1−12

「え、な、なんで……」

 虚を突かれたのか、はっきり動揺が声に出てしまう真知。

 まずい。まさかと思うが、真知が男だと?

「D組のはずがない。いや、聖泉の生徒でもないね。どこの学校から来た?」

 ぎりっと翔雄自身の歯ぎしりが脳天まで響いた。何てこった。もっとひどいパターンだ。こんなにあっさり看破されるなんて。いや、これだけで不法侵入などと騒がれることはないはずだが、相手はおそらく真知の正体も見抜いている。穏やかに同行を求め、しかし逃げる隙は一切与えず、学院奥の秘密の部屋で取り調べを始めるだろう。おおう、真知は一体どんな目に……いや、このままだと自分も逃げ切れずに……?

 ここで不意打ちを食らわせるか? 様子を見るか? あるいは真知を一旦囮に? ひと呼吸の間で流れた思考負荷量に、翔雄は額を押さえることしかできなかった。

 だが真知とてそれなりの修羅場をいくつもくぐり抜けてきたエージェントである。相手のセリフ一つの間に気を取り直し、きりっと唇を結ぶと、驚くほど冷静な声で青年に反問した。

「D組の鈴木圭子です。どうしてそんなこと言わはりますの?」

「君は俺が誰か分かってないね?」

「それが?」

 ふふふっと、楽しむような、哀れむような笑い声が響く。軽く目を閉じて顔を傾けてみせたりと、無意識にどこかのカメラへポーズを作ってるみたいだ。

「俺を知らない女生徒なんて、この学院にいない」

 真知が露骨に眉をひそめている。危険度の判定よりも先に、呆れてしまったのだろう。

「もう一つ、俺の知らない女生徒も、この学院にはいない。見逃すはずがないよ。ましてや、君のようなキラ星のごとき美貌の女生徒を」

「あら」

 真知はおべんちゃらの奇襲によろめいたりはしなかった。翔雄は見た。真知の首筋がすっと伸びて、瞬時に逆撃の姿勢へ変化したのを。彼――いや彼女は、まさに絶体絶命のどん底から、一気にイーブンのポジションへ躍り出たのだ。

「あなた、女ってものが全然分かってないんね」

 挑発的とすら言える瞳の輝き。その瞬間、確かにその青年は虚を突かれたようだった。

「女は変わるんよ。ヘアピン一つでも。もちろん恋の一つでもね。そんなことも分からへん男に口説かれてもなあ。もっと日頃から女を見る目を養ってもらわんと」

「…………ほう……」

 驚きが過ぎ去ると、青年は改めて真知の顔をのぞき込んだ。好奇と好感と――好戦的な色とがその顔に広がっている。

 多分、その青年がその気になれば、真知の偽装など即座に調べられるはずだ。が、もう問題はそこにはない。女に関する限り、あんたの目は節穴だと決めつけられたのだ。学院一のドンファン(と翔雄は勝手に想像した)がそれで引き下がるはずはない。ケンカを売った真知自身も、楽しそうな目で相手の反撃を待ちかまえている。

「恋で君は短期間に変身したというわけかい? 僕以外の男を相手に?」

「なに、まるで世界中の女は自分以外の男と恋したらあかん、とでも言いたそうやね」

「或摩中の女について言えば、その通りだね。事実、俺は女達をみんな幸せにしてるよ。そんな俺を知らないなんて、君の方こそ男を見る目がないとしか言いようがない」

「男の視線で女の幸せなんて、軽々しく判断できるん?」

「ふふん、今から君が女の幸せを講釈し直してくれるっていうのかな? この俺に?」

 そこはもう翔雄が分け入ってどうにかできる空間ではなかった。男と女(一応)の誇りをかけた、口説き合い一本勝負のリング上だった。

(しかし、ここからどんな展開を期待しろって?)

 つい翔雄が腕を組んでいると、真知が背中に回した手で、ハンドサインを送っているのに気づいた。ヒトリデサキニイッテ。

 エレベーターは扉を開けたまま止まっている。真知が押され気味の体勢を装ってじりじり後退しながら青年を引きつけているから、翔雄が忍んでいっても気づかれそうにない。

 今一度真知の方を見た。イソイデ。強い調子で指が踊る。翔雄は覚悟を決めた。衣擦れの音も殺して滑り込む。操作盤の数字は二階を示していた。深く考えず、この場からいちばん遠いフロアということで、地下一階を押す。ドアの閉まる直前、青年の肩越しに見た真知の顔は、晴れやかなまでの戦意に輝いていた。

 エレベーターが静かに沈降し始めると、翔雄は大きため息をついて、天を仰いだ。

「ありゃあもうすっかり本物だな~」

 勉などは今回寝耳に水だったようだが、真知が諜報スキルとして「口説き墜とし」を会得してから、実は結構長い。すでに一年以上、真知は〝異性〟を虜にする悦楽にハマっているのだ。事実、これまでに彼女が本気になって口説けない男はなかった。何十人と言うほどの数ではないにしろ、片手の指では収まらない滝多緒の男達・宿泊客・出張工作先の現地人、全て不敗の伝説を誇っている。さすがに身体的な経験値までは聞きかねているものの、ほとんどの場合、相手は腕を組んでやった程度で〝墜ちて〟しまっているのだ。

(にしても、今回のあれは強敵みたいだし、無事に済めばいいんだけど)

 改めて敵地にいることを思い出し、顔を引き締める。とにかく任務をさっさと片づけて、合流の算段をつけないと。

 涼しい音と共に、ランプが地階への到着を告げた。一度操作盤の陰に隠れ、ドアが開ききってしばらく待ってから辺りを窺う。そばに人の気配はない。さっきと同じようなフロアで、一見立派そうなドアが並んでいるだけの――。

 いや。さっきとはやや雰囲気が変わってる。もう少し、そう、実用優先の作りになっていて、なんとなく湿気が多い。ようやくスクールエリアの特別教室区画を探り当てたらしい。ひょいと手前のドア表示を見上げれば生物学室。確か科学部室はこの先だったはず。よし、温泉ガエルはもう目前だ。後は、そうだな、ブログで案内してたぐらいだから、堂々と見学の学生を装って――。

 ふと、通路を進む翔雄の足が止まった。改めて、当初感じた違和感を思い返す。いや、やはりおかしくないか? 科学部が捕獲した温泉ガエルを、即日公開? フェスティバル前の超忙しい時期に? みんなの楽観論に押されてここまで来たけれど……これはやはり、こちらの手口を読んだ敵の露骨な罠なんでは?

 背筋がかすかに緊張で強ばる。だいたい情報の吟味がいい加減すぎた。諦め半分で学園長にはいはい合わせてきたあげくが、この時間外奉仕だ。こんなことなら、今後はやはり自覚的に指揮へ介入しなければ。

 だいたいあのジジィときたら――。

 と、翔雄が敵地のただ中で謀反気をむらむらと起こしていると、人声が聞こえた。

 警戒するような声でないのは瞬時に分かった。若い女の声。人数は多くない。三人もいないようだ。とても楽しそうに、何かを語らっている。よく学校で見る、ひたすら姦しいだけの対話風景などではない。静かで落ち着いていて、なのに生き生きとして。

 そう、例えば幼稚園なんかでしょっちゅう耳にしそうな響き。あきれるほど純朴な幼児達が、生まれて初めて見る何か〝素敵なもの〟を前に、無意識に上げるような賛嘆の声。

 引き寄せられるように、翔雄は開いていたドアをくぐった。上にある「科学部室」の表示は確認もしなかった。

 雑然と器具や標本が並んでいる部屋の、奥まったテーブルの脇。卓上の生物に見入っている白衣の生徒が一人いた。他に人影はない。その生徒の話し相手は人間ではなかったのだ。平形丸水槽の大ガエルを撫でつつ、何事かをひっきりなしに囁いている。落ち着かなげに上体が動いて、肩までのセミロングがさらりと流れた。横顔が露わになる。

 なんて嬉しそうな表情なんだろう、と翔雄は思った。嬉しくて嬉しくて仕方がない、というように、めいっぱい横に引かれた口。でも、桜色の唇は上品さが漂うほどで、控えめにのぞく白い歯も爽やかだ。頬の中ほどには、ちっちゃなえくぼが見える。なかなか魅力的。それに、その目。二重まぶたをとろんと緩め、長いまつげを優しげに伏せているのに、瞳に星が散っているのが見て取れるほど、大きくて表情豊かな黒目。

 美貌の少女だ。――いや、その言い方じゃ物足りない。素敵な。チャーミングな――。まだまだだ。優美な。純な。晴朗な。爽やかな。瑞々しい。無垢な。端麗な。

 天使のような。九月の青空のような。パッヘルベルのカノンのような。

「あら?」

 気配に気づいたのか、少女が振り向いた。横顔が正面からのものになり、瞳が大きく見開かれた。

「お客さん? カエルを見に来てくれたんでしょう?」

「は……え、はあ……」

「どうぞどうぞ。あなたが一人目よ。よかった、誰も来てくれないかと思ってたの!」

 少女の顔がひときわ輝き、華やいだものになった。突然、震えたくなるような衝動が全身を横切る。いつの間にか浅く速くなっている呼吸を押さえつつ、翔雄は口にすべき言葉をとうとう探し当てた。


 ――一目で恋に落ちそうな。


 グゥ、と冷やかすようにカエルが鳴いた。少年と少女の、それが運命の出会いだった。



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