ギニーピッグ2 ①

 関東地方は例年通りであれば、雨季の時期にあたり、傘を失念した日には必ず洗礼を受ける。だがここ最近、鼠色の雲が空に張るだけで一向に雨を落とす気配がない。その雨量の少なさに農産物生産者の喘ぎ声がニュースを通じて伝えられた次の日、久方ぶりにビニール傘の出番がやってきた。自身の機嫌に忠実な天気の身の振り方に人間界は躍らされてばかりである。


 ビニール傘を開こうとすると、バリバリと音を立てて、みそぼらしく骨張った。一度丸めた紙を広げたかのように、質素な皺を無数に作った傘を世に晒すのは忍びない。しかし、代わりとなる傘は所持しておらず、幾ら苦慮を重ねたところで答えは出ていた。


「ふぅー……」


 溜まった洗濯物を干そうと考えていた貴重な休日に雨が降り、同僚から暇に託けて遊びの約束を取り付けられたこの日こそ、読んで字の如く、「悪日」と言っていいだろう。


 地面の水溜りに拘泥し、足の踏み場を考えていると、前方からやってきた歩行者と鉢合わせた。浮かんだ苦笑は、責任の所在を有耶無耶にして息を合わせる前の謂わば礼儀である。横を通り過ぎる車の水飛沫に見舞われながら、注意を払って傘をあやなす。


 同僚の自宅を訪ねるまでの道程は、気苦労が尽きない。蜃気楼めいた視界不良に頭は下がり、バケツをひっくり返したかのような豪雨はズボンの裾を鉛に変えた。はっきりいって、踵を返して自宅へ戻る算段すら頭にあった。だが、同僚との関係に亀裂が走る懸念を思うと、前進しか道はなかった。


 バイト先で偶さか知り合った同僚を仮に「A」と呼ぼう。「A」は、勤務時間が一緒で、毎日のように顔を合わす同僚であり、共通の趣味を持った、数少ない知人の一人でもあった。映像作品をこよなく愛し、観賞会と称して互いの家でテレビを前に胡座を組む、気心の知れた仲だ。それでも、あくまでも仕事を下地にした関係であると言え、人間関係に暗い影を落とすような事があれば、些か仕事がやりにくくなる。尻に鞭を打ち、前進をやめない私の了見は分かってもらえただろう。


「A」の自宅から私の自宅まで取り立てて距離は離れておらず、運動不足な私にとって歩く理由を与えてくれる。が、登山に比肩する足取りの重さから分かる通り、それは晴れの日を基準にした想定に過ぎず、薄弱な私の意思を挫こうと躍起になった雨風に心が折れかけていた。これは試練である。「A」との間柄にどれだけ愛着があるのか。隣人を愛する心を試す神の腕組みを空目した。


「絶対に乗り越えてやる」


 メロスが友人の為に甲斐甲斐しく走ったように、私もその心意気を身に宿し、水路じみた歩道を進む。


「A」のアパートは、鯉のぼりを一年中、屋上から垂れ下げる風流に欠いた見目をしていて、特徴のないアパート群の中でそれを頼りに探し当てた事が今は懐かしい。


 電話が鳴った。ポケットの中で身震いする携帯電話に私は思わず舌を打った。雨風を凌ぐのに片手を塞がれ、さらにもう片方の手の自由を奪われるなど、不愉快この上ない。自然と険しい顔が地面の水溜りに反射した。しかし、悪天候を理由にその呼び出し音を蔑ろにするのは、社会不適合者の烙印を押されかねない。


「もしもし」

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