江間義時、雪の日の奇跡

山の川さと子

第1話 雪が魅せた幻

それは承久元年(一二一九年)正月二十七日のことだった。


朝は晴れていた空が昼頃から重く、暗く垂れ込めてきて、やがてきざはしのように筋をつくっていく。


——また降るのか。


 声には出さず、庭をまだ冷たく染めたままの白い雪を見遣る。


鎌倉にはあまり雪は降らない。いや、降っても積もらない。数日ですぐに消える。だが四、五日前に降った雪がまだ綺麗に残っているのに次の雪が降るとしたら、今度はかなり積もるかもしれない。


 憂鬱な気分で灰色の厚い雲を見上げる。


 今宵は鎌倉幕府三代将軍 源実朝の右大将拝賀の儀式が八幡宮にて執り行われる。その為にたくさんの公卿が大蔵の江間の屋敷を訪れていて、その対応で息つく間もなかった。


 元来、接待などに向く性質ではない。断りたかったが、ここ暫く、鎌倉は頻繁な火事に見舞われていた。正月早々、大江広元の屋敷を含む四十軒余りが焼け落ち、続いて十日程前には、弟の時房の屋敷も消失。京の公卿らを迎えるに他に場がなかった。


 付け火だろうと分かってはいたが、将軍の右大将拝賀の儀式が終わるまでは表立っては動けない。警護を強める以外に何も出来なかった。


  将軍の右大将任官には、大江広元が強く反対していた。でも将軍は頑として聞き入れず、先年末に任官した。将軍は舟を造らせたり、子は設けないと言ったり、どこか何かがおかしかった。でも、止める手立てが見つからぬまま、時が過ぎるのを見送るしかなかった。


無力な執権。



「お前なら、無茶苦茶な言い分を通してでも将軍を説得しただろうにな」


 本宅とは別に設けてある小さな邸の庭の松の木を眺めながら独りごちる。


 その松の樹は、次男のシゲが産まれた時に頼朝公に祝いとして下賜された小ぶりの盆栽が大きく育ったもの。


「堂々としていながら、どこか愛嬌があって、とても愛らしい松ですね」


そう言って、笑顔で松の盆栽を眺めていた妻の横顔を思い出す。


そして頼朝公の言葉も。


「松は冬の寒さの中でも青々として逆境に耐え抜く強い樹だ。芽を沢山出し、好みの形に整えることも出来る。自由で生命力に溢れていると思わぬか?」


確かにそうだ。この寒さの中でも、その尖った緑の葉はいささかも辛そうな風情を見せずに清浄な気を放っている。雪も遠慮をするのか、自ら地に滑り落ち、緑の葉が伸び伸びとした顔を見せていた。他を圧倒するその存在感を羨ましく感じてしまうのは、疲れて気が弱っているのだろうか。そっと息をつく。



ふと、風が吹き、松の樹の下にトスッと何かが落ちた。


「コシロ兄」


そんな声が聞こえた気がして顔を上げる。松の枝の下に小さな茶色の塊。



松ぼっくりだった。


「なんだ、おがたまかと思った」


そんなことあるわけないのに。


その昔、おがたまの鈴を鳴らして清らに舞い踊っていた妻の姿が思い起こされる。自分など到底手の届かぬ存在と思った。だが触れられた。この腕に抱くことが出来た。でも手を放してしまった。そこから先、歩んだ暗く重い道。


「雪が消えたら土が見えよう。それまでそこで待ってろ」


松ぼっくりにそう告げ、部屋の中へと戻ろうとした時、袴の裾が踏まれた、ように感じた。


 振り返る。


「いいえ、行かないで。行かないでください。あなたはここに居て」



 記憶のままの顔と声が、そう懇願する。


伊豆に行くなと言って、無茶を言ってきたのは、あれはもう三十年も前の話。そして彼女は、ヒミカは、妻は十年以上前に京で死んだ。


なのに何故、今現れる。この大事な日に。


ずっと逢いたくて、でも夢にも現れてくれなかったのに。


「俺が行かないでどうする。俺は他の道を選びようがない」


そう、今宵は将軍の大切な日。何があろうと行かなくてはいけないのだ。


だが、袴の裾はびくともしない。


 昔と同じだ。一度こうと決めたらテコでも動かない。夢でも。いや、夢だからこそなのか。


諦めて溜め息をつく。


「そうだな。では、違う所へ連れて行け」


 そう呟いたら、彼女の目が驚いたように見開かれた。大きな美しい瞳。まっすぐなその瞳が、また自分を見ている。夢だと頭では分かっていても嬉しかった。


 病で亡くなったと聞き、遺品が送られてきても、彼女がもうこの世にいないとは思いたくなかった。どこかに生きていて、俺を待ってくれていると、連れ戻しに行けばきっとそこにいるのだと信じ込もうとしていた。夢に現れてくれることもなかったから。


だが、やっと現れた。今になって何故。それもこんな日に。



「ならば、そっちの世界へ俺を連れて行け」


自棄気味にそう言う。


もういい加減いいだろう?精一杯のことはした。和田を滅ぼし、父を伊豆に退け、御家人らをまとめた。幼かった将軍は右大将になり、頼朝公の官位を超えた。あとは皇子将軍を迎え、その将軍を柱に、京と良好な関係を保ちながら鎌倉が発展していくのをただ見守るだけでいい。執権職は泰時が継いでくれる。大江広元らが支えてくれるから何の憂いもない。


 だが、夢の中の彼女は首を横に振った。


「いいえ、あなたはここに。この屋敷に残ってください」


ここ?屋敷?

首を傾げる。遠い過去の記憶と夢と混同しているのだろうか。

「ここ、鎌倉か?残っているじゃないか。お前との約束の通りに」


彼女ははまた小さく首を横に振ると、そっと背伸びをした。頰を掠める柔らかな風。逃がさないよう抱き留めようとしたが、腕は虚しく空を掴む。風は掴まえられない。


「ヒミカ!」


叫ぶ。


——行くな!


足が空を歩き、直後、冷たい感触に包まれる。


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