1−16
翔雄がレストハウスに戻ると、薄暗いエントランスの片隅のロングソファで、真知が一人ぽつねんと佇んでいた。
「あ、そちらもお疲れさん。ケガとかなかったか?」
「それは、大丈夫……」
見ると、真知は聖泉の制服姿のまま、ソファの背もたれに上体を預ける格好でぐったりしている。
「なんだ、ずっと待っててくれてたのか? 帰ったの、いつ?」
「一時間ぐらい前……」
「さっさと風呂でも入ってりゃいいのに。あ、それか、何か報告がある? 僕が聞いておいた方がいいこととか?」
「そういうのとは……ちゃうけど」
「なんだよ。帰りが遅いってやきもきしてた? 心配しなくたって、僕の方はちゃんと戻ってきただろ」
「うん……」
どうも、急ぎの連絡でもなく、翔雄の身を案じて、というノリでもないようだ。首を傾げつつ、翔雄は手にしていたカエル入りの水槽をいったん足元に置き、それから身をかがめて真知の顔色を覗き込んだ。
「真知? やっぱり何かあったのか? お前――」
刹那、まるでバネじかけのように真知が立ち上がると、翔雄へぶつかるような勢いでぎゅうっと抱きついてきた。こちらの首元に顔を埋め、腕を背中に回し、上半身を密着させて、けれども一言も発しないまま、抱擁はひたすらに熱い。翔雄は目を白黒させるばかりだ。
「……っっ、……! ……!?」
真知が翔雄に抱きついてくること自体は珍しいことじゃない。けれども、それはどちらかと言えば身内同士のハグのようなもので、親密さの表現と言うよりは挨拶レベルのものだった。これまでは。
「ままままま、真知!? 落ち着けっ! な、何があった!?」
問いかけても、真知はしがみついたまま、いやいやをするみたいにかぶりを振るばかりだ。
「嘘つけ、なにかあっただろっ。あ、あれか!? あのロン毛野郎! あいつと何かあった!? それか、あいつに何かされたのか!?」
ぴくっと真知の肩が震え、腕が緩んで少しだけ身が離れる。表情は暗い。翔雄の視線は避けてうつむいたまま、しばらく斜め下の空間を睨んでいたかと思うと、やがてぽつりと、
「何もない……」
「え?」
そこでようやく真知の瞳がまともに翔雄とぶつかった。どういうわけか、すごく怒った顔になってる。
「うち、何もやらせてへんもん! なんも許してへん!」
「え、あ、いやその」
こちらからすごく微妙な話題に触れてしまっていたことに気づいて、つい逃げ腰になる翔雄。が、それで却って真知はむかっ腹を立てたくなったようで、
「って言うか、勝ったのあたしやもん! ちゃんと落としてきたんよ! うちの体、どこも触らせてへんから、ほんまやから!」
「わわ、わかった、それはわかったから……だったら、なんでお前、いきなり抱きつ――」
真知がぎょっとしたように固まって、翔雄のセリフも中途に浮いた。何かマズイことを言っただろうか? というか、自分で自分の直前の行動が分かってなかったのか? 何秒間か、混乱と戸惑いをもてあました眼で見つめ合う。不意に真知が、今度は逆ギレしたような感じで翔雄の体にむしゃぶりついてきた。
「えっ!? ちょっと、真知?」
「む〜〜〜〜〜〜っ」
ちっちゃな子供がダダをこねる時みたいな、鼻にかかった声で絡んでくる真知。これは……甘えだ。甘えの表現だ。それは分かる。が、なんでこの幼なじみとこんな展開になってるのか、まるで理解できない。
「おい、離れろっ。いいかげんにしろよ、お前!」
「む〜〜〜〜、む〜〜〜〜っ」
そのまんまくんずほぐれつといった感じで、二人してロングソファに倒れこんだ、ちょうどその時。
「お、戻ってきてたのか。ご苦労だったな、翔雄」
いきなり暗がりの向こうからここにはいないはずのボスの声が降り掛かってきたもんだから、翔雄は思わず硬直してしまった。慌てて頭だけ背もたれの上に突き出すと、峰間大伍はここしばらくのいろんな確執もすっかり忘れてるようなしれっとした表情を見せつつ、かつかつと落ち着いた足取りで近づいてくる。
「えっ、な、なんで!? ってか、いつの間に」
「今回はお前に楽をさせとる分、わしが現場を走り回らにゃならんのでな。トラブル処理の合間にちょっと寄ってやったのだ」
「そ、そういう恩着せがましいことを言うぐらいだったら、事前にひとこと――」
「ん、これが例のカエルか。よしよし」
イヤミったらしい物言いに反論する間もあらばこそ、大伍は床に置いたままだった温泉ガエルの水槽を拾い上げると、満足そうに頷いた。一瞬、ここまでの経過をどうごまかそうかと焦ってパニックになる。カエルの入手状況を尋ねられたら? 三匹以外のカエルの所在について確認してきたら? まずい、ジジィが来るなんて、想定外だ!
が、大伍は指令通りの現物が手に入ればそれで満足だったようで、カエルをひととおり眺めてから翔雄の方へ視線を向け、
「では、わしはこれでいったん滝多緒に戻る。明日朝までは、くれぐれも――」
そこでようやく、ソファの上でもがいている翔雄と、その半身にべったり抱きついたままの真知の姿に気づいたようだった。
老人が沈黙した。翔雄はもとより口にすべき言葉がない。真知も翔雄にしがみついたまま、ただ押し黙っている。
何とも言い難い静けさが、三人の間の空気を満たした。少し先の食堂から、合宿気分でくっちゃべっているヒラメンバーの声とテレビか何かの音が入り混じって聞こえてくるのが、ひどくそらぞらしい。
やがて、口元だけでとってつけたような笑みを浮かべると、大吾が言った。
「ええと…………邪魔してしまったかな?」
「ええ年した教育者が、言うことはそれだけかっ」
「いや、まあ……湯塩くんは半分うちの子供みたいなもんだし。今さらヤボなことは言わんよ」
「なんか、意図的に勘違いしてないか、あんたっ!?」
「ただ学園長としては、できれば入籍とかは卒業後にしてもらえると」
「だからそういう洒落にならんことを真顔でだな――」
アホな応酬を繰り返していると、急に人声と足音がどやどや近づいてきて、せせこましいエントランスホールに評議会メンバーが団体様で現れた。
「あ、ほら、やっぱり議長、帰ってるじゃないですか」
「ほんとだ。トビー、戻ってきたんならちゃんと報告入れてよ」
歩いてる時もタブレットを手にして、こせこせと仕事を続けている蓮が、古参の学校事務員のようにぶーたれた。予定時刻を過ぎてもみんなの元へ顔を見せないリーダーを案じて、出迎えるために現れた? でも、黒装束のメンバーがやたらと多いのは、どういう――
「おっしゃ、これで滞在人数、合っとるな。人員点呼は省略するで。んで、
遠足の引率よろしくメンバーを仕切っているのは勉だ。どうやら、夜半の作戦に出る班の進発予定とぶつかったらしい。自らも夜間用の黒の戦闘服(ということにしてあるお手頃価格のスポーツウェア)に身を包み、学園長の見ている前で檄でも飛ばしてやろうというのか、勉は翔雄のソファの手前で、集まってるメンバーをぐるっと見回した。
「ちょっと待って。まだ一人帰館予定を過ぎて戻ってないのがいる」
気難しい顔で蓮が割り込んだ。む、とベンが蓮のタブレットに眼を落とし、二人して翔雄にひとこと確認を取ろうと思ったのか向きを変え――。
そこで急に黙り込んだ。妙な気配を察してソファへと数歩近づいたメンバーたちも、それまで死角だった座面の上を見て、急速に静まり返った。
一同の目前では、翔雄に膝抱っこしてもらってるようなポーズの真知が、ちょっと上気した顔で、それでも全く臆することなく、なおも熱烈な抱擁を続けていた。
「え……ええと、これは?」
蓮がすぐ脇で佇んだままの大伍にお伺いを立てる。学園長はふっと鼻で笑うと、
「これは、と訊かれても、わたしが来てみたら、もうこういう状態だったんでな」
「そ、そうですか……」
もちろん翔雄は真知から逃れるべくずっと努力を続けていたのだが、締め付け力が徐々に上がってきているようで、体勢にはほとんど変化がない。メンバー達の疑念と好奇の視線を一身に浴びつつ、しかし当の翔雄は全く今の状況がわからない。なんとなく、アリジゴクかクモの巣にひっかかった昆虫の気分である。
と言うか、うちのメンバー全員、関わり合いを避けながらもなんだか面白がっているような気配を感じるのは、僕の被害妄想か?
「それはそうと、まだ戻ってないというのは、誰かね?」
「ええと、それは」
真っ赤になってジタバタしている孫を完スルーしつつ、そう大伍が蓮に尋ねた、その時だった。
ぱあんっと乱暴に引き戸を開ける音がして、小さな人影がよたつきながら入ってきた。間近にいた中等部のメンバーが、びっくりした声を上げる。
「あれ、衛倉先輩、出かけてたんですか?」
杏である。今日の午後、翔雄の地質調査につきあった時の格好そのまんまで、でもはっきりとくたびれ果てた様子で、恨みがましそうな視線を宙に漂わせている。
「お、ご、ご苦労さん。何の作戦やったんや?」
こちらも事情をつかみかねたのか、ベンがおそるおそるというふうに尋ねかけた。
「さる追跡調査で、ある人物の足取りをずっと追ってました。ずっと。それはもう、ずーっと」
杏の声は、まるで地獄の釜の縁から戻ってきた亡者のように陰々滅々としていた。
「侵入がひどく難しい建物の中に入ってしまったのに、こちらには全然備えがなく、正直、途方に暮れました。夜闇に乗じての潜入も試したんですが、広大な敷地の上に、信じがたいほどの鉄壁の防御態勢で、無理やり飛び込んでも中にいる相手を捕捉できる可能性は無きに等しく、装備はともかくとして、どうしてこういう情報の欠片なりとも事前によこしてくれなかったのかと、ひたすらにほぞをかむ思いで――」
依然焦点の定まらない視線ながら、心なしか杏の恨み節は、学園長のいるあたりに訴えかけているものであるように思われた。当の大伍は、これまたなぜだかひどく落ち着かなげに体を揺らせている。
それにしても、日頃はむちゃくちゃなオペにも黙々と従事している評議会員の鑑のような衛倉が、いったい今日はどうしたことだ。何かよっぽど鬱憤がたまるようなことが?
「結果、冷え切った空気の中で、ひたすらに相手が出てくるのを待っていたら、何ということでしょう、追跡相手は自動車で出てきたのです! もちろん走りました! 他に方法なんてないじゃないですか! もう、隠密工作員のプライドも何もかなぐり捨てて、全速で走りました! けど、追いつけるわきゃあないでしょう!? 映画じゃないんですから! マンガじゃないんですから!」
さっきから祖父が翔雄をもの問いたげに見ているのが、目の隅に映っている。理由はわからない。もしかしたら衛倉にこんなむちゃな指令を出したのはお前か、とか思ってるのかも知れないが、もちろん預かり知らぬことだ。僕には関係ない。なのに、なぜだろう、なんだか聞いていてひどく申し訳ない気分になるのは。
「幸いにして、相手の行き先ははっきりしてましたから、迷いはしませんでしたけど……でっかいだけの建物にのこのこついていって、あげく四輪車相手にマラソンやっただけなんて、いったい、こんな任務に何の意味がっ――」
そこでようやく杏の目の焦点が合った。合った、というのが、翔雄にも即座に分かった。
杏の視線の先は、ソファの上でぴったり抱き合っている二人、翔雄と真知の姿、そのものだったからである。
天地を揺るがす警戒アラームの大波動を頭から浴びたような戦慄。何の論理も脈絡もなく、これはマズい、と思った。事実、杏は眼を大きく見開いたかと思うと、急に涙をにじませ、やおら全身をわななかせ始めた。多分、その場の全員が見たはずだ。杏の背中から、憤怒の業炎が天井高く噴き上がっているのを!
(いやいや、ちょっと待て、誤解だ!)
衛倉杏の気持ちにまるで気づいていなかったと言えば、嘘になる。が、この年齢にはよくある、憧れ以上、恋愛未満のもやっとした感情だろうと見なしていた。少なくとも、急ぎ深刻に対処すべき問題ではないだろうと。
なのに、この事態はどうしたことか。何かがおかしい。なんでこんなことに。真知と言い、いったい僕の周りに何でこんな不可解事ばかりが次々と? 何が原因だ? 地震が起きたからか? 甲山博士に会ったからか? それとも――
「ずるい、です、湯塩先輩……!」
幽鬼のように近寄ってきた杏が、腹の底からの低い低い声を絞り出した。恐怖に凍りつく翔雄。が、真知はちらりとふてくされたように杏を流し見ると、今さらのような動作で翔雄のシャツを手繰り寄せ、上半身をかい込んで、胸の上にぴたっと頬を押し当てた。
密着している皮膚越しに、翔雄にはいやでもわかった。真知がにやあっと口を笑いの形に歪めているのが。
「ん〜〜〜〜っ!」
堪忍袋の緒が切れのだろう、顔を真っ赤にして地団駄を踏むように全身を揺らせてから、いきなり杏は翔雄にタックルした。自分もソファの上へ身を投げ出し、ただし後ろ向きで、背中同士をくっつけるようにして、身を擦り寄せてくる。
「……あっあの……衛倉、さん? な、何をっ?」
またしても理解不能な部下の動きにパニックしながら、翔雄は引きつった声を出した。
「私は疲れて帰ってきたんですっ。議長からはことのほか念入りにねぎらってもらう権利がありますっ」
「え、それは……いいんだけど……その、背中って……」
「議長の前半分が不当占拠されているので、せめて背中の使用権を主張させていただきます!」
そのままぐいぐいとひたすらに背中を背中で押し続ける杏。
これはなんだ? おしくらまんじゅうだ。それはわかる。だが、衛倉がそういう行動を取る、その真意は?
まったくわからん。
もう限界だ、と思った。
この事態は自分の人生経験を越えている。誰でもいい、助けてくれ、こういうことにも冷静に向き合えるような誰か、日頃女の子の心理とかをドヤ顔でコメントしまくってるタイプの……そうだっ、うちの高等部の先輩たちなら、この程度のトラブルは――
「あれ? おいベン、出発予定、もう過ぎてないか?」
「おお? あ、しもた。ううう、しゃあないなあ、じゃあ……な、なんかようわからんねんけど、ショウ、俺ら出てくるわ。留守番頼む」
急にしらじらしくそう対話を挟むと、勉以下の夜間作戦の面々は実に速やかに出ていってしまった。十人近くの人数が次々と夜闇の中へするするっと溶け込んでいく。理想的なまでの隠密行動である。時間にしてものの七秒弱。
あっという間に頼れそうなメンバーが払底してしまったので、歯噛みしながら祖父に視線を向ける。こんな時にこのジジィにすがりつくなんて最低だけれど、朽ち果てても六十七歳、ムダに豊富な人生経験を今こそ孫のためにふるうべき――
「おおお、わしも先を急がんとな。まだまだ夜は長いことだしのう。では須楼君、あとはよろしくっ」
「えっ!?」
口を開けたままの蓮をほったらかして、大伍も足早に玄関から出ていってしまった。
気がついたら、居残り組の中等部メンバーたちは、とっくにその場からいなくなっていた。それぞれ任務は割り当ててあるし、作業のローテーションも組んであるのだから、いなくて当然ではあるが、仕事に戻ったと言うよりは、明らかに逃げたのである。
翔雄は蓮を見た。一人残ったオペレーション統括担当は、一つため息をつくと、もはやソファの上の三人へは、そのへんの庭石か何かを見るような冷めた視線を投げるばかりであった。
「ちょ…………蓮?」
「あー、まあ、三人ともこの後は非番みたいだし……明日の朝までごゆっくり」
そう棒読みを返すと、タブレット片手に蓮は奥へと去っていった。
「む〜〜〜〜」
「んんんんんん」
なんだかますます不機嫌度が上がっていってるような二人は、いっそう昂ぶった顔で翔雄に自分の体を押し当てたりしなだれかかったり引き寄せたり。
あるいは、翔雄が諦めとともに己のその夜の定めなるものを受け入れたのは、その時だったかも知れない。
「あー、もう……二人とも、わかったから…………せめて、日本語、喋ってくれ……」
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