唐沢卓郎(15)

 大木の手が胸に触れるかと思った瞬間、「うわっ」と言う大木の叫び声と共に美紀の体に乗っていた重みが無くなっていた。


「大丈夫か?」


 体を起こされた美紀は卓郎の顔を見てまた泣き出してしまった。


「唐沢さん……」


 胸に顔をうずめて泣く美紀を卓郎は優しく抱きしめた。


「唐沢―っ」


 大木は卓郎に蹴られた右肩を押さえ、立ち上がって二人を睨み付けていた。卓郎も美紀を背後に庇いながら立ち上がり大木と対峙しする。


「お前何やってるのか分かっているのか? 犯罪だぞ」

「お前の口から犯罪なんて言葉が出てくるとは思わなかったよ、この人殺し野郎が」

「なっ……」


 人殺しと言う大木の言葉に卓郎は動揺した。それを見た大木は調子付き更に続けた。


「お前が神田祐介にした事は犯罪じゃないって言うのか? お前にいじめられたのが原因で引き篭もりになり施設で自殺したんだよな」

「黙れ……」


 唐沢は怒りに震えているが、大木の話を否定しない。美紀にはその事が衝撃だった。


「お前は人殺しなんだ。施設の人間に親切なのも罪から逃れたいだけの偽善者なんだ」

「黙れ!」


 卓郎は声を上げ大木に掴み掛かって行った。大木は避け切れず二人は芝生の上に倒れ込んだ。素人同士の喧嘩らしく、殴りあいではなく掴み合い、転げまわっていた。


「もうやめて! お願い」


 美紀が声を上げるが二人には届かない。どうすべきかと考えたその時。


「そこで何をやっているんだ!」


 男の声と同時に複数の警官がやってきた。二人は引き剥がされ、あっけなく喧嘩は終了した。三人は別々のパトカーに乗せられ警察署まで連行される。


 警察を呼んだのは卓郎だった。美紀は事情を説明し、卓郎は自分を助けてくれたのだと話した。その後病院で診断を受け、卓郎と共に自宅ハイツに帰って来た時には深夜になっていた。


 玄関先で帰ろうとする卓郎を、美紀は心細いのでと我侭を言い引き止めた。


「すみません。着替えたらコーヒーを淹れますね」

「ありがとう。ゆっくりで良いからシャワーも浴びてきていいぞ」

「ありがとうございます」


 美紀は着替えを持ち脱衣所に向った。そこで鏡を見て驚いた。涙で化粧が流れ、あちこち傷が付き酷い顔だった。今までこんな顔で人前に、それも卓郎の前に出ていたのかと思うと恥ずかしくていたたまれなくなった。


 美紀は温めのお湯で顔を洗った。綺麗になった顔を改めて見ると左の頬が赤く少し腫れている。


「うう……」


 大木にビンタを食らった時の恐怖が甦り、美紀はその場でしゃがみ込み泣き出した。


「大丈夫か?」


 美紀の泣き声を聞き、心配した卓郎が脱衣所の外から声を掛ける。


「唐沢さん……来て……」


 唐沢はうずくまる美紀の頭を抱きしめた。


「今日は帰らずにここにいるからもう寝ろ」

「すみません……」


 卓郎は美紀の肩を抱き、寝室まで連れて行き、ベッドに寝かせた。


「手を握ってくれませんか?」


 美紀がそう頼むと卓郎は何も言わずに両手で左手を握り締めた。


 美紀は自分の我侭で、卓郎に迷惑を掛けていると思うが今日は気持ちを抑え切れない。


 酷い目に遭ったけど今は唐沢さんが傍にいてくれる。この人が傍にいるだけでなんと心強いのだろうか。大木の言葉が信じられない。こんな優しい唐沢さんが人殺しなど考えられない。反論しなかったのも何か訳がある筈。


「じゃあ、リビングにいるから何かあったら呼んでくれ。遠慮しなくていいからな」

「あ、あの唐沢さん……」

「ん?」


 部屋から出て行こうとする卓郎を美紀は呼び止めた。今日このタイミングで聞かないと二度と聞けないと美紀は思った。


「あの時大木さんが言った事……嘘ですよね?」

「……」


 美紀は笑顔で大木の話を否定してくれる事を期待したが、卓郎は無言のままで返事をしない。


 卓郎が無言だった事で美紀は不安になってきた。


 卓郎は何も言わず部屋を出て行くと、すぐに一枚の紙と椅子を持って戻ってきた。


「これ、大木が持って来たものだろ?」


 卓郎は美紀に手に持った紙を差し出した。それは、確かに大木が持って来た物だった。


「ここに書かれている事は事実だ。だが、藤本には俺の口から伝えたい。聞いてくれるか?」

「はい。私で良ければ聞かせてください」


 卓郎の覚悟を決めた表情に美紀は素直に答えた。



 俺が神田祐介と初めて言葉を交わしたのは中学三年の春だった。


 勉強もスポーツも学年トップクラスの俺とは対照的に、祐介は何をやっても愚図でのろまな奴だった。出席簿順で同じ班になり行動を共にする事が増えると、祐介の存在は俺にとってストレスの元となった。


 祐介の所為で班の行動が遅くなる。


 祐介の所為で掃除の時間が長くなる。


 祐介の所為で先生から注意される。


 祐介の所為、祐介の所為、祐介の所為。


 あの頃の俺は事ある毎に祐介に責任を被せ、心の中で非難していた。


 そんなある日。俺と祐介は二人で組になり掃除をしていた。バケツに水を張り、床のしつこい汚れをたわしでこする作業だった。


 作業中に祐介は、不注意でバケツを引っくり返し、辺り一面水浸しにしてしまった。


「あ、ごめん卓郎君。僕がちゃんと拭くからごめんね」


 失敗を誤魔化そうと、俺の顔色を伺いながらへらへら笑う祐介に切れてしまった。


「お前、何笑ってるんだよ」

「え、あ、いや……」


 本気で切れた俺に祐介の笑顔は消え顔が引きつっていた。


「嘗めて床を綺麗にしろ」

「え……それは……」

「本当に悪いと思っていたら出来るだろ!」


 俺の剣幕に押され、祐介はひざまずき床に顔を近付けた。その瞬間俺は祐介の尻を蹴った。祐介は顔を床に打ちつけ、うつ伏せに倒れ込んだ。


 服を水浸しにし、泣いている祐介を見て俺は大笑いした。周りに同級生もいたが、同じように笑うだけで誰も止めなかった。おそらく俺と祐介のクラスでの地位が皆をそうさせたのだと思う。


 この日を境に祐介はクラスで苛められ続けた。


 物を隠す。机に落書きする。鞄にごみを詰める。格闘技の練習台にする。などさまざまな苛めに発展していった。


 もちろん俺も積極的に苛めていた。俺のストレスは苛めを重ねる毎に解消されていった。


 そんな日が続き、二学期の途中から祐介は学校にこなくなった。先生から引き篭もったと説明があったが、俺には罪悪感など微塵もなかった。


 祐介が悪いのだ。普通に行動出来ないから。あんな奴はいじめられて当たり前なのだ。


 俺の中ではそんな身勝手な理屈が自分を納得させるのに、十分な説得力を持っていた。


 数年後。大学生になった俺は、中学三年の同窓会に出席した。


 懐かしい友と再会し、俺は気分良く楽しんでいた。祐介が参加していない事など気付きもしなかった。俺が祐介の存在を思い出したのは一人の友人の言葉からだった。


「おい、知ってるか? 祐介死んだんだとよ」

「えっ? 祐介が死んだ? まだ二十そこそこなのに? 嘘だろ、なぜだ、病気でもしたのか?」

「あいつ中学時代からずっと引き篭もっていたの知ってるか? それで、家族に迷惑掛けるからって、最終生活保護施設に自分から入ったらしいんだ。でもそこでの生活に馴染めず自殺したらしいぜ」

「えっ……本当か?」


 その話は衝撃的だった。あいつはあれからずっと引き篭もりだったのか。それが原因で施設に入り自殺したなんて……。


 話を聞いて後味の悪さが残った。どう考えても俺の責任だ。大学生になった俺は、いじめられる方が悪いと言う身勝手な理屈からは卒業していた。


 俺の中で罪悪感が大きく膨らんだ。


 同窓会が終わっても、祐介に対する罪悪感は消えずに、俺の中に残っている。俺が殺したようなものだ。その思いは日に日に強くなっていった。

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