罠男と丙午②

 午後九時頃、帰路につく彼の足取りは軽い。今日は地元の競技場でサッカーの観戦に勤しみ、友人が運転する車の助手席で一眠りした後、最寄りの駅まで送ってもらったおかげだ。白い線で仕切っただけの歩道に頭を垂れる街灯が職務怠慢ぎみに光を降らせている。月明かりは少々心許なくあり、夜目を利かせて歩いていると出し抜けに聞こえてきた。


「カツ、カツ」


 立ち姿を優雅に演出するハイヒールの鋭利なカカトがコンクリートを叩く音だ。それが影のように後ろをついて回る、所謂ストーカーと言われる類の者とそれを認識したのは、一週間前のことである


 背後を歩く人の気配をストーカーだと飲み込むには、段階を踏んで答え合わせをするかのようにゆっくりと伺わなければならない。神経質に歩調を合わせて歩き、追い抜くことをいつまでも避ける人間はあまりいないかもしれないが、ストーカーと形容するにはやはり、慎重にならざるをえない。ただ彼は、確信していた。ハイヒールを履いて正々堂々と彼の尻を追っておきながら、突飛な振り返りに鉢合わせると、立ち止まって道草を食い始める厚顔無恥な身の振り方をするストーカーだと。


 今夜、彼は決行に移すつもりである。通学路にも使われる住宅地の枝分かれする小道の一本、小走りで帰路を外れて曲がった。そこには、原付バイクを嵌めた同じ手口の罠があり、彼は頭を下げて通り抜ける。間隔の短いハイヒールの音は、彼と同じ歩調で歩こうとするストーカーの焦燥だろう。間もなく罠に引っかかって地面に叩き付けられる。彼はその姿を見逃すまいと、向かい合う形で待ち伏せた。そして彼の望んだ通り、必死な腕振りで曲がり角を曲がるストーカーは、罠の存在に気付かずに見事に突っ込んだ。


「キャッ」


 彼は思い通りに事が運んだことへの喜びに口端を上げる。だが、直ぐに真一文字に口を閉じた。何故ならば、地面に背中から叩きつけられたにも関わらず、ストーカーは跳ね起きて、ハイヒールを脱いでいる。全身から溢れる欝勃とした闘気は、彼を脱兎の如く退陣に導く。


 不法駐車を見つけ次第、タイヤの空気を抜いてきた彼のポケットには釘が常備されている。その釘をとっさに地面に撒き捨てた。街灯も設置されない小道では釘の存在は暗闇に溶けて馴染んだ。そして背後にて、ストーカーの横転に合わせた、色めき立つ釘の音色を聞く。だが、彼は走り続ける。目の端で捉えたのだ。恥も外聞もなく髪の毛を振り乱しながら、墓場で骨を拾うまで追っかける筋金入りの執念深さを。


 微睡む暇がない常軌を逸した追いかけっこにのぼせ上がる彼は、罠を尽く突破して追走を諦めないストーカーの姿勢に拍手を送る。一つのどんぐりが引き起こした影響を根源に今日まで罠を仕掛けてきた彼にとって、その飽くなき疾走は目を見張る。彼はストーカーに対しての認識を改める。「丙午」に。

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