0−18

 翔雄が悶々としていると、後頭部に何かがコツンとぶつかった。首をねじると、真知がやたらと得意げな顔で、クリップボードを差し出している。

「……そう、我々の戦いに休息はないのである! 世界は常に回り続けており、人の世に争いのタネは尽きない! なればこそ――」

 翔雄は完全に聴覚から締め出していたが、大伍の弁舌はまだ続いていた。妙に長ったらしい年寄りの独演会を横目で見ながら、目の前の書面に目を落とす。

「何だこれは?」

「ちょっと署名集めてん。ほら、セシルの件で、女の子が集まってピケ張った時あったやん? 結局事実誤認やったんやけど、この際やから共同宣言出さへんかって」

 タイトルには「諜報活動時の女性の尊厳を守るために」とある。ものものしい表現だが、要するにこの業界の作戦行動で、敵味方に女性が含まれている時は、性的な言動・暴力で圧迫するようなことは許されません、みたいな主張を出したいらしい。

「ん〜〜、どうするんだ、この署名って?」

「評議会で集めるだけ集めたら、千津川に送ってほしいって水枯室長が。なんか、あっちはあっちで使い方考えてるみたい」

「別に僕から言うことは何もないけど」

「そう? ほなら、さっそく――」

「いや、ちょっと待て。これって要するに、超党派の女性エージェントの間でやってる話だよな?」

「そうやね」

「じゃあ、なんで滝多緒の代表世話役が真知の名前になってるんだ?」

「え、何かおかしい?」

 くりっとした目でイノセントに翔雄を見返す第一書記。お互い滝多緒生まれの滝多緒育ちである。長い付き合いなんで、百パーセント本気で訊き返してるわけじゃないのは分かる。が、九十八パーセントはイってしまってる気がする。どうもこの幼なじみは、最近になっていよいよ精神的な女性化にまで踏み込み始めたんじゃないかと、見ていてちょっと恐ろしい。

「……まあ、その件はいいとして、一つ思い出したんだけど」

「あら、なに?」

「お前、千津川のすっ転んだライダー捕まえて、タマに電撃攻撃してだろ」

「ああ、あれ」

「あれはちょっとヒドイんじゃないかと、あちこちから非公式な遺憾の表明が」

「大丈夫、外見は派手やけど、見かけほど痛みはないから。戦意を阻喪させるのが目的やし」

「そ、そうか? でも、ああいう攻撃は、それこそ人としての尊厳――」

「え、だって、あいつ、発煙筒持ってたんよ? もう少しでバスに投げ込むところやったんやから。そんなやつに遠慮なんていらへんと思わへん? うちもちょっとマジギレしてもうたわ」

「……僕も確認したけど、あのタイプの発煙筒は、発火の危険も極力抑えたターゲットにも優しい鎮圧装備だったと確か」

「何言うてんの。ガスで呼吸困難とかなったらどうすんの。煙の中で転倒して頭打ったらどうすんの!」

「いや、それでしかしタマに電気ショックってどう」

「トビー、トビー」

 不本意ながら下半身ネタで論争になりかけた二人の横から、通路越しに蓮が指先をひらひらさせた。二人が振り返ると、例によってキーボードに向き合ったまま、蓮が親指だけでバスの後部を指さした。

「あれ、ほっといていいのか?」

 言われて首を巡らせた翔雄は、しかしそこで口をぱかっと開けたまま固まってしまった。

「……というわけで、いよいよ我々はこの秋の総本山を迎える。覚悟はいいか、諸君!」

 信じがたいことに、学園長の訓示は未だに続いていた。それどころか、いつになく異様な、何かしらとんでもないことをやらかしそうな雰囲気にまで高まっていた。評議会議長をすっかり蚊帳の外に置いたまま。

「基本的な手配はすでに終わっておる。君たちは、ただ現地に乗り込みっ、粛々とっ、そう、粛々と作戦を実行するだけでよろしいっ!」

「あ、あのじいさん、何の話をしてるんだ?」

 呆然と独り言のように言うと、一つ後ろの席から杏がひょいと頭を出して、

「え、聞いてなかったんですか? 或摩あるまですよ、アルマ。いよいよあの大観光地と雌雄を決するんだそうです」

 唖然として、二の句が継げないでいる翔雄。或摩温泉。日本三大名泉の一つで、同じ裏六甲とは言え、滝多緒などとはおよそ比較にならない超金満一流観光街。そこと、雌雄を決する?

 到底捨て置くことは出来ないとばかり、翔雄は一、二歩詰め寄ると、大吾に抗議調で問いかけた。

「待ってくれ。話が見えない。そもそも今回の奈良行きで、この秋の活動は休止期間に入ると、事前に申し合わせていたはずでは?」

 だが、学園長はごく冷静に、

「奈良行きの利益分じゃ、この秋は乗り切れんとの試算が出たのだ。これは数字の問題だ」

「な、何を今さらっ! だったら、地道に本業で稼げばいいじゃないか!」

「もちろん稼ぐとも。だが、員数外の学生らは、別の形で滝多緒に貢献してもいいのではないかな」

「そんな無茶な! じきに中間テストだってあるし、秋は学園も色々――」

「ショウちゃん、ショウちゃん」

 後ろから真知がくいくいとブレザーの裾を引っ張ってきた。振り返ると、なんだか悟ったような眼で、さらにバスの後部を指さしている。

「もう遅い。みんな、すっかりその気になってる」

 見ると、前の方に座ってる幹部以外は、完全に或摩攻略一色で、なんだか勝手に現地の最新地理情報とか敵対機関の人物情報チェックとかに熱中している。

「な、なんでみんなこんなに……」

 杏一人、しれっとした顔で、

「ほんとに耳に入れてなかったんですね。なんでも、評議会メンバーはこの作戦で、中間テストの全教科に、最大でプラス十五点加点してもらえるんだそうで」

「なっ!?」

 なんという身もフタもない釣り方をするのか。学園長にこんな権限をもたせていいのか。

「どうも、その辺りから空気が変わってきまして、私が気がついたらこの状況でした」

「ぼ、僕は認めてない! こんなにオペ続きなんて、どうかしてる! そうは思わないのか、蓮も、衛倉も、真知もっ!?」

 翔雄が視線を向けると、真知はちょっときまり悪そうに、

「いやー、実を言うと、なんか雲行きあやしいから、うちは後ろから逃げてきた口なんやけど」

「止めろよっ、幹部として!」

「そう思わんでもなかったけど、あのじいちゃん、ちょっと今日は本気やったみたい。どのみち、ショウちゃんでも止められかったんとちゃう?」

「……ということは、アレか」

「うん、多分、アレ」

 翔雄は暗澹たる思いで呻いた。ごくたまに隠し玉のように出す、祖父の特殊技能だ。まるでヒトラーのように、と言えば語弊があるが、要するにそんなイメージの弁論術を駆使できるのだ。

 かねてより、峰間の家系はおかしい、とは思っていた。それを言い出すと、滝多緒そのものが色々と規格外の人材が多いのだが、一代で鄙びた観光地に中高一貫の観光専門校を建てて小帝国を築き上げたこの祖父などは、その筆頭かも知れない。集落全体が、古くは甲賀にもつながる、なんて話も聞いたこともあるとは言え――この冗談のような集団催眠技って、いったいどうなんだ?

 それにしても、なんでこんなタイミングで、このジジイはこんなむちゃなオペを?

「うーん、久しぶりに見たな。学園長の人心掌握スキル」

 通路を挟んだ隣の席から、ぼそっと蓮が無責任なコメントを漏らす。彼が平静だったのは、パソコンに向かい合ったままだったからなのかどうなのか。この男もたいがいではある。

「すごいですね。言葉だけで人って変われるもんなんですね。本当に、勉強になります」

 ボケたことを連発しているが、杏が暗示にかからなかったのは確かなようだ。どうやら、てられずに済んだメンバーが、四人はいる。

 だが、今さら多勢に無勢。

「よろしいか、諸君? この業界の諜報戦は、いよいよ苛烈を極めておるっ。だが、最後に勝利するのは我々だっ。求めよ、されば与えられんっ。挑めよ、されば打ち勝てんっ」

「「「おおおおーっ」」」

 なんだか選挙前の総決起集会みたいな雰囲気になってきた。翔雄は諦めて天を仰いだ。

 ああ、流れていく。なすすべなく、部下たちが易きに流れていく。

 バスは間もなく学園の門をくぐろうとしていた。最後の仕上げをするように、峰間大吾は右手を斜め上にまっすぐ伸ばし、決めポーズの構えに入った。評議会メンバーたちもそれに倣う。

「諸君らの善戦に期待するっ! すべては滝多緒のためにっ!」

「「「すべてはタキダオのためにっっっ!!!」」」


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