐らく、彼女はそのことをよく理解していた。
働いていた飲食店は辞めることになった。以後、仕事を辞めて、新しく始める度に、彼女にそれを報告することとなった。私は色んな仕事を試した。コンビニ、引越し、ウェイター、倉庫、営業……。不思議だった。苦手なはずの労働が、彼女のためならやる気になるのだった。しかし、どれも中々上手くいかなかった。
両親の件は、その後も絶えず彼女を悩ませた。同棲を始めてから六ヶ月が経つ頃、彼女の両親が離婚の調停をしていることが知らされた。彼女はそれを電話で知った。その時の彼女の顔を、私は生涯忘れないだろう。「知らせ」が来てから一週間、彼女はつまらないことに苛立った。泣いて、頭をくしゃくしゃに揉んでわめき散らした。その日から、また両親に対する憎悪と罪悪感を語る時間が増えた。
営業の仕事をしていた時は、付き合いで飲み会に参加しなければならないことがあった。先輩の奢りでキャバクラに向かうこともあった。どちらも、職場で一番歴の浅い人間では断れない誘いだった。そんな日ほど帰宅が憂鬱になる時はなかった。彼女が怒る姿が目に見えたから。
しかし、私は馬鹿だった。そんなXのことを、心の何処かで愛おしいと思っていた。不思議だった。自分でも驚くほど、彼女の気持ちがわかる気がするのである。それが誤解であるか、錯覚であるかもしれないことくらいわかっている。にも関わらず、このような共感は、今日まで他の誰にも抱いたことのないものであった。
唯一、例の同期とはこっそり連絡を取りあっていた。喫茶店に通うのは辞めてしまったが、時折バイト先の付き合いと嘘をついて、彼とは二人で酒を飲んだ。もっとも、会う時間もめっきり減ってしまったが。同期は私を不思議がっていた。「何故そんなことをしてまで一緒にいるのかわからない」と言った。「お前にはわからないさ」と、私は言い返した。そう、きっと彼にはわからなかった。そうに違いなかった。私と彼女の気持ちなんて、他の誰にもわからないのだ。
正直に言えば、彼女と過ごす日々苦痛だった。しかし、彼女が苦しそうな顔をしていると、まるで自分も苦しまなければならないような気がしてきた。もし目の前で彼女の腕が裂かれたならば、自分の腕が裂かれたのと同じくらい痛く、苦しいに違いなかった。この感情が、恋愛感情というよりもむしろ同情に近いことはわかっていた。しかし、最早どうにもならなかった。一切は遅すぎた。私はただ、彼女の気持ちが痛いくらいにわかる気がした。世間の連中を馬鹿だと見下しながら、その馬鹿どもが出来ることすら自分には出来ないという劣等感。それに由来する社会への憎悪。一般的なものへの憎しみ。他人への嫉妬、あるいは羨望。すべてが本当に、痛いくらいに理解できた。だからこそ、彼女が私を責める理由も理解できる気がした。自分がいるはずの場所に、自分以外の人間がいるかもしれないという不安。その不安を排除したいという嫉妬。そこから生じる束縛。彼女の嫉妬が、束縛が、まるで自分の血に流れているかのように理解できるのである。
「君は病気だ、治療されるべきなんだ」
そんな私を見て、同期はそう言った。私は皮肉っぽい笑みを浮かべた。その笑い方は、きっとXに似ているに違いなかった。
「お前にはわかんないだろうさ、俺とアイツのことはよ。でもなあ、考えてみろよ。もしかしたら俺は、彼女とだったらやり直せるかもしれないんだよ」
「何を?」
「今日までの人生のすべてをだ」
その時、私は彼の部屋にいた。そして、先程まで座っていた椅子からガタッと立ち上がると、両手を広げて、自分の言葉を述べ続けるのだった。
「彼女となら、俺は本当に全部がやり直せるかもしれないんだよ。お互い、同じような欠陥を抱えてる人間だ。だからさ、痛いくらいにアイツの気持ちがわかるんだよ。彼女が苦しんでいたら、それは俺の苦しみでもあるんだ。だから彼女が苦しんだ分、俺が苦しめられるのは当然のことなんだよ!」
「そんな、馬鹿げてる……」
「はっ!」と言って、私は笑った。
「なんとでも言えばいいさ!お前にはわからんだろう。俺は彼女とやり直したいんだよ。わかるか?俺は家族が欲しいんだ。似たもの同士、一からすべてをやり直したいんだよ。俺はさ、ずっとお前らみたいな人間に憧れてたんだ。ずっと思ってたよ。なんでアイツらが簡単に手に入るものが、自分には手に入らないんだって。でも、やっと、やっと俺にもお前らと同じものが手に入るかもしれないんだ。わかるか、俺は幸せになりたいんだよ。皆と同じになりたいんだ。そして、俺は家族が欲しいんだ。帰る場所が欲しいんだ。もしかしたら、彼女がそれになってくれるかもしれないんだ……」
私にはわかっていた。ずっと前から自分が間違っていることに。このままいけば、ろくでもない未来しか待っていないことに。しかし、どうすればいいかわからなかった。もうどうすることも出来なった。それに心の何処かでは、まだ何とかなる、まだ大丈夫、自分達は救われる、そんな期待を消すことができなかった。
しかし、私は愚かだった。そうは言っても、文学の夢を諦めることが出来なかったから。時には自分の才能について、頭を悩ませることも多かった。頭の中でやりたいことが沢山あるのに、いざそれを実現しようとすると何も出来ない。もとい、何を書けばいいのかわからなかった。それも、作品を書こうと思えば思うほど、何も書けないのである。
これは大きな問題だった。やはり私には才能がないのかもしれなかった。しかし、それで諦めることができれば苦労はしなかった。
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