第8話 不必要な理由


 ――もう十分に時間を潰したところで、蝶子はあの家へ戻った。


 彼……あの金粉をまぶしたような神官が、荷物をまとめて逃げ出せるまでを考慮した時間だったのだが……なぜか件の神官は、例の割烹着スタイルで家の前の草むしりをしていた。


「……あの?」


 この人は、一体なにしているんだろう。

 珍しく困惑して、蝶子は彼に声をかける。

 すると、神官は顔を上げた。


「あぁ、勇者殿。お帰りなさい」


 中腰で雑草を引っこ抜いていた神官の、何気ない言葉。

 けれど、蝶子にとっては懐かしさを感じずにはいられない……「お帰りなさい」なんて、久しぶりに聞いた言葉だった。


「――」


 あまりにも久しぶりだったせいか、返す言葉を失い棒立ちになった蝶子を、神官はちらりと一瞥しただけで、また作業に戻った。


「…………神官さん」


 必死に言葉を探して、蝶子がなんとか絞り出した一言は――。


「どうして、いなくならないんですか?」


 言ってから、しまった間違えたと思った。

 後悔したし気まずく思ったが、顔には全く出ないので、言われた方は嫌味だと受け取るだろう。


 案の定、神官が草をむしる動作がちょっとだけ荒くなった。


「……つまり、勇者殿は」


 ぽいっとむしった草を投げ捨てて、彼は立ち上がる。


「私に、逃げ出して欲しいんですか?」


 挑むように見つめ返され、蝶子は困惑した。


 視線を合わせてくる人なんて、今まで誰もいなかった。

 この世界に来てから、こんな風に真っ直ぐに自分を見る人と会ったことがなかった蝶子は、射抜かれたような錯覚を覚える。

 それだけ、強い視線だった。


「人が作った食事を食べないのも、さっさと出て行って貰うための嫌がらせですか?」

「…………」

「…………」


 二人の間に、不自然な沈黙が流れる。

 互いに一言も言葉を発さず、その上視線はどちらもそらさない。

 蝶子は動揺のあまり言葉を失っていただけなのだが……相手はムッツリと押し黙っていた表情から、張り合っていただけだろう。


 意地の張り合い(ただし一方的な)ともとれる微妙な時間は、無意味と気付いた年長者のため息でもって動き出した。


「……はぁー……。本当に、扱いにくい人ですね」

「――」

「話したくないなら、だんまりでも結構です。でも、食事はきちんととって下さい。変な物をいれたりはしませんから」

「…………」

「言っちゃ悪いとは思いますが……勇者殿は、見た目がかなり貧相です」

「貧相……?」

「はい。生活が不規則だから、身体にも影響が出てるんですよ。まずはきちんと食べて、寝て、話はそれからです」


 母親の小言のように、つらつらと出てくる駄目出しを、蝶子は黙って聞いていた。

 射抜くような強さだった視線が、ふと和らいだのが分かる。


(なんだろう、これ……)


 まるで、本当に自分を心配しているようだ。


(そんなこと、あるわけないのに)

 

 都合のいい考えに、蝶子は内心で苦笑した。

 だが、ここまでされたのなら……蝶子もきちんと「必要ない」理由を伝えた方がいいだろう。


「神官さん」

「なんですか?」

「私に、食事は必要ないの」

「はぁ?」


 彼の眉がつり上がる。

 どうやら、また怒らせてしまったようだ。


 どう言ったらいいのだろう。

 少し考えて……それでも、うまい言い回しが思いつかないから、そのまま事実を口にすることにした。


「勇者に、食事の必要はないの」


 神官の表情が、怒りから不可解そうなものへと変わった。

 これでもまだ、伝わらなかったらしい。

 だが、話を聞く気はあるようだ。

 

 蝶子は、慎重に言葉を探し、続けた。 


「えぇと……つまり……、神官さんは食べないとお腹がすくし、寝ないと眠くて仕方がないでしょ?」

「それは、そうでしょう。いくら神官とはいえ、人間ですから。特に、治癒術を使う我々のような存在は、かかる負荷も大きい。休息は、とても大切です」

「うん。だからね……人間から、そういう諸々のことを省いたのが、勇者なの」

「――は? なに言ってるんだ……っ、失礼。……仰ることの意味が、よく分からないのですが? 睡眠や食事、それらを省くというのは……まるで……――」


 言葉を濁す彼にかわり、蝶子は続きを口にした。


「化け物みたいでしょ? ――それが、勇者だよ」


 これで、必要ない理由が分かっただろう。

 あんぐりと口を開けて、神官の彼は固まった。

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