第18話
「おねーさん、用水路に落ちちゃうよ」
いつの間にか追いつかれ、八神の言うように用水路に落ちる手前で腕を引かれ、難を逃れた。
おかしい。
麻紀の感覚ではそんなに走ったつもりはない。
こんなところに用水路なんてあっただろうか。
周りを見渡すと、車道に戻るための道が右手に見えた。
麻紀は右に曲がらなくてはいけないところを、まっすぐ進んで田んぼに水を引くための用水路につっこむところだったのだ。
「ね。一人じゃ危ないから、大丈夫なところまでついて行かせて?」
麻紀が痛がらないように優しく引き戻しながら、安心させるように八神はにこりと笑う。
大丈夫なところってどこだ、と思った麻紀だったが、にこにこと笑顔を崩さない八神に有無を言わせない雰囲気を悟って頷いた。
わーい、と子供のようなことを言う八神に思わず馬鹿なのか、と言いそうになったが麻紀はぐっとこらえた。
車道に出てからも八神はついて来た。
加えてずっとしゃべっている。
麻紀が相槌を打とうが打たまいが、ずっとしゃべっているのだ。
そして麻紀がどの道を通ろうとも必ず車道側を歩いている。
麻紀は少しむかついた。
「あの、いつまでついて来るんですか」
「んー、大丈夫なところまで」
「大丈夫って何が」
「おねーさんが」
「だから、」
「おねーさんが怖いこと考えなくなるまで」
麻紀の言葉を遮り、急に立ち止まった八神の顔は笑っているが、目が笑っていなかった。
まるで麻紀の後ろにいる何かを威圧しているようだと感じた。
「それと僕の名前はあの、ではありません」
また歩き始めた八神の言葉に小学生か、とつっこみたくなるのをこらえて、麻紀もまた歩き始めた。
麻紀は相手に聞こえないようにため息をついて断りを入れる。
「八神さん、私はもう大丈夫です」
「本当に?」
「本当です」
「じゃあもう、帰るまで怖いこと考えたりしない?」
「しません」
「寝る前も?」
「……しません」
何故見透かしたようなことを言うのか、この人は一体何なんだ。
麻紀がためらいがちに頷いて見せるのを八神は真っすぐ見つめた。
その射貫くような目に、麻紀は背筋に寒気が走った。
しかしすぐににこにこと笑って、八神は東屋に腰を下ろした。
いつの間にかこんなところまで戻ってきていた。
「じゃあおねーさんの言葉を信用することにします。僕とはここでお別れね」
子供のように手を振って見せる八神に、麻紀は眉をひそめた。
今までしつこくついてきたくせに、案外あっさりと引くことが腹立たしかった。
何より自分が子ども扱いされているようで、頭にきた。
「あの、私おねーさんって名前じゃないですけど」
苛立たし気な麻紀の言葉に、首を傾げた八神は肩を竦めた。
「だって僕、おねーさんの名前知らないよ」
そこで麻紀ははっとした。
自分の方は名乗っていなかったことに、今気がついたのだ。
ばつの悪そうな顔をする麻紀を、八神はさらに首を傾げて見る。
麻紀は殴ってやりたくなる気持ちをなんとか抑えた。
「麻紀です。鶴岡麻紀!」
「じゃあ鶴岡さん、生まれは何月?」
「はい……?」
怒鳴るようにして名乗った麻紀を見て、にこにこしながら笑っておかしなことを尋ねる八神はのほほんとしている。
「五月、ですけど……」
「そうなんだ。ゴールデンウイーク辺り?」
「いえ二十日です」
「へぇー」
聞いておいて間の抜けた返事をする八神を、麻紀は眉間にしわを寄せながらいぶかしげに見る。
「気を付けて帰ってね、鶴岡さん」
今度はさっさと帰れとでも言いたげに、麻紀を急かして再び手を振る八神に、一周まわって呆れた麻紀は別れの挨拶もそこそこに、踵を返して帰路についた。
日が落ちかけた空から、大きな鳥が降りてくる羽音が思いの外近くから聞こえ、麻紀は肩を震わせると足早に家路を急いだ。
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