ヘンプリ-刑務官今昔物語-

Qruppo

あの娘に離別と夜顔を。

    ◆


 所長室で小さなパッケージを握りしめながら、私、夕顔ゆうがお葉月はづきは思わず声を上げた。


「嘘でしょう……」


 このグミ、信じられないほど美味いわ……。


 私は食が細いこともあり、適当な軽食をダンボールで買い置きしていた。

 だいたい仕事は深夜まで続き、今日のように食事を摂るのには向かない時間になる。なので逆茂木が本島に行った時に、片手で食べられるものをまとめ買いさせていた。


「そんなまさか……」


 それが信じられないくらい美味しい。程よくハードな食感の後に、オレンジとマスカットを混ぜたような香りが鼻孔を通り抜ける。色は珍しい白色のグミ。

 半分になったそれが甘すぎない味を伝える。味蕾が喜ぶ。


「夏海、夏海!」

「はい、お呼びですか葉月さん」

「信じられないほど美味しいグミよ、ほら」


 口の中に放りこむ。夏海の馬鹿力だと10つくらい入れるので丁度いい。

 彼女は万力みたいな音を出しながらグミを引きちぎって、大きな音を立てて嚥下した。


「どう」

「しんひられはいくらいひおいひいぐみれふ」

「でしょう」


 どこの会社の製品かしら。世間の風潮か、簡易包装になっていてラベルすらない。

 けれど信じられないほど美味しい。

 見たことのないメーカー風情が、この私を満足させるなんて。ここは素直に褒めておきましょう。やるじゃない。


「真城も食べる?」

「え、いらない……グミ食べるとアゴ痛くなるし……」

「いいから食べなって、ね」


 夏海が、逆茂木をとっ捕まえている。


「グミだよグミ」

「いらないって」


 逃げられないよう脱げかけの制服のチャックを上げて、羽交い締めにしていた。


「ほら口開けて……!」

「なんでそんなにグミ食べさへたいの……!?」


 その様子を、頬杖つきながら眺めつつ。

 汚れきったキツネみたいな逆茂木の首根っこを捕まえてきたこと、その逆茂木が野良犬を拾ってきたこと、加えて警棒みたいな丁度いい感じの木の枝を拾ってきたこと、夏海が食べられそうだと考えてチューリップの球根を拾ってきたこと……。

 なぜか、そんなことを思い出す。


「お前たち拾ってきてばっかりじゃない」

「…………?」


 ……いや、最初に拾ったのは私のほうだったかしら。


 そして、最後に思い出すのは。

はじめて会った時のこと。


 夏海がどう思っているかは知らないし、まぁ私には関係のないことだけれど。


    □


 私は頭が悪いので、進学できないと言われた。

 たしか、SHOの考査室だったと思う。あ、SHOというのは青藍島にある会社のことで、公益社団法人で、奨学金や着るものをくれたところ。

 そして、私を買ったところ。いい人が多い。


 私のいたSS一番隊はあんまり勉強が得意な人がいないところで、そんな人たちでも何かしらの進学先を用意してくれるので、なんとなく大丈夫かなと思っていた。

 でも違ったみたい。

 あ、違うというのはあんまり勉強のできない人たちには、進学じゃなくて就職を斡旋していたらしかった。


 私は勉強がしたかったので、物集女もづめさんに相談してみた。

 あ、物集女さんというのはかなり年上の先輩で、今は大きな大学の研究者をやっていて、どこかの街で超常現象みたいなものを検証すると言っていた。いつも痴女みたいな格好をしている。私もしてるけど。


「分数のわり算わかる?」

「わり算……?」

「少し難しそうね」


 この後、わり算は克服した。

 でも入試には失敗したので、就職先を斡旋してもらった。


    □


 私が入社したのは、派遣会社だった。

 派遣と言っても警備をメインにした肉体労働。私の実力では難しいところだったそうだけど、なぜかねじ込んでもらえた。


「へぇ、制服着てビルの前に立つのかな」


 なんて思った。

 そのままアメリカに連れていかれた。

 ブートキャンプっていうのに合流させられた。

 カッコ可愛い制服が着られるのかなと思ったのに、つなぎみたいな服で残念。


    □


 訓練はしばらく続いて、身体が二回りくらい大きくなった頃、私は日本に帰ってきた。

 トレーニングは大変だったけど、私は比較的優しいチームに入れられたらしい。一番隊でも戦闘能力とか性技は下から数えたほうが早かったので、しょうがない。

 期待されないのは、昔から慣れてる。


「あの訓練を乗り越えられたんなら、大抵の環境は苦にならない」


 そして派遣されたのは、地方にある矯正管区だった。

 チューリップ・プリズンって言うらしい。可愛い名前。

 働いてる人はみんな、きっと花の妖精さんみたいな人なんだろうな。罪を犯した人々の更生を手伝う、心優しい人たち。そんな刑務官さんを守る警備隊員が、私の仕事。


 最初に紹介されたのは、真っ黒でセミロングの、前髪をとても短く切りそろえた女の人だった。

 就任の挨拶で、私は尋ねた。


「お姉さんが私の上司なの?」


 パン、といい音がプリズンに響いた。

 ほっぺたをビンタされた。


「敬語」


 杖をついたお姉さんは、見下すような眼で私に言った。


    ◆


 最初の印象は、とにかくデカい犬。

 身長が高くて、姿勢も悪くないのに、どこか大人しそうに見える。

 まるで人に殴られて育てられた大型犬。

 それが、太田部夏海への所感だった。


「夕顔主任矯正処遇官、あなたには特別警備部門を任せたいと考えています」

「特別警備部門、ですか」


 プリズンは処遇部の中に、通常の刑務所の「企画部門」や「処遇部門」に加えて「特別警備部門」というものが存在する。これは警察機関のない孤島で、凶暴なヘンタイを抑えこむため、独自の抑止力を持つために設立されたものだった。

 その特別警備部門を任される、ということは。


「あなたにそろそろ人を使う力を養う時期でしょう。部下を上手に使うことを覚えなさい。人心掌握を我がものとすることができれば、その暁には――」


 出世の機会が訪れた、ということ。


「ええ。もちろんご期待に添うことができるでしょう」


 つまり私が権力を握るチャンスがやってきたのだ。


「どうぞこの夕顔葉月にお任せを……水城所長」


 どんな警備隊が来るのかは知らないけれど。

 私が高みに昇るため、死ぬまで駆けずり回ってもらうわよ。


    ◆


 就任挨拶の翌日。

 私は新人特別警備隊員の教育を開始した。


「それじゃ、まず研修内容を確認するわよ」

「わはりまひは」

「嘘でしょう……」


 こいつ、おにぎり食いながら研修を受けるの?

 まさか、冗談でしょう?


「………………」

「………………」

「……あ」


 おにぎりを半分にして、渡してきた。

 半笑いで。


「いらない」

「………………!」


 信じられないという顔をしていた。

 私も多分、信じられないという顔をしていたので、おあいこと言えばおあいこだった。


「夏海って呼んでください。あ、ノロマンでも」

「お断りよ」


    ◆


 太田部は変な女だった。

 いつもぼーっとしていて、時間があると空を眺めていて、こちらが隙をみせると何か食べている。


「書類が足りないと総務から連絡よ。住民票の控えは?」

「住民票って何?」

「嘘でしょう……」


 まず敬語が使えない。


「立番して空気感を掴みなさい。昨日行った更生センターよ」

「更生センターどこだっけ?」

「冗談よね……」


 物覚えも悪いし。


「警棒を握る素振りは囚人への牽制の意味も」

「握りつぶしちゃった」

「マジなの……」


 無駄に力が強いし。


「お姉さんなんで杖ついてるの?」

「………………」


 デリカシーないし。


「お姉さん、新入の、あの……写真の……ジャケ写?」

「アー写?」

「アー写……!」

「マグショット」


 ものも全然知らないし。


「お前たちの射ぁ精って醜くないか?」

「へ、ヘイトスペルマ……! こいつ!!」

「どうやら囚人同士の諍いよ。制圧なさい」

「シッ! シッ! シッ! シッ!」

「待ちなさい太田部。足ばかり狙わず。待ちなさい。もっと全体を。待ちなさい太田部。待ちなさい!」


 何故か執拗にローを狙うし。


「制圧の際は拘束を目的としなさい。あとローキックを多用するのはやめなさい」

「訓練でそう習ったのに……」


 そのたびに叱ると、まるで耳でも垂らした犬のように俯く。

 いいえ、犬の躾だって、こんなに大変じゃないのではないかしら。犬なんて飼ったことないから知らないけれど。


「太田部」


 彼女は苗字を呼ぶと、ほんの一瞬だけ嫌そうな顔をする。


「ごめんね、お姉さん」

「夕顔。それに敬語」


 こんなのの教育を最初に任されるとは、運の悪さというものを感じざるを得なかった。


    ◆


 特別警備部門の仕事は、もちろん太田部の世話だけではなかった。

 警備の配置やシフトの管理、備品その他の発注など、仕事は多岐にわたる。

 中でも最も重要なのは、隊員たちの掌握だった。


八馬はちうま特別警備隊筆頭、なぜライオットガンの新規購入用紙を提出したのかしら?」


 当時の特別警備隊筆頭は、私より任期がはるかに長く、プリズンの子細を把握していた。上層部にも顔が利く。噂では北九州の名家と繋がりがあり、その威を借りているからか、ここでも頭ごなしに命令できるらしい。

 つまりは利権を貪る側ということ。


「必要だと判断したからですが?」

「予算の無駄ね。消耗品購入はプリズンの負担だけれど、装備その他はそちらで購入する契約になっているはずよ」

「我々はライオットガンも消耗品と認識しています」


 そして彼女にとっては、何をするにもいちいち了承を得るよう命じてくる若い上司は、ただ邪魔でしかないようだった。


「その書類には、私の印が必要なはずだけれど」

「必要ありますか?」


 ……なるほど。


「私がいると言えばいる、それだけの話では?」


 こいつ、私の人生に必要ないわね。

 私に必要ないものは、存在しなくていい。ただ消えてなくなれば。私という世界から完全に、完膚なきまでに消失してくれれば、それでいい。


「そんな考えで、タダで済むと思うのかしら?」

「御歩行もままならない看守殿など、誰が怖がると? 今にでも……ふふ、捻り潰せるというのに?」


 でも、本当に憎いものは、必ず手元においておく。

 私がそれを克服したのだと、征服したのだと、自身に証明するために。


「太田部警備隊の教育を放棄しているのは?」


 別れ際、私は尋ねた。


「だってあの女、売女でしょう?」


 私に必要のない年増女は、たっぷりの嘲笑を含んで言った。


    ◆


 青藍島の出は、プリズンで嫌われる。

 それはそうでしょう。ここの刑務官は、性犯罪被害に遭った人間も少なくない。そして青藍島と言えば、性の乱れた狂気の島。好きになるはずがない。

 実はもうひとつ理由がある。

 水城は青藍島を嫌っている。なぜかは知らないけれど。


「………………」


 だから、太田部はいつも一人だった。

 悪口を言われたり、ものを隠されたり、その程度の些細なもの。けれど周囲から完全に拒絶されていた。

 ぼーっとしている娘だから気にしているか分からないけれど。

 その姿は、飼い主のいない犬のようだった。


「しかし、いま持っている手駒はアレだけ」


 だったら、アレを使えるようにするだけのこと。

 特別警備部門からあぶれた者同士、丁度いい。

 私は、私に忠実で有能な部下を手に入れる。

 ここで莫大な利権を握る側になるために。


 私は、大学院で心理学を学んでいた。とは言っても教授の担当分野はまったくの別で、ちょっとした理由で2年ほどモラトリアムを延長しただけだった。成績優秀者は学費もかからないし、ちょうど良かったのだ。

 そこで出会った同ゼミのOBが、心理学を専攻していた。PTSD治療のための催眠療法という体だったけれど。


「原因となった方法を逆に利用すれば、人の心をコントロールすることもできるね」


 なんて言った時の、メガネの奥で鈍く輝いていた眼を、今でも思い出す。

 せっかく習ったのだから、それを使わせてもらおう。


「今後は、私の補助をおこないなさい」


 まず、太田部には最低限求めるものを仕込むことにした。

 私がいれば、彼女が特別警備隊で失態を犯すことない。一応名目上は、部門内では私の命令が最優先なのだから。

 その旨を八馬筆頭に告げると「お好きにどうぞ」とのことだった。


「これあげる」

「なにこれ?」

「首輪」


 太田部は疑問も挟まず、首輪をつけた。余計に犬のよう。


「何をするにも馬鹿みたいに私の後をついて回りなさい。行動する前に指示を仰ぎなさい。そして私の命令には、逡巡の余地なく動きなさい」


 第一に必要なのは、従順さ。何より手足となる駒が欲しい。最終的には自分で考え、私の望む動きをとるようにしたい。

 誰かがついて回るのは、少々やかましいけれど。

 ボディガードも必要だったし、丁度いいでしょう。


「うん、分かった」

「夕顔、敬語」

「分かりました」


 いくらビンタをしても、太田部には効果がなかった。

 私は腕力がないので、大した痛みがないのかもしれない。


「ねぇお姉さん」


 なので、電流を使うことにした。


「あだっ!」

「今後は何かを忘れるたびに、これが流れるわ。気持ちいいでしょう?」


 スイッチを押すと、首輪からちょっとした電気が流れる。緊箍児きんこじみたいなものだ。猿と犬なんて大した違いもないでしょうし。


 まぁそれでも結局、敬語だけはあまり身につかなかったのだけれど。


    ◆


 太田部はどんなにきつく躾けても、泣き言ひとつ言わなかった。

 ただ鈍いだけなのか、根性だけはあるのか。どんな内容でも言うことを聞く。あまり疑問を挟まない。


「どんな時も後ろについてくるのよ、太田部」

「はい、夕顔さん」


 馬鹿な分、動きが早いのも太田部の利点だった。


「なるほど、犬は飼い主の少し前を歩かせるのね……」


 素直なのか、はたまた考える頭がないのか。


「ちょっと前を歩きなさい」

「どっちですか」

「後から言ったほうが正しいことよ」


 不服があっても、すぐに従う。


「歩くの遅いです」

「我慢なさい」

「私が運ぼうか?」

「黙って歩きなさい」


 一応は、すぐ従う。


「それから今日は作業ないから警棒の素振りでもしときなさい」

「分かりました、夕顔さん。シッ! シッ! シッ!」

「私があっち行ってからやりなさい」


 やれと言われれば、どんなことでもやり続けるし。


「お前何時間やってたの……!?」

「10時間くらい……?」


 馬鹿みたいにやり続けるし。


「いだっ!!」

「電流流される前に自分の判断でやめなさい」


 私にとって都合がよい女なのか、便利な人間ではないのか。なんとも判断し難い。

 なんというか――


「理不尽……」

「それも社会よ」

「社会め……」


 利害の中で、生きていない存在。

 これまで会ったことのないタイプだった。


    ◆


 いつも太田部を連れ立って歩く私を、周囲はひそひそと笑っていた。

 口さがない連中は犬と飼い主などと言っているらしい。私も同感だけれど。別に仲良しごっこがしたくてプリズンに来ているわけではないのだし、気にする必要はない。


 太田部も村八分にされることに関して、なんとも思っていない様子だった。

 何を考えているのか分からないけれど、特段楽しそうではないものの、のんびりとした表情を浮かべていることが多かった。


 そんな彼女が少しだけ表情を曇らせたのは、ある日の夜のこと。


 私はどんな時でも、明かりを消さない。

 暗闇に包まれると、追憶の悪魔が顔を覗かせる。私はそれを嫌う。

 看守棟のチャイムが鳴る。独身者用の寮は家賃が安い代わりに安普請。隣のものかと思った。私のところへ訪れる客は、ほとんどいない。

 何度か鳴るので、私は痛む膝を擦ってドアを開ける。


「来ました」

「なんで?」

「……ついてこいって言われたから?」


 私は確信した。

 やっぱりこいつ、馬鹿の類いだ。


「わぁ、夕顔さん私服だ」

「敬語」

「あたっ」


 太田部は私服でも首輪をつけていた。ご丁寧なことね。おまけに値札タグもつけている。


「これ、こないだ来た行商から買ったんです。新品なんですよ。丈夫なんだ」

「あらそう」


 男向けのGジャンを嬉しそうに見せてくる。

 最近は犬でもいい服を着ているものなのね。


「夕顔さんも買えばよかったのに」

「必要ないわ」

「そんな毛玉だらけなカーディガン着てないで」

「無駄遣いは嫌いなのよ」

「おばさんに見えるよ」

「はっ倒すわよお前」

「いだだだ」


 本当は部屋に誰も入れたくはないのだけれど、軒先で騒ぐと苦情が入るため、仕方なく招き入れる。

 太田部は物珍しそうに、部屋を眺めていた。


「なんにもないですね」

「ミニマリストなの。貯金が好きなのよ」

「楽しいよ無駄遣い。私も最近覚えました」


 まるで本物の犬のように鼻を鳴らす。


「なんか……土の香りがします」

「窓の花でしょう。ネットをかけてカーテンとして育ててるから」


 部屋の窓から伸びるネットに、まるで絡みつくよう伸びている白い花を覗きこんだ。


「なんて花ですか」

「夜顔。寒いのに弱いから、ここでも咲くか試してるわ」

「夕顔育てないんですか? 名前にもなってるのに」

「なんで私が干瓢かんぴょうなんて育てなきゃならないのよ」

「あははは!!」

「は?」

「だから陰口でそう、あはははっ!」

「殺すわよ小娘」

「いたたた」


 最近は電流にすら慣れてきたのか、あんまり痛がらなくなってきた。何か別の手を考えたほうがいいのかもしれない。

 すると太田部は、私の部屋に唯一ある本棚の前で立ち止まり、置いてあった学術書を手に取った。


「漢字がいっぱい」

「そうよ。本っていうの」

「それくらい知ってます……」


 売り損ねていた学術書をパラパラとめくっている。内容も分からないだろうに。

 そういえば太田部の詳細資料は、簡単にしか目を通していなかった。簡単な来歴程度。


「夕顔さんって勉強できるんですか」

「馬鹿ね。今の時代、勉強できなくても金さえあれば修士でも博士でもとれるのよ」

「しゅうし……?」


 彼女は、なぜか深い興味の色を覗かせていた。

 その様子が私には、内容に興味があるというより、勉強に興味があるように映った。


「大学、行けばよかったじゃない。仕事をしていたのでしょう? 奨学金と併せれば学費ぐらいなんとかなったと思うけれど」

「それが……ちょっと難しかったです」


 勉強が? と尋ねようとしてやめる。


「お前、今日は休みでしょう。部屋に戻りなさい」

「戻れなくて」

「なぜ?」

「先輩たちが、お誕生日会するから」


 なるほど、と私はようやく伸びてきた髪を払う。

 特別警備隊には、隊員の誕生日を祝う習慣があると聞いていた。

 下っ端隊員は三人一組の部屋に入れられる。広さは十分にあるから、10人くらいなら集まれる。


「誕生日プレゼントを渡すから出てってほしいって……この時間は行くところがないので、それで来ました」


 ただデカいのがいるとその分、幅をとってしまうから。それで追い出されたわけね。


「自分の関係ない誰かが祝われてたら不満なの?」

「ううん、ただ……そういえば私も、今日が誕生日だったから」


 なるほど、少し期待した分、余計に落胆したということかしら。誰かがお祝いしてくれるのかと思ったら、違ったと。

 目を伏せる太田部には、叱られている犬とは違う、もっと別の何か。

 いつも間抜けな顔に、憂いが混ざっている気がした。


「そんなに誕生日プレゼントがほしかったの?」


 きょとんとしてから、かぶりを振った。


「もらったほうが困る。分かる?」

「分かるわ」

「どうして?」

「さぁ?」


 けれど私も、誕生日プレゼントなんてもらいたくない。

 もらい慣れていないから、どんな感情を抱いていいから分からないから、気持ち悪い。気持ちの悪いものなど、受け取る必要はない。だからいらない。


「もらうなら金以外いらないわ」

「そんなにお金好きなの?」

「ええ、浴びられるのなら浴びたいほどにね」


 そうなんですか、と彼女は呟く。

 太田部は、まだ憂いを帯びた顔をしていた。

 理由は、やはりよく分からない。


「口を開きなさい」

「なにほごっ」

「グミよ」


 私は料理するのが面倒な時のために常備しているグミを、口の中に5つ放りこんだ。


「美味しいでしょう?」

「おいひい」

「敬語を忘れない」

「たべながらはやめへ」


 まぁ、正直なところ。

 太田部の人となりには興味がない。

 必要なのはチューリップ・プリズンを掌握するための、強く忠実な駒。幸い、腕力のほうは問題ないのだし。


「お前のような単純な人間は、腹が空くと悲しくなるのよ。とりあえず食べてなさい」

「わかりまひは」


 太田部自体がなんであろうと、私には関係のないことだった。


「んぐっ……夕顔さんも、いつも一人だよね」

「はぁ」


 言われてみればそうかもしれない。


「おんなじですね」

「どうかしらね」


 のほほんとした面持ちで、ようやくいつものように太田部は笑った。


    ◆


 そんなある日、私の元へ電話がかかってきた。

 正確には特別警備隊の電話を、私に回してきた。最近では完全に雑用係だとでも思われているのか、面倒事を押し付けてくる。今に見ているがいい。


 その電話も、ご多分に漏れず厄介事だった。


「もしもし」


 チューリップ・プリズンは、一応秘匿されている施設。そのため名乗らない。

 電話越しの相手は、最初から居丈高だった。甲高い怒号の中で、聞こえたのは『娘を出せ』という言葉のみ。


「どなたかのご親族ですか?」


 そんなの当たり前だろう、分からないのか、馬鹿か、という感じの内容。

 私は舐められるのが死ぬほど嫌いだ。自分を下にみるような輩は許せない。


「分かるわけないわよねぇ? 自己紹介もできないお馬鹿を相手しているほど私も暇ではないのよ? 日本語理解できないのかしら?」


 男の声に変わった。

 今度は日本語が分からないのはそっちだ、常識がない、信じられない、低能、法律を知らないのか、という感じの発言。

 こういう手合いには慣れている。


「黙りなさい。法律について詳しく知りたいのなら、弁護士とご説明に上がりましょうか? 我々がどの組織に属しているかはご存知よね。来週の頭にでも内容証明が届くわ。楽しみなことね?」


 すると今度は、平身低頭一辺倒になった。

 内容は泣き落としに近い、金がないだとか、会社がどうだとか、もう家族がバラバラになりそうとか、このままでは死ぬしかないとか、百万回は聞いた心の底からどうでもいいことばかりだった。


 私はまず名乗れと命じた。

 その男は、太田部なにがしと名乗った。


    ◆


 翌日から、太田部の顔色が明らかに悪くなった。


「何か悪いものでも食べたのかしら?」

「いえ……はい、落ちてる球根を、あの、辛味大根と間違えて……」

「悪いのは頭みたいね」


 太田部は、常に私の前を一定の距離感で歩いている。

 だから震えているのが、嫌でも分かってしまう。


    ◆


 その後、私は久しぶりにメガネをかけて、資料に目を通した。

 これは本人が提出したものではなく、水城所長が伝手を使って調査させたもの。

 本来は看守長以上しか読めないが、特別警備部門を任されているため、その権利を渡された。

 太田部夏海。出身地は九州の右端。5歳まで父方の祖父母に育てられ、後に両名が死去。その後は実父母に引き取られる。両親共に高学歴だが定職につかず、借金が300万以上ある。そのうち100万は親類。親戚とはほぼ絶縁状態。

 太田部夏海が幼い頃、青藍島に売られる。

 給与などの受け取りは両親。その後の接点はほぼなし。


 なるほど、私は呟く。


「いわゆる搾取子ってやつね」


 子供から搾取することで、成り立っている家族。ああ、なんて珍しくもない家庭。

 おおかた娘が就職したのを知って、また搾取のために連絡してきたのだろう。


 太田部と呼ばれるのを嫌がるのも、家族との接点を見出すのを嫌って、ということかしら?

 愚かね、その程度で切れるわけがないのに。


「まぁ……どうでもいいけれど」


 太田部が搾取されていようと、私にとってはどうでもいい。

 けれどひとつ、気になることがある。

 なぜ今になって両親が電話してきたのか?

 彼女自身が居場所を教えるはずがない。せっかく縁が切れたと思っている家族に、わざわざ電話する意味がない。

 まぁあの子に住民票取得の制限をするような頭はないだろうけれど、ここは秘匿されているため、現住所は本島になっているはず。


 ひとつ考えられるのは、第三者が連絡を入れたという線。

 そしてそんなことをしそうなのは、私と太田部を邪魔に思っているあのババアくらいなもの。


 個人情報の漏洩は職務規定違反、しかしどこにも証拠はない。


    ◆


 休日、私はプリズンの中でも数少ない陽の差しこむ場所で、ひとり腰を下ろしていた。

 大きな麦わら帽子を被って、首元にタオルを巻きながら。

 部屋で冷凍してきた麦茶を、手の温度で溶かしつつ飲む。


「おばちゃん……」

「お姉さんよ」

「あたた」


 電流を流しながら振り返ると、太田部が立っていた。


「なぜここを知っているの?」

「夕顔さんがついていけって言ってたから」


 小さく嘆息する。

 ここは私だけの場所だったというのに。誰にも見つからないよう出入り口の草を伸ばしておこうかしら。


「休みの日はついてこなくていいわ」

「言ってることコロコロ変わる……」

「後から言ったほうが正しいことだと言っているでしょう」


 くるぶしくらいまでの雑草を踏み分け、彼女はずかずかと入ってくる。


「これは知ってる。夜顔」

「最初から部屋のを移すつもりだったのよ」

「何してるんですか、これ」

「開墾」


 この痩せこけた雑草だらけの土地を、私は一から耕していた。


「無駄遣いしないんじゃ」

「馬鹿ね。これ以上有用な金の使い方がある?」


 まるで楽園のような、いるだけで休まる自分だけの庭を作るために。


「最終的には、そこに池を作るのよ。紐で囲ってあるでしょう。岩を並べてね」

「へぇ~……」


 私は片足が悪いから、雑草をとるのも一苦労だ。

 けれど不思議と、この作業に嫌いなところはひとつもない。

 理想の庭を作るためなら、惜しむ手間すら感じない。


「だから、いいストレス解消になるわ」

「……ごめんなさい」


 太田部は、大体のことをすでに知っていた。

 八馬にでも言われたのだろう。お前の存在はこんなに邪魔になっていると、辞めるよう圧力をかけてきた……そんなところかしら。


「一日に100件近く電話があるって……」

「あるわけないでしょう。ナンバーディスプレイなのよ? 着拒して終わり」

「でも公衆電話からとか」

「そうね。だから日に40件くらいかしら」


 大きな身体を、肩身狭そうに小さくしていた。けれど大型犬は大型犬、大して小さくはなってない。


「私から……連絡してみます」

「なんて?」

「お給料を、家に入れる約束をすれば……」

「家?」


 ふんと鼻で笑う。


「そこが、お前の家だったことがあるの?」


 太田部は口ごもった。

 右に視線を逸して、捻り出すように呟く。


「でも……二人とも、血の繋がった家族だし……」

「私は、その血の繋がった家族とやらに殺されかけたわよ」


 え、と間抜けな声が漏れていた。


「その後遺症で、今でも片足が動かないわ」


 まだ呆けている。

 私は帽子を脱いで、杖を支えに立ち上がる。


「お前の言う通り、私と同じね」


 そう、私の時は――



『ああああああああああっ! 足が!! 血が! 血が止まらない!!』

『あの車は、ぐぅ……っ! ううううううぅぅぅ!!』

『はあぁっ! 絶対に許さないわ……! 呪ってやる! 呪い殺してやる! ああ!! ああそれだけじゃ足りない!!』

『貴様らには死すらも生温い! 地獄を!! 生きて!! 生き地獄を味わわせてやる!!』

『この私を! 夕顔葉月を!! 殺そうとしたこと! 後悔させてやるぅうううううう!!!』



「……いや、微妙に違うか」

「…………?」


 私は、保険金のために、殺されかけた。

 それまでも、物乞い紛いのことをさせられ、先祖代々の農地とやらを維持するために働かされ、家事の全てをしていた。それが家族だと思っていた。

 愛していたかは、覚えていない。


「自分より上に親がいるなどと、なぜ考える必要があるのかしら」


 手でひさしを作りながら、私は言う。


「ただ血が繋がっているだけなら、産んだだけなら、今の私にもお前にだってできるわ。育てないのなら親じゃない。親だから無条件に敬う必要などない」

「そんな風に、思えなくて……」

「そんな固定観念を持つ必要は、どこにもない」

「どうやって……?」

「見下すのよ、徹底的にね」


 私は、どんなことがあっても親を許さないと、あの時決めた。自分の迫害するすべてを消すと、心に誓った。

 世界が、自分のための存在することを願った。


「ゴミだと思うのよ、その存在を。すべてを」


 だから、そのために金が必要だった。

 わりのいいアルバイトをし、奨学金をもらい、様々な制度を受けることで、ある程度の金銭を若い頃から手に入れていた。


「自分に関係のないゴミが落ちていて、拾う必要がある?」


 すべては、復讐のため。

 恩讐の果て、私は金を欲した。


「でも夕顔さんも……実家にお金送ってるって、聞きました」


 おやおや、どこから漏れたのやら。

 人にこの話をしたことはないから、私の情報が追える人間が、たまたま口を滑らせたのかしら。


「それも結局、家族を助けてるってことで」

「ふっ、違うわ」


 私は、確かにゴミどもを養っている。

 けれどそれは、仏心を出したからではない。


「私は、月々によって送金の金額を変えている。もちろん、向こうから連絡することはできない。分籍しているから、どこで働いているかも知れない」


 連中は、今月いくらで生きればいいのか分からない。

 あえて送金額を増やすこともあれば、数万円も送らない時もある。すべては私の気分次第。それに対して、為す術がない状況を作る。生活保護などもらえないよう、各所に手回しをする。


「そうすることで、絶対に忘れないよう躾けているのよ」


 だから連中は、私を恐怖する。

 機嫌を損ねないよう、私に舐めたことを言えないよう、教育する。


「どちらが上の存在か、をね」


 それを10年近く続けることで、完全なる調教が完了するのだった。

 太田部は何かを言おうとして、口ごもった。

 そんなこと私にはできない、あなたは強いからできたんだ……という感じの顔。それが分かった。なぜかは分からないけれど、境遇が似ていたからかしら。


「……金が欲しいのは、それだけが理由じゃないわ」


 そのせいか、私は余計なことを口にした。


「どういうことですか」

「整形したかったのよ」


 昔からずっとね、と私。

 汗と共に首へまとわりつく髪を払うと、太田部は口を金魚のように動かした。


「でも、お姉さんは……今も、大変美しく……っ」

「まぁ相手に困ったことはないわね」

「変えて、ほしくないです」

「私は変えたかったのよ」


 私は顔を変えたかった。


「自分の顔を見ていると、あの女を思い出すから」


 私の顔は、産んだ女によく似ている。

 鏡を見るたびに思い出す。だから私は、昔から化粧の時ですら長い時間をかけない。故に高いものも必要ない。安いコスメで事足りる。


「けれど、今はもう気にならないわ」

「どうして」

「ペットの顔が似ていても、他愛のないことでしょう?」


 ただドライヤーの時だけは別。髪の維持には金も時間もかかる。あの女は髪が短い。私は髪が長い。

 だから、これからは美しく伸ばす。


「だから貯めてた金で車を買ったわ。本島にあるのよ。たまにしか乗らないけれど」

「………………」


 私も最初は考えたことがあった。


「とっとと決別なさい、太田部」


 家族を切り捨てれば、私は世界で一人になると。


「両親にとって、お前はただの搾取対象でしかない。つまり最初から子供ですらない」


 けれど、その時、私は理解した。


「血の繋がりなど、大した問題じゃない」


 人は、最初から一人だ。だったらそれでいい。


「そんな家族、必要ないわ」

「そうれふね」

「嘘でしょう……」


 私、真面目な話をしていたはずよね……?

 それをハンバーガー食べはじめる、普通……?


「お腹が空くからよくないって夕顔さん言ってたから」

「言ったけれども……」


 言ったことは守るのよね、この子は……。


「ハンバーガー6つです」

「高校生の買い方じゃない……」


 でも……いえ、私が間違ってるの……?


「分かりました」


 大きな音で飲みこむと、太田部は元気よく言った。


「夕顔さんの言う通りです。だから家族と決別してきます」

「弁護士に頼んだほうが楽だけれど」

「いいえ、最後くらい、自分でちゃんと言いたいんです」


 いつものぼんやりとした笑顔を浮かべて、太田部は去っていく。

 私はそれを見送らず、開墾作業へと戻る。


 まぁ、せいぜい頑張るといいわ。

 結局は、私には関係のないことなのだから。


    ◆


 呼び出された所長室は、夜にも関わらず明るく照らされていた。


「遅くに呼び立てて申し訳ありません」

「いいえ、お忙しいのですから当然ですわ。水城所長」

「大丈夫でしたか?」

「ええ、もちろん」


 水城は、暗に暗闇への恐怖を仄めかしている。どこまで知っているのか、底の知れないババアだ。

 けれど正直、ここまでの道のりは、私にとって少々厳しいものがある。

 誰か運んでくれる人間でもいればいいのだけれど。


「聞きたいことというのは、特別警備部門についてです」


 だろうと思った、と私は言わなかった。


「どうですか。これまでの管理職とはまた違うでしょう」

「ええ、けれど私は前任者のようにストレスで辞めたりはしませんわ。使命感をもって、刑務官の職務を全うする所存です」


 ぴくり、と水城の眉が動く。

 前任者の首席矯正処遇官は、特別警備隊筆頭からの突き上げのストレスで辞職した。正確には部署替えかしら。

 まぁどっちでもいい、私の出世のほうが重要だ。


「甚だ難儀な役職であることは言を俟たないでしょう。どうでしょう。これからの展望は?」

「引き続き努力を続けますわ。これからと同じように」


 正直な感想を告げる。

 すると水城は、少しだけ失望の色を覗かせた。


「……なぜ太田部夏海を受け入れたか、分かりませんか」


 その問に、今度は私が眉根を寄せる。

 確かに、水城所長は青藍島出身者を嫌っている。であれば、最初からプリズンに入れなければいい。外部組織だからと言っても、その程度の力は持っているはず。

 一体どういう意味なのか。

 私は、ようやく理解した。


「私は部下の扱いを覚えるよう、人心掌握を命じました」


 派遣元の警備会社は、とある北九州の名家の息がかかっていた。けれどその旧家は数年前に没落し、中央への求心力を失っていた。

 だからなんの力もなく口を出す八馬警備隊筆頭を、水城は厄介がっている。

 できれば穏便に、その権限を失わせたい。


「決して新人研修を任せたわけではありません」


 つまり太田部夏海の使い道は、最初から切り捨てること。


「あなたなら上手くやると考えていましたが……どうやら思い違いだったようですね」


 そうした『正解の行動』をすることで特別警備隊筆頭に取り入り、最終的には八馬とすげ変わるよう、私自身が力を持つこと。

 それが、水城の望みだった。


「……冗談じゃないわ」


 冗談じゃないわ。


「私は夕顔葉月よ。阿諛追従あゆついしょうで権力を握り、それで満足するような人間ではない」


 そんなくだらない方法では、あの連中を完全に消すことができない。

 私は、私に必要のない存在に罰を与える。舐めた態度をとる相手には、徹底的な制裁を与える。

 そして有能な駒と、有り余る権力を手に入れる。


「私は、私の方法をもって敵を排除するわ」


 それは事実。けれど言う必要のないことまで告げた。

 頭に血が昇ったのかもしれない。なぜ? 自分にも分からなかった。普段は努めて冷静であろうとしているはずなのに。

 しかし水城は気色ばむ様子もなく、不敵に笑ってみせた。


「ならば、どうすると?」

「どうぞご安心を」


 冷静さを取り戻して踵を返し、3つの足で所長室を後にする。


「私の手段をとった上で、あなたの望みを叶えてみせましょう……水城所長?」


    □


 久しぶりに両親と会ったのは、家の近くにあるファミレスだった。

 あ、家というのは私が幼い頃に住んでいたところのことで、両親に青藍島へ行けと言われるまで、短い間だけど住んでいたところのこと。


 数年ぶりに会う両親は、思っていたよりずっと老けていた。身体が細くなって、髪の毛が薄くなって白くなって、頭の中のふたりより小さかった。

 今の私なら、右手でぺちゃんこにできると思う。


「久しぶり、だね」


 そう言うと、ふたりは穏やかに笑った。

 すごく昔、一度だけ見たことのある顔だった。私はふと心が暖かくなった。


 すると身の上話をはじめた。

 祖父母が危篤とか、会社がリストラされたとか、税金が高いとか、役所の対応がよくないとか、隣人が嫌いとか……これまですごく大変だったという話だった。

 これまでの私のことは、何も尋ねられなかった。

 その後、月にいくら送れるか、尋ねてきた。


「私、もうお金は送れない……ごめんなさい」


 そう言うと、今度はとても大きな声で怒鳴ってきた。


 ――お前には家族の情がないのか、薄情、人間じゃない。


 手が震えていた。

 人間がこんな顔になるのか知らなくて、すごく怖くなった。


 ――親をなんだと思っているんだ、そんな風に育てたつもりはない、家族を裏切るなんて、誰かに洗脳されてるのか。


 心臓がバクバクして、変な感じだった。初体験の時も、ブートキャンプで2メートルを超える男にパンチされた時も、こんな風にはならなかった。

 注文したご飯が置かれる。

 デラックスハンバーグ&グリルチキンセットご飯大盛り。すごくお腹を空かせてきたから、思い切り食べたかった。


 ――お前は馬鹿だからすぐ騙される、頭が悪い、低学歴だからそういうことになる。


 なのに、ぜんぜん喉を通らない。胃の上くらいに大きな岩が詰まったような、むかし玉ねぎを丸呑みした時の感覚に似ていた。

 フォークが上手に持てなくて、自分がどこに座っているか分からなくなる。

 頭が痺れて、視界が狭くなっていく。


 ――低学歴が口答えするな、お前は自分たちの言うことを聞いていればいい、余計なことをするな。


 あの人が言ってたみたいに。

 だからお腹いっぱいになったら、きっと言い返せるのに。


 ――お前は騙されてる、すぐに今の仕事を辞めろ、帰ってこい、実家に住め、こっちで働け、まともな人間になれ。


 すぐにでも、決別したいのに。


 ――家族が、家族が、家族が。


「わた、し」


 ――低学歴、低学歴、低学歴。


「私は――」


 この馬鹿野郎って、言ってやりたいのに――


「すみません、失礼します」


 すると、唐突に。

 スーツを着た女の人が、私の隣に座った。


「遅れて申し訳ありません。わたくし、太田部夏海の上司でございます」


 両親は誰だ、なんで人を呼んだと尋ねた。私も人を呼んだつもりがなかったので驚いた。

 髪を丁寧に結い上げていて、首の角度が深い。真っ黒な髪で、小柄で、それが大人しそうな印象を与えたと思う。

 なので親はまくし立てた。


「その前に……録音の許可を頂きたく存じます。ご了承ください」


 そう言ってから、お姉さんは今回の非礼を侘びた。そして自分は冷静な話し合いを進める第三者であると告げた。

 両親はすっかりヒートアップしていた。


 ――第三者なんて必要ない、これは家族の問題だ、他人が口を挟むな、そんな権利ない。


「重ねて申し上げます。何卒ご寛恕頂きたく存じます」


 ――まともな理由を言え、理由を言え、理由を言え、言えないのなら頭が悪い、低能だ、低学歴だからそうなる。


「申し訳ございません……ひとつご質問がございます」


 ――低学歴が口を出すな、馬鹿と喋る義理はない、派遣社員の分際で。


「夏海さんの現職場への連絡先を、どのように手に入れたのですか?」


 ――会社から電話をもらった、家族だから当然だ、向こうは話がわかる、それなのにお前は。


 そう、両親が言葉を継ごうとしたところで。


「……ははっ」


 人格が変わったように、お姉さんは目を見開いた。


「あはははははっ!! こんな阿呆に自ら連絡入れちゃうなんて、詰めが甘いわねぇ!」


 私も両親も、驚いて何も言えなかった。

 周囲のお客さんすら、こちらを見ていた。

 何を笑ってる、低学歴のくせに我々を笑うな、と両親が言う。


「はあっ、大学名お教えいただいても? おやぁ、同郷じゃありませんか。しかもふたりは学士でいらっしゃる。じゃあその理論で言うと、私に権利がありますわねぇ? 低学歴が口を挟むなと言う権利がねぇ!」


 お姉さんは……夕顔さんは、死ぬほど楽しそうに笑う。

 そんなことはどうでもいい、家族の話に口を出すのはどうなんだ、家族はお互いに扶養する義務がある、法律上親と子が絶縁することはできない、と両親は話を変える。


「低学歴のくせに口答え?」


 夕顔さんは両親との力関係を作り上げ、簡単に上へと立っていた。


「ふふっ、なら答えてあげましょうねぇ? 民法では確かに直系血縁者の相互扶養義務を認めているけれど、社会的地位および収入に相応する生活の上で余力がある場合のみ、扶養することが義務付けられているだけよ? 新米の警備隊に、そんな余裕あるはずがないじゃない? それくらい高卒でも理解できるのだけれど、自称高学歴様には難しい話だったかしらぁ?」


 そんなことも知らないの? というように、私の両親を心の底から見下して、愉快そうに笑っている。


「どうしても納得できないのなら、家庭裁判所にお願いしたらどうかしら? そんなことをしたら、あーはははっ! 逆に保護命令を申し立てられて、違反したら罰金まで取られちゃうでしょうけどねぇ!!」


 言ってることは最低なのに。

 その横顔が、私にはとても綺麗に見えた。


「私は夕顔葉月よ! 貴様らのような阿呆が、この私と対等に会話できるなんて思わないことねぇ! あははははっ!!」


 もう一度高笑いしてから、私の肩を掴む。


「もう用はないわ、行くわよ」


 促されて、歩きだす。

 私は、一度だけ振り返った。

 どんな顔をしていたかは分からなかったけれど。最初に見たときよりも、両親はずっと小さく見えた。


 こうして私は家族を捨て、一人になった。


    ◆


 車を走らせながら、ようやく私は編み込んだ髪をほどく。

 免許を取って以来、初めての運転だった。よくよく考えれば、私は車が嫌いなのだ。自分を轢いたものを好きになるはずがない。


 それにしても、簡単なパターンで助かった。

 連中は「家族だから」「周りは自分より頭が悪い」で世界が回っているタイプ。

太田部の発言と、最初に電話を受け取った時の物言いで、大体分かった。

 この子が異様に進学にこだわった理由や、前回の電話で弁護士の名前を出すと簡単に引き下がったところで。

 力の強いものに弱い。典型的な権威主義者で、日和見主義。

 親を振りかざすのも、親が子より力を持っていると思いこんでいる証拠。

 私と血の繋がったゴミとは違うけれど、コツさえ掴めば簡単に御することができる。

 まぁ弁護士が出てきたところで、搾取の証明は青藍島とやらに残っているのだから、上手く使えば片付けられるのだろうけれど。


 私はボイスレコーダーを一瞥する。

 ともかく、必要なものは手に入った。プリズンの情報漏洩はご法度。このボイスレコーダーで圧力をかければ、八馬は簡単に排除できる。加えて、派遣元に対しても有利なポジションを取れるだろう。

 完全に切りはしない。

 なぜならこれは、水城への牽制になるのだから。


「………………」


 太田部は、ずっと震えていた。

 何も口にせず、助手席で俯いている。

 その表情は伺えない。運転しているのだから、当然だけれど。


 自分にもこんな時があったのだろうか。

 一瞬だけ、あったのかもしれない。自ら家族という存在を切り捨て、一人になったと実感した瞬間。

 開放感と同時に訪れた、刹那のような時間だけ。


「なんで」


 車はのろのろと、法定速度以下で進む。

 行きに飛ばしてきた分、帰りくらいはゆっくりと走りたい。速いのは嫌いだし。


「なんで来てくれたん、ですか」


 やっとのことで振り絞った言葉が、それだった。


「言わなかったかしら? 池を作るって」


 赤信号で停止してから、私は言う。


「大きな岩を運ぶのに人手が必要でしょう、夏海」


 息を呑む音がする。

 青信号に変わって、たっぷりとEVモーターが回転するのを待ってから。


「私」


 彼女は詰まったような声で、ようやく言う。


「私……お姉さんのためなら、命を捨てられるわ」


 そちらに目を向けず、私は頬杖のままため息をつく。


「なら敬語を使いなさい、敬語を」


    ◆


 私はビクっと身体を痙攣させながら、唐突に目を覚ました。


「起きましたか、葉月さん」

「夏海? ……ああ、眠ってたのね」


 所長室から部屋までの廊下を、私はお姫様抱っこのような態勢で運ばれていた。

 昔のことを思い出していたら、うつらうつらしていたらしい。


「車で事故った時の夢を見たわ……」

「ああ、あの帰り道に葉月さんが電柱に正面からぶつかって、ボンネットひしゃげさせた時ですね」

「つくづく自動車というものが嫌いよ、私は……」


 仕事は逆茂木が変わってくれたとのこと。

 とは言っても書類仕事ができるわけじゃないので、部屋の掃除をしてくれているだけだろうけれど。


「ここのところお疲れでしたから、今日くらい眠ったほうがいいですよ」

「昨日も今日も、大して変わらないでしょうに」

「えっ、覚えてないんですか?」


 夏海は素っ頓狂な声を上げた。


「今日、葉月さんの誕生日ですよ」


 朝見たカレンダーを、ぼんやりと思い出す。そういえばそうだったかもしれない。


「もう歳をとって嬉しい年齢じゃないわ」

「いい歳ですしね」

「首輪をつけてないこと、幸運に思いなさい」

「だから無理しちゃいけないってことですよ」

「口が達者になったわね……」

「そりゃ、私は葉月さんの足ですから」


 私は、たっぷり時間をかけてから声を上げた。


「ああ、あのグミって誕生日プレゼント?」

「いま気づいたんですか……!?」

「シンプルな包装の今どきなグミだと思っていたわ……」

「特別警備隊全員で作ったんですよ……基本的には伏見川がやってくれましたけど」


 その後、夏海の両親から私の元へ連絡が来たことはない。


「好きな花の形を模したんです。なーんだ?」

「夜顔でしょう?」

「さすがは葉月さん」

「一番好きな花ってわけでもないんだけどね」


 彼女のところへは分からない。

だとしても、もう問題はないだろう。


「作った本人に無理やり食べさせたということね」

「そうなりますね」

「私に食べさせてもらって嬉しかったでしょう?」

「死ぬほど嬉しかったです」

「あらそう」


 私たちは様々な問題を経て、いまの組織になった。

 誰かが何かを拾って、その何かがまた別のものを拾って、雪だるまのように大きく育っていく。


「私の部屋に戻ったらパーティってことね?」

「そこまでお気づきとは」

「本当は誰も入れたくないのよねぇ……」

「葉月さんの部屋が一番広いんですもの」


 気づくと、周りに誰かがいるようになる。

 私たちは、一人じゃなくなる。


「まさか、グミがプレゼントとはね」

「ヘア用品系はこだわりが強すぎて、葉月さんには渡せないって真城が」

「それにしても、もうちょっとマシなものを渡しなさい」


 それが不思議と、居心地は悪くない。


「お金以外はいらないって言ってませんでした?」

「そうだったかしら?」


 私は、たまたま夏海を拾っただけだけれど。


「後から言ったほうが、正しいことよ」


 悪い拾いものじゃなかったと、今では思う。

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