0−15
鹿戸と滝多緒、千津川との三者協議が正式に終わった時には、十九時を回っていた。
中高生にとっても、大人にとっても、標準的な食事の時間である。このまま帰途について道々ファミレスなりを探すのも手だったが、今日の場合は目の前に結構な食事どころがあった。言うまでもなく、「やまもみじ」である。ここの旧館は昔ながらの温泉旅館だが、新館はいわゆるスーパー銭湯で、リーズナブルな値段で大浴場とヘルスケアと食事が楽しめる、という触れ込みになっている。試合帰りの中高の運動部が利用することも多く、その手の大人数の襲来にも常時対応できて、かつ味やサービスの評判も悪くなかった。
鹿戸はもちろん揉み手で一同を歓迎し、それならということで、評議会と観光局、対外情報部に加えて、(いったい裏でどんな手打ちが行われたのやら)この際だからとカチコミ隊まで揃って、ぞろぞろとのれんをくぐった。
直後、利用料割引を巡って、滝多緒・千津川連合と鹿戸との間に熾烈な舌戦が繰り広げられた。しばしの膠着の後、「ここは近々あんたたちの会社になるんだから、今割り引いても、巡り巡ってあんたたちの逸失利益になるだけだ」との鹿戸の論理に勝つことが出来ず、大人たちは渋い顔で財布を取り出したのだった。「鹿戸さんがあんなに口の立つ人だったなんて」とは松器の弁である。直前の経緯から"やや朴訥で口下手な人"という印象を受けてなめてかかったがゆえの、手痛い失敗だった。
なお、この交渉の直後、「やまもみじ」のスタッフルームの裏手で、なぜか翔雄の姿を目撃したという話が複数寄せられている。一説によると彼は鼻歌交じりのごきげんな様子で、その手には何かの鉱物標本のような、メノウの一種らしき美しい石の塊が抱かれていたとの情報がある。
ともあれ、ようやくにしてエージェントたちはひと風呂浴びて食事にありつくことができたのだった。
さすがにそのまま旅館で一泊という案は、あらゆる方向から却下されたので、せわしく区切ったスケジュールの中、得られた休息と歓談の時間はわずかしかなかった。やがてそれも時間切れとなり、間もなく現地を発つという声が上がりだした頃――
セシルは一人、新館の外れにいた。
ついさっきまで部下たちと一緒だった。別段不愉快な会話があったとか、そういう理由は一切なかったのだけれど、急にやたら苛ついた気分になって、黙ってその場を離れ、一人になれるところを探してここに来た。
苛ついた、という言い方は不正確かも知れない。なんだかとても大きなことを見逃しているような、このまま帰るわけにはいかないような、ひどく切迫した焦り、あるいは不安、あるいは恐怖感。そういうものが、もうすぐここを離れると意識しだしてから、無視できないぐらいに膨らんできてしまったのだ。
実はさっきもひどかった。はっきり体がおかしくなりかけた時に、翔雄が石の話を突然ふっかけて、それでなんとか毒が一部取れた感じだったのだ。でも、全部ではなかった。
――今、それを考えるな。
翔雄はそう言った。それってこれのことだったんだろうか? あいつは知ってたの? でも、今から会って相談するなんて――
「こんなとこにおったんか」
背後からの声で振り返ると、湯上がりのセミロングを微風に揺らめかせて、真知が人懐っこいバージョンの顔で小首を傾けている。
「なんか、あんたの仲間が探してるみたいやけど」
「……うん」
「一人になりたい気分ってやつ?」
セシルが黙っていると、真知はその横で肩を並べて、一緒になって新館の向こう側の風景を見渡した。
目の前には池がある。その先は旧館。同じ敷地でありながら、囲いの一つ向こうは別格のような建物だ。いわゆる、昔ながらの情緒を売り物にする本物の温泉旅館。
「もらいそこねた物件を、今一度諦めつけるために眺めに来た」
横から聞こえてきたセリフで、つい怒った目を真知に向けてしまう。
「なんて気分やないみたいやけど?」
セシルを正面から見つめる真知の目は、かなり真剣だ。
「なんかざわざわすんねん」
じっと見つめ合うのにも困って、ふいっと目を逸らし、言葉を重ねる。
「妙に落ち着かへんねん。……ほんま言うと、三日ぐらい前からや。なんか、今日は色々あったし、だいたい全部片はついたけど、治まらへんねん。全然。却ってひどくなってる気がして」
喋りすぎた気がして、セシルはそこで言葉を切った。今日会ったばかりの相手に、これはちょっと気恥ずかしいんじゃないかと、慌ててブレーキをかけた感じだ。まあええわ、と思う。この女にこれ以上相談相手が務まるとも思えないし、後は「言葉にしたら楽になったわ、じゃ」とか言って、この場を離れ――
「なあ」
旧館にじっと視線を注いだまま、不意に真知が口を開いた。
「ここ、あんたらのオペ通りにむちゃくちゃにせんでよかったな」
静かだった水面に、不意に石くれが投げ込まれたようなショック。
このタイミングでそんな言葉、嫌味にしか聞こえない。セシルはまなじりを上げて真知の横顔を睨みつけた。
「なッ……」
「予定通り警察噛ませてたら、今頃大騒ぎや。ここかて、真っ暗になっとったんとちゃうかな」
「な、何を! その話今さら蒸し返して、何が言いたいんよっ!」
違う、と心の隅で声がする。真知は自分たちの作戦の自慢がしたいのではない。これはそんな話じゃない。分かってる。分かってるけど――
「あんなん、結果オーライやん! どう飾ったって、盗撮のもみ消しやで!? 八方丸く収めたつもりかも知れんけど――」
「全部表にした方がよかった?」
「あ、あたしはそのつもりで――」
「ここのお客に大声で、『ハダカ撮られてますよー』言うて回る方がよかった? 真っ当に回収できへんの棚に上げて?」
「それが筋やんか!」
違う。そんなことが言いたいんじゃない。
今なら分かる。あたしはそんな覚悟なんてしてなかった。
そういう騒ぎになることはむろん承知で、でも作戦の帰結はそこしかないから、ただ仕方ない、としか思わなかった。
結果、不幸になる人のことなんて、考えてもどうしようもないから。
でも、何? 何かが見えてる気がする。その不愉快な考えのもう少し先。自分が見なければいけない何か。
「あんたは、そうやってなんでもかんでもルールひっくり返すのが楽しいだけとちゃうの!?」
「そういうわけでもないで。そっちの方がしんどい。今日のこれかて、セシルの言う通り、結果オーライやしな」
「だったら何を――」
「うちはただ、よかったなあって言いたいだけやねん」
バカにするなと、もう少しで大声を上げるところだった。なのにセシルは中途半端に口を開けたまま、ただ真知の口元を見つめたまま黙り込んでしまった。
「この旅館、きれいなままで残ってよかったなあって言いたいだけやねん。ここの働いてる人とか、その家族の人とか、みんな何の心配もせんと明日もやっていけることになって、よかったなあって」
ふわふわした喋り方。ひたすら能天気なセリフ。普通ならこれだけでド突き回してる。なのに今、セシルはひどく気持ちが乱れていた。そんな、気楽に割り切っていいものじゃない。こんなの、そもそもおめでたい話じゃない……はずなのに。
「まあ賛否両論あるのは仕方ないけど。これ以上、誰も、責任取って、死ぬとか潰すとか逃げるとか、考えんでよくなったのは、ほんとによかったって思うねん。だから」
「何であんたがそんなことを偉そうに――」
「だから、もうあんたも父親のやったことに、責任なんて、感じなくてええ」
いきなり、頭の全部が空っぽになった。呼吸も瞬きも忘れて、呆けたように真知の顔を眺めている。そんな風に、自分が固まっている、ということだけ、かろうじて自覚できてる。
何秒間そのままでいたのか、目頭から何か熱いものがこぼれてきたような気がして、慌ててセシルはあさっての方向へと無理やり視線を飛ばす。
「あんたの養育料が、あのおっさんに盗撮始めさせたんちゃうんか、なんて、もう考え込まんでええねん。ことさらに、あんたが心を鬼にして、あのおっさんに天誅加えな、なんて思い詰めんでもええねん。あんたが発端になって、ここの旅館潰れることなんかを気に病まんでもええねん」
唇を噛んで、ただ耐えた。こんなところで、今日会ったばかりのハリセン女なんかに涙を見せるのは嫌だ。感情を動かされたと知られるのさえ、嫌だ。なんで――
なんで滝多緒の奴らは、こんな不意打ちみたいな落とし方ばっかり、仕掛けてくるのか。
でも、そうだ。これが、そうなんだ。
あたしは、怖かったんだ。
多分無意識に、全部分かってた。あたしが全ての原因なんじゃないかって。
責任関係の矢印の全部が、自分から出てるんじゃないかって。
事実、そうだったんだ。遺産の話はそれを裏付けただけ。だから、あたしは――
あたしは、責任を。
責任取らなきゃって。
「立ち。こんなとこで縮こまったら、あかん」
頭の上からの真知の声に、セシルはふと我に返った。いつの間にか子供みたいにしゃがみ込んで、丸くなったまま泣いていた。
真知がぐいっと腕をつかんで、引き立たせる。結構強い力だけど、痛くはない。
「相続の話断ったんも、罪悪感から?」
「……分からんけど……無意識でそうかも」
「あの件はそれで正解やったかも知れへんけどな」
「どういうこと?」
真知はそれには答えず、ぐるっと回りを見回してから、声を大きくして言った。
「セシル、見てみ。何も変わってへんやろ」
セシルは真知の視線を追った。
目の前の、現実の風景の一つ一つを、新しいものを見る気分で目に入れた。
イルミネーションの中に建っている「やまもみじ」の旧館。
未だ真新しくて活気のあふれる新館。その間に点在する手入れの行き届いた植え込み、竹林、池周り。
どこからから聞こえる夜鳥の声。ずっと先の方で騒ぎ立ててる生徒たちの声。他はひたすら静かだ。
罵る声も嘆き喚く声も、どこからも聞こえてこない。
「もう終わってん。全部終わってることやねん。あんたがジタバタしても、何も変えられへんし、変える義理なんかない。責任もない」
そんなんじゃダメだ、という黒い気持ちは、まだ少しある。でも、それは今はすっかり小さくなって、もうすぐ消えてしまいそうなのが分かる。
「そやから、あんたももう、よかったなあって言うだけでええねん」
ああそうか、と思った。
あたしは、世の中の不条理なあれこれが許せなくて。
でも今回、いちばん許せなかったのは、自分だった。自分だと気づいてしまった。
だから、誰かに言ってほしかったんだ。
"もうええやんか"って。
気がついたら、心のもやもやはほとんど跡が見えなくなってた。嘘のように安らかになった胸の裡。でも、なんだか涙は止まりそうになかった。
少しだけ、真知がセシルの顔を覗き込んで、そのままそっと去る気配を見せた。反射的に、セシルは真知の片手を引き寄せていた。
「何?」
「責任……取って。胸貸して」
なんて恥ずかしいセリフ。でも、こんなところでまたしゃがみ込んで泣くのはもっと嫌だった。
「もう、仕方ないなあ。女の子にそんなこと言われたん、初めてや」
「……男やったらあるんかいな」
「えええ? ないけどさあ」
意外と広い肩幅と、柔らかくも控えめな弾性が、セシルの額を優しく支えた。こいつ、AAだな、と頭のどこかで判定が下る。とりあえず勝ったかも。あまり嬉しくないけど。
――「え、あれ部長?」「しっ、邪魔しちゃダメっス」「で、でも」。
なんだか先の方から声が聞こえる。部下が気を利かせてくれてるのか。普段が普段だからから目を丸くしてるんだろな。まあでも、もう少しこのままでいたい。
「……あんた、滝多緒でも日頃からこんな役回りこなしてるんか?」
つい照れ隠しっぽく訊いてしまう。真知は淡く笑ってから、
「こんな甘々な役なんか、誰もやらしてくれへん」
「にしては、人の心上手に転がしてくれるやんか」
精一杯拗ねた声で言ってやったのに、真知はちょっと感慨深そうに、
「まあ、身近なところに責任とか義務とかで、年がら年中いっぱいいっぱいになってる人間がおるからね。時々ほぐしたらんとあかんねん」
「……ここに来たんは、あんたの意思なん? あいつの指示なん?」
胸に顔を埋めたまま、つい訊いてしまった。不愉快かも知れない質問に、真知はさらりと言葉を返した。
「あの人は指示なんてせえへんよ。でも、自分が似たようなしんどい場面によう遭ってるから。セシルのこと、他人事やと思えんかったんとちゃう?」
そういうことか、と思った。恋愛感情と言うよりは、友情か、同情か。少しだけ、本当にほんの少しだけ心が波立ったけれど、それももういいや、と思う。これで吹っ切ろう。気恥ずかしい話、甘苦い話、それはここまでにして、明日からまた切り替えていこう。
「やまもみじ」をセシルに譲ろうとした鹿戸の、言い残された半分の理由。それだけが、気になるといえば気になる。もしかしたら、翔雄やこの真知も何かを知っているのかも知れない。けど、そこは今はいい。これからあたし自身が自力で探っていけばいいだけのことだ。
今日ここまでのあんな会話やこんなやり取りが、改めて穏やかな気持ちに乗せて、色々と流れてくる。そう、これは全部もう、終わったこと。終わって、「よかったなあ」って言えること。
あたしはただ、「これで終わった」って納得したくて、ここに来たんだ。
「そうか。それであんたたち、警察入れるの、反対したんか」
終わってみれば、すべてがなだらかにロマンチックに説明がつく、そんな心地でつい口走る。
「え、何?」
「なんか、あたしだけ理由がわからんかったこと。警察、呼びたくても呼べへん事情があるって言うたやん? あたしとあの親父と、きちんと話させたくて、通報止めてくれたんやろ?」
「あ、それ違うねん」
急に低い素の声に戻って真知が言った。ちょっといい感じだった雰囲気が、ものの見事に一秒ジャストで雲散霧消する。
「は?」
「全ッ然関係ないねん。それ」
「はああああっ!?」
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