下・1


 雨が降る。コンクリートの大地を鞭打つ音がする。無数の水滴が地上に弾ける。その音が聴こえる。そして気がつく、知らぬ間に音楽が止んでいることに。どうやらスピーカーの充電が切れたようだ。今や一切は雨に染まる。私の部屋は土砂降り模様に変わっていた。


 雨音を聴く度に思い出すものがある。ベルイマンが『野いちご』の中で考案した、非常に美しいシーンだ。二人の男女が雨の中を佇んでいる。女は生きることを望んでいる、男と共に生きることを。しかし男はそれを拒む。彼が望むのは死ぬことだけなのだ。カメラが男の顔にクローズアップする。彼は語る。自分は人生にうんざりしている。だから死にたい時に死ねるよう身軽でいたい。


 Xが死んでからもう二年が経つ。初めて彼女と会った時の印象は、今でも忘れ難い。彼女はイングリッド・チューリンだった。『野いちご』でチューリンが演じた女にそっくりの見た目だった。美しいが、表情の何処かには暗い緊張が漂っている。それは知的であるが故に神経質な性格をした人に特有の顔つきであった。



 同じ大学の同じ学年であったが、在学中、私達は一切の時間を共にすることがなかった。私は文学部であり、彼女は法学部であった。そして何より、私達は何処のサークルにも属さないでいた。


 それでも知り合ったきっかけは、大学の授業のためであったと言わざるを得ない。否、もっと正確に書くなれば、それは私が彼女を知ったきっかけであったと言える。


 その頃、私は大学の授業のためにある調べ物をしていた。それはある作家についての調べ物であった。課題の内容は、もうあまり覚えていない。ただ、毎日やることがなくて、学校の外で遊ぶ友達もいなかったし、何より調べなければならない作家について、ある深い、特別な共感を覚えていた。だからぼんやりとネットで検索をかけるか、その作家の本を読む以外に何もしない毎日が続いていた。


 すると、あるサイトがヒットした。それは無機質で、特になんの装飾もなかった。しかし文章は美しく、ロダンの彫刻のように簡潔であった。ただ、書かれている内容から、筆者はまだ若いことが感じられた。若さゆえの虚栄心、あるいは自尊心の疼きは、一見すると無愛想な文体の至る所から感じられた。筆者は愛されることよりも、むしろ尊敬されることを求めていた。そして自分を愛さず、尊敬もしない世間に対して漠然とした憎悪を抱いていた。無差別な、限りなく深い憎悪である。


 記事の内のいくつかは、筆者自身の小説に割かれていた。そして小説の内で、筆者は私の調べていた作家について言及していた。平静の保たれた流麗な文体の裏には、マグマのような情念が煮え立っていることがわかった。憎悪に基づく暗い情熱であった。自分こそがその作家のことを理解しているという、それ故にこそ馬鹿な世間の無理解が許せないという傲りであった。数万字に及ぶ長い小説であったが、思わず読まずにはいられないものだった。


 しかし残念なことが一つだけあった。その小説は未完だったのだ。


 私はこの筆者に興味を持ち始めた。小説以外の記事も読み漁り始めた。断片ながらに、そこには筆者の生活についても書かれていた。同じ都内に住んでいるらしく、大学生でもあることがわかった。私は通っている大学についても知りたくなった、更には筆者の年齢についても。しかし、それよりも先に、予想を裏切る事実を知ることとなった。この筆者は女性であったのだ。その厳しい、硬質な文体から、勝手に無愛想な男性の顔を思い浮かべていた。少なくとも若い女性が書いているとは、とても思えないものだった。


 それから私のネットストーキングが始まった。彼女のブログのURLで検索をかけて、SNSがヒットすることを期待した。私は期待通りの結果を得た。彼女のSNSのアカウントを見つけたのである。生憎、本名で運営されたアカウントではなかった。もしそうだったら、年齢と大学も特定出来たかもしれなかったのに。とにかく、今は彼女のアカウントをフォローすることから始めるべきだ。


 しかし、もう我慢ができなかった。自分と同じ年に住んでいる、歳の近い若者で、あんなに優れた文章を書くなんて。どんな人か興味を持たずにはいられなかった。フォローが返ってくるとすぐダイレクトメッセージを送った。自分はあなたのブログのファンである。あなたの書く文章は素晴らしい。自分も今大学生で、あなたの愛する作家について調べていた。そしてあなたの書く小説に出会った。感動した。早く続きが読みたい。更新が途絶えているが(最後の小説の投稿は二ヶ月前だった)、どうなっているのか。何故もっと大きくあれを広告しないのか。あなたは天才だ。そして自分は、このような若い才能に出会えたことに喜びを感じている。などなど。


 ふと、冷静になった。自分が相当気持ち悪い奴だということに気がついた。今から考えても、中々の蛮行だったと思う。


 だから、何故彼女が返信をくれたのか、今でもよくわからない。筆者は驚いている様子だが、「嬉しい」と返信してくれた。ただ、自分の作品についてはあまり言及せず、私達の共通点であるあの作家についてだけを話した。それはあるドイツの詩人だった。しかし、この詩人はいくつか散文も書いていた。返信の中で、彼女は詩人の残した唯一の長編小説に言及した。そして「これはもう読みましたか」と私に聞き、「もし読んでいなかったら」と断った上で、次のように続けた。


「私の書いた小説はこの本を下敷きにしています。そして、それに比べるとあまりにも見劣りするので、もう更新することもないでしょう」


 それがやり取りの始まりであった。彼女の教えてくれたその小説は、名前は知っていたが、まだ一度も読んだことがなかった。早速、その日の内に買いに行った。彼女の返事はいつも遅かった。しかし、私が最初に長文で連絡したからか、向こうはいつも私に長い返事を書いてくれた。それを日に一、二度繰り返した。向こうの書く言葉は、その一つ一つが丁寧だった。私にはそれが嬉しくて仕方なかった。


 やがて彼女が私と同じ大学に在校していることを知った。その頃、既に連絡を取り合うようになって二ヶ月近くが経過していた。しかし、それに気づくにはあまりにも遅すぎた。彼女が在学していることを知ったのは、私が大学を辞めて間もない頃のことだった。


 突然、胸がかきむしられるような感覚がした。そして、この苦しみを何と呼ぶのか、当時はまだわからなかった。後に私は知ることになる。その正体は焦燥感であった。


 私が大学を辞めた理由は、学校が退屈だったからだ。気の合う友人も居なかったし、ひとりの世界に閉じこもってばかりいた。にも関わらず、辞めた今になって、こんなにも気の合う友人と知り合うことになった。しかも同じ大学に通う、同じ学年の、同い年の人間と。あんまりであった。


 私は運命の非情さを憎んだ。そしてあったかもしれない、別の世界線を考えた。もっと早く同じ大学だということに気づいていれば、もっと早く出会えていれば、自分は違う人生を歩んでいたかもしれない。彼女の存在を知っていたならば、自分に未知の友達がいることに気づいていたならばわ、大学を辞めなかったかもしれない。そう考えると、胸が痛くて仕方なかった。


 知らぬ間に「今度会いませんか」というメッセージを送っていた。いても立ってもいられなかった。失われた時間を償いたかった。別の人生を垣間見たくなった。しかし、送ってから間もなくして、我に返った。引かれたかもしれない、避けられるかもしれないという不安に襲われた。そして、軽率な自分の発言を後悔した。しかし間もなくその後悔は喜びに変わった。私達は週末に会うことになったのだ。


 運命の日がやってきた。私はソワソワしながら待ち合わせ場所に向かった。しかし同時に、心の底で失望の準備もしていた。会ったことによって、未知であるが故の友情は壊れるかもしれない。私の態度を気味悪がって、彼女は私を嫌うかもしれない。しかし、その全てを覚悟していた。きっと悲しみに暮れるに違いないが、何が起きてもいい。そう思っていた。


 今思い返しても不思議なことがある。私はそれまで、彼女の顔を見たことが一度もなかった。にも関わらず、目の前から彼女が歩いてくるのがわかったのである。相手の表情を見ただけで、こちらに向かって歩いてくる女性がそのひとであるということがわかった。それはあまりにも奇妙な感覚であった。まるでのっぺらぼうの群衆の中から、たったひとり、輪郭を持った存在が現れてくるかのようだった。私は馬鹿のようにぽかんと口を開いて、相手のことをじっと見つめていた。一切がスローモーションに見えた。そのひと以外のすべてが色彩を失ったかのようだった。それは人形のように華奢で、美しい女性だった。にも関わらず、その表情には何処か険しいものが漂っていた。それが彼女の顔に独特のニュアンスを与えているのである。


 そのひとが話しかけてきた。メッセージの相手が自分であるかを確認してきた。頷いた。すると彼女は言った。


「初めまして。Xと言います、どうぞよろしく」


 あの日のことを、生涯忘れることはないだろう。それは人生の中でも最も輝かしい一日だったが、同時に最悪の一日でもあった。彼女の目をまともに見れたのは、あの最初のときだけだったから。私は直視出来なかった。こんな綺麗な女性とは、今日まで知り合ったことがなかった。目が合えば異様に脇汗が溢れ出た。顔が赤くなっていないか心配だった。しかし何より不安なのは、そんな自分を見て笑われはしないかということであった。しかし、目を逸らすことも出来なかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、頭が真っ白になって、何をすればいいのか全くわからなかった。私は何度も口ごもった。変な態度も取った。傍から見れば、一人で勝手にあたふたしていたし、相当変な奴に違いなかった。自分でもそれがわかっていた。だから尚更最悪だった。何より、筆者がこんなに可愛いとは思っていなかった。だから焦ったし、焦れば焦るほど醜態を晒すのであった。


 それは考えうる限り、最悪の事態であった。私はそれまで、女性の経験がなかった。異性の友人ができたことはあったが、恋愛関係になった相手はひとりもいなかった。なら友人のように接すればいいだけの話だが、しかし、こんな美人を相手にしたことは、生まれてこの方なかったのである。悔しかったし、恥ずかしかった。自分がダサいことを知っているからこそ、尚更そう感じた。ちょっとトラウマになるほどだった。彼女といる間、いつも自分がオドオドしているのを感じた。一緒にいる時間が長くなるにつれて、死にたくなってきた。そして相手が私のことを馬鹿にしていると信じて疑わなかった。事実、私は滑稽だった。こんな滑稽な人間、自分なら絶対馬鹿にしている。態度には出ていないが、私を気持ち悪い奴だと思っているに違いない。


 帰り道、私は変な独り言を発しながら早足で歩いた。「ああ!」とか「クソ!」と呟きながら、ずっと自分の太ももを殴ったり、頭を抱えたりした。家に着くとベッドに倒れ込んで、枕に顔を埋めた。そして、大きなため息をついた。せっかく会えたのに、何もかもが最悪な結果に終わってしまった。彼女の前で晒した醜態の数々が頭に浮かんだ。どれも赤面せざるを得ないものだった。次第に彼女のことが憎くなってきた。よくこんな恥をかかせたなと思った。そうかと思うと、次の瞬間には一緒にすごした一瞬一瞬を思い出して、うっとりしていた。あんな体験は生まれてこの方したことがなかった。しかし間もなく、自分の情けない姿を思い出して、頭を抱えた。そして再び彼女のことが憎くなった。


 傍から見れば、実に滑稽な人間だったた。しかし何より滑稽だったのは、自分の抱くこのモヤモヤが何であるのか、分からなかったことだ。今ならわかる。それは恋愛の感情だった。彼女は私の初恋の相手であったのだ。



「どうしてわからないの?」


 晩年、Xはそう言ってよく私を責めた。また、その度にある印象深い眼差しで私を見つめるのだった。その黒目は憎悪に燃え、目の奥はギラつくように光っていた。まさに目が、表情が、言葉以上のものを語っていた。彼女は私を裁いていた、見つめることによって裁いていた。あたかもこちらが相手を傷つけ、また苦しめた悪人かのように。私はそのような眼差しを前にする度に、いつも同じ言葉しか口にできなかった。


「ごめん……」


 いつからだろう、顔を合わす度に謝罪ばかりをするようになったのは。しかし、「どうしてわからないのか」は私が言いたいことでもあった。こんなにも君を愛しているのに、君のことしか考えていないのに、何故わかってくれないんだ。何故君しかいないのだとわからないのか。そう何度口にしようと思ったか知らない。


 では何故口にしなかったのか?もう言っても信じてくれないことを知っていたから、何を言っても許してくれないことを知っていたからだ。ただ頭を抱えることしか出来なかった。それでも、心の何処かではまだやり直せる気がしていた。私は彼女と一切を、一切をやり直したかった。それも、私達が互いに追い詰められるほど、尚更全て白紙に戻すことが可能なように思われた。


 しかし、無理だった。私は途方に暮れていた。何処で間違えたのかわからないでいた。あるいはもしかすると、最初から間違っていたのかもしれなかった。



 私達の奇妙な友情は二年に及んだ。手元にある彼女の写真は、様々な表情を収めている。笑った顔、得意げな顔、不服そうな顔、緊張した顔……。しかし、どうしてだろうか。写真の何処にも映っていないあの眼差しばかりが、フラッシュバックするかのように蘇ってくる。それは今日まで、他の誰に対しても見たことのない瞳だった。一生忘れることの出来ない、不気味な、暗い情熱を燃やした、威嚇するような眼差しであった。



 初めて会ってから二、三日の内は、再び連絡する気が起きなかった。あんな醜態を晒して、こちらから連絡を入れたら気味悪がられるに違いなかった。既に知らないところで馬鹿にされてるかもしれなかった。自分が情けなかった。いざ美人と知り合うと、相手の容姿にコロッと打ち負かされてしまう自分のチョロさが恥ずかしかった。


 しかし、何よりも悔しかったのは、何をしても彼女のことが頭から離れないことだった。本を開いても、音楽を聴いても、彼女のことばかりが頭に浮かんでしまう。おかげで何にも集中できない。ただ神経だけが苛立っていく。にも関わらず、この苦しみを自分一人で解決することも出来ない。私は戸惑っていた。どうすればこの問題から抜け出せるのかがわからなかった。こうなれば手段はひとつであった。私は時間の経過と共に、彼女に纏わる一切を忘れることを期待した。


 Xから連絡が入ったのは、そう考えた矢先であった。「この前はありがとうございます、あれからいかがお過ごしですか」と、いつも通り簡潔な文体によるメッセージが受信された。違いと言えば、以前のような長文ではない点だった。「Xさんに教えてもらった本を読んで過ごしています。しかし、諸事情あって中々集中出来ず、困ってます。Xさんはどうお過ごしですか」、確か私の返信はそんな感じだった。


 一緒に出かけている際、彼女からある二人の作家についての話を聞いた。ひとりは一、二冊だけ読んだことがあるが、もうひとりはまだ一度も手をつけたことがなかった。何より、私はXの語る声に惹かれた (彼女はやや低い声をしていた。それは少女と少年の中間のような声だった。囁くように語ると、それが大変魅力的に響いたのをよく覚えている)。


 私はその日の内に二人の作家の本を一冊ずつ買った 。こうして今、彼女のために三冊の本を読まなければならなかった。私達が共通して好きな詩人の長編小説、そしてXに書店で薦められた二冊。それ以外に、特に読みたい本もなかった。


 こうしてまた連絡を取り合うこととなった。Xはあの日のことをあまり気にしていないらしかった。自分があんなに気を揉んでいただけに、そのことが不思議でならなかったが、しかしそれすらもやがて忘れていった。私達は少しずつ会う回数が増えていった。お互い朝が苦手だったから、私達は日暮れ頃集まることが多かった。ファミリーレストランで美しい彼女を前に食事をすると、それだけで夜景が輝いて見えた。彼女に影響を受けて、自分もブログを始めたりした。私は浮かれていた。何もかもが上手く行きすぎている気がした。それでも心の内では、この楽しい時間がずっと続けばいいなと願わずに居られなかった。


 そんな中、私達の関係が変わる最初の事件が起きた。その日、私は借りてた本を返すために、辞めた大学の構内で彼女と待ち合わせをしていた。既にあの日から幾度目かの会合だった。私はソワソワしていた。そして、自分がずっと劣っていると感じていた学内で、彼女と待ち合わせできることに密かな誇りを抱いていた。


 やがて目の前から彼女が見えた。しかし、普段と様子が違っていた。彼女は私が見た事のない微笑み方をしていた。周囲には数人の男女がいた。恐らく、学部内の友人であった。一体何を話し合っていたのか。何故あんな風に笑っていたのか。それはわからなかった。


 不意に、何か胸の奥から焦りのようなものが湧き上がってきた。何に焦っているのかは、自分でもわからなかった。それは怯えるような感情でもあり、苛立ちにも似ているが、悲しみでもあった。自分と同じだと思っていた人間が、自分より遠くにいるかもしれず、自分が相手に期待していたものが、もしかしたら相手の内にないのかもしれないという不安だった。やがて私との待ち合わせ場所を目前にして、彼らは分岐した。ただ彼女だけが私の前に向かった。私は彼女に本を返し、彼女は本の感想をきいた。私達はいつものどおりの時間を過ごした。しかし、心の内には煙のようなものが立ち込めていた。


 その晩はあまり上手く眠れなかった。女性は彼女を含めて三人いて、男性は二人いた。皆楽しそうに笑っていた。一体あのグループとはどういう関係なんだろう。会っている時に感じた違和感は、離れて時間が経つにつれて大きくなった。気になって仕方なくなった。特にあの男二人とはどうなんだろう。勿論、ただの友人である自分が、彼女の交友関係に口出しする権利など持つはずがない。何事においても、好きにするべきなのは間違いないはずだ。にも関わらず、心の何処かでは自分に口を出す権利がある気がしてならなかった。そんな自分が馬鹿らしいことは知っていた。しかし、私はそんな自分の身勝手な感情を止めることが出来なかった。


 夜半の一時頃、私は彼女にメッセージを送った。返信が来た。まだ起きているらしかった。少し話さないかと伝える。了承を得たので、電話をかけた。彼女はコールに出て、「どうしたの?」ときいてきた。私は口ごもった。色々と聞きたかったのに、いざ本人を電話越しに迎えると、何を言えばいいのかわからなくなった。やっとの思いで「いや、何となく話したくなってね」と伝えたが、それも誤魔化しに過ぎなかった。


 毒にも薬にもならない会話が続いた。当たり障りのないことばかりをきいて、要領を得ない返事ばかりをした。


「何かあったの?」と、彼女がきいた。


「今日会った時も、様子が変だったよ」


「それは……」と、私は再び口ごもった。


 そして二、三秒の沈黙の後、遂にあることを言ってしまった。それは私自身、口にするまでは気づかないでいた感情だった。


「Xさん、僕にとって、君はたった一人の友達なんだ」


「うん」


「だけど、君からすれば、僕は沢山いるうちの一人に過ぎないかもしれないんだ。そう考えたら、すごく不安になってしまった」


 再び沈黙が訪れた。今度の沈黙は長かった。五秒、いや十秒は続いたかもしれない。気がつけば、私の喉はからからだった。既にあんなことを言った自分が恥ずかしくなっていた。


 やがて沈黙の内から彼女の笑い声が聞こえてきた。静かに、抑えた、しかし何かが噴き出てくるのが止められないような笑い方だった。


「ふふ。ああ、そういうこと?」


 彼女は続けて言った。


「君は想像以上に馬鹿なんだねえ」


 そういう彼女の声は、何だか楽しそうだった。



「シェイクスピアの劇は全部場違いと思い違いで進行するんです」


 彼女と初めて会った時、本屋で私にそう語ってくれたことがある。その頃、私はまだシェイクスピアを読んだことがなかった。


「有名なロミオとジュリエットだってそう。二人の恋は思い込みから始まって、そして誤解のために死んでいく。ハムレットも同じ。でも唯一真実を知る人だったハムレットは、狂った時間の歯車に耐えられず、最後まで殆ど何もしないんですよ」


 私達は本棚の前にいた。話の途中で、彼女は『オセロー』を手に取り、目を落とした。


「でも、私が一番好きなのは『オセロー』です。四大悲劇の中では一番人気がないけど、場違いと思い違いのの最たる例を示してくれてると思います。オセローは誤解の末に妻を殺す、自分が騙されてることに気が付かないまま。そして、自分が誤解していたことを、部下に騙されていたことを知らされた時、彼は部下だけでなく、容易に騙された自分自身すらも責められていることに気がつきます。『オイディプス王』に近い感じですね。オイディプスは自分が知らぬ間に犯した罪のために王位を退き、自らの両目を潰すんです。オセローも気づかない内に犯した自分の罪のために、劇の終わりに自害します。オセローは勘違いのために自らとその妻を殺すんです」


 突然、彼女は笑いだした。ふふっ。そして『オセロー』の表紙から目を上げて、私を見つめた。


「私、オセローのきもちが少し分かる気がするんです。思い込みが激しくなると、それが世界のすべてに見えてしまう。自分の妄想が世界の映し鏡に見えてしまう。オセローは思い込みからデズデモーナを殺すけれど、それは彼がそれだけ彼女に入れ込んでいたからだと思います。思い入れがありすぎると、相手と自分が識別不可能になるんです。でも、悲劇が生じるのは、いつだってそんな時かもしれません。区別できなくなった二つのものが分裂する時、初めて真の意味での物語が始まるんです。そんなことを、時々考えてしまいます。馬鹿らしいでしょ?」


 先程、シャワーを浴びた時のことである。髭を剃り終わった後の自分の顔立ちに、とても驚いてしまった。それが何処と無くXに似ているのである。彼女に特有の表情が、暗い緊張の漂う顔つきが、威嚇するような眼差しが、私の内に生きているのかもしれなかった。彼女は私の死別した半身かもしれなかった。

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