或る日

 自分の癖を自ら口にすることはない。それは敢えてではなく、語るに落ちるような癖を自覚してないからだ。癖には千差万別あり、折にあたって頷くか、静々と眉根をひそめる。他人から指摘してもらわなければ早々、気付かぬ癖という病理めいた行動について、僕は多かれ少なれ興味があった。人との対話に於いても念頭にくるのは所作であり、声は半ば上の空のような気分で聞いている。しかしそれは、優れた洞察力を身の上に人間観察という嵩に懸かってする注視とは解離した、覗き見るような陰湿さを帯びた視線なので、赤の他人に浴びせれば忽ち不審者扱いだ。


「はぁ」


 訳を聴いてくれと言わんばかりの嘆息には辟易する。年功序列は否応なしに彼の露骨な催促を正当化する。僕は、真っ新な灰皿に吸い殻を落としつつ、淀みなく耳を貸した。


「嫌なことでもありましたか?」


「きいてくれよ」


 彼の聞き手として懇ろになったかのような諦念が湿り気たっぷりの息を誘う。咀嚼し損ねた嫌悪が口端を歪ませるものの、それは嚥下しなければならない諍いの種である。愚痴はとかく聞くに耐えず、伽藍の心を求められる。


「本当、参っちゃうよ」


 苦笑と微笑を兼ねた曖昧模糊な彼の表情を詳らかにして語るだけの人物像を把捉できていない。薄ぼんやりと相槌を打ちながら彼を見ていると、忙しない身振り手振りの行方に目がついていく。とくに何度も首をさする所作には、思わず口に出してしまうほど、悪目立ちしていた。


「最近、疲れていますか?」


「疲れているようにみえた?」


 癖を指摘するには、親密さが足りない。杓子定規に付き合ってきた会社の同僚へ伝えるべきことではない。しかし、出し抜けに嘘を繕い、そそくさと切り抜ける頭の回転の速さが伴わず、愚鈍ながら注視の訳を吐露してしまう。


「いや、その、首をよくさすっているので……」


「あぁ、そう」


 他人事のようにそう言って、同僚は業務に戻った。もう何年も代わり映えのない日常を繰り返すうち、感覚はかじかみ、目を白黒させて驚く機会に郷愁すら覚えていた。だからこそ、先の会社の同僚が自殺するという訃報は、より新鮮に驚くことができ、僕は丹念に噛みしめられた。その死の要因になり得る明々白々な落ち込みを見た覚えはなかった上、会話もまた有り体にいえば退屈に思うほどいつもと変わらず、仕事仲間という間柄がより陳腐に無価値で薄弱な関係として浮き彫りになった。それを裏付けるように、僕は彼の死に対して物見高い野次馬根性を抱いてすらいた。会社の業務に支障をきたす欠員でなければ、悪い噂が立ちもしない同僚の自殺は、まるで対岸の火事そのものだ。


 日がな一日の汚れは風呂場にて、落とされる。ドラム式の洗濯機をゴミ箱と変わらぬ扱いで衣服を投げ入れていた昨日までの振る舞いに反して、今日は妙に恭しく生娘が如き遅行具合で脱衣を行う。その合間、所在ない視線の先が脱衣所の鏡へ向かった。腹鳴に従い抑えた手でもなければ、腹痛からくる反射でもない。それは紛れもない無意識下に於ける特定の行動であり、僕が把捉したかぎり癖と呼ぶに相応しい。意思の介在しない右手を、腹から引き剥がす。不感症をまじまじと語っておきながら、ゆくりなき訃報の知らせが恒常的な動作に少なからず影響を与えている。ただし、数日も経てばすべてが元通りになって、死に触れる機会が再び訪れるまでその感覚を失念してしまうはずだ。


 丘陵に触れる寸前まで垂れ下がった梅雨前線が落とす雨音にいい加減、聞き飽きてきていた。天気予報は向こう一週間、雨の模様を示し続けていて、情報の伝達を任されたアナウンサーが口々に言う。「もう一週間は雨が続きますが、週明けには夏らしい天気になるでしょう」


 肩をそばだててひしめき合う住宅地から少し離れたところに連なる水の張った畑を挟んで敷かれた通学路に、喧騒とは腹違いの古色な音頭が香りのように流れてくる。それは、田舎ならではの持て余した空き地を会場に、屋台とやぐらを組んだ地元民が慎ましやかに催す夏祭りであった。今年の夏、僕はその夏祭りに彼女を誘った。


「いろいろあるね」


「そうだね」


 様々な屋台が手招きするように芳しい匂いを放つ。中でも、夏祭りではあまり見ないカレーの提供を行う屋台があった。


「カレーだって!」


 七月二十五日。二千年代を目前にした某県某市、天気は晴れ。網膜に焼き付くような赤い日差しに背中を押されて、僕たちはその屋台の列に並んだ。

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