第一話 逃亡(二)
洞穴を進むと這い出るので精いっぱいな出口が見えてきた。出口の先は開けていて波の音が聞こえてくる。
そっと外の様子を窺ったが、静まり返っていて人影も足跡も無い。
「大丈夫そうだ。立珂。飛ぶ準備するぞ。声は出すなよ」
立珂は不安そうな顔で力なく小さく頷いた。抱きしめ慰めてやりたいが、今はそれをする余裕は無い。
薄珂は服を脱ぎ、立珂は羽を体に巻き付け結ぶ。脱いだ服を立珂に被せると、いつも通りに立珂は皮袋に詰め込まれた状態になった。
薄珂は公佗児になるため両腕を広げたが、その時、銃声がして薄珂の耳たぶに鋭い痛みが走った。
「いたぞ! こっちだ! 銃全部持ってこい!」
男の大声に振り返ると、そこには銃を持った数名の男がいた。
牙を剥きだしにした大きな狼もいるが、野生にしては異常に大きい。おそらく狼獣人だろう。
「鳥じゃ肉食には勝てねえだろ。さあこっちに来い。飛べば撃つ」
勝利を確信しているのだろう、男たちはにやにやと笑って悠長に構えている。
狼獣人は爪をぎらつかせ、何かすれば一足飛びに噛みついてくるだろうが薄珂は冷静だった。
(狙いは俺を生け捕りにすることだ。なら俺は絶対に殺されない!)
薄珂は男たちが余裕ぶっている間に立珂を抱いて走り出し、人間の姿のまま立珂と共に崖下へと飛び降りた。
「なんだと⁉ 撃て! いや、撃つな! 殺すな!」
薄珂の考えた通り、男たちは撃って来なかった。空に出てしまえば薄珂の勝ちだ。
落下しながら公佗児へ姿を変え、立珂を空中で掴むとそのまま海上へ飛び立った。
あっという間に男たちの声は聞こえなくなったが薄珂は後ろ髪を引かれていた。
(奴らが追ってきたなら父さんは……)
薄立が無事に逃げたか身を隠しているかは分からない。だが連中がこのまま帰るとも思えない。他にも公佗児がいないか探し尽くすだろう。
それでも薄珂は立珂だけを連れ、家族三人で暮らした森を後にした。
*
薄珂は薄立の教え通りに北西へ飛び続けた。
見えるのは水平線だけで陸地は無い。普通なら恐れ慌てるだろうがこれも避難訓練で経験済みだった。
(まずはいつもの岩場に降りよう。あそこの海流じゃ船はそうそう近付けない)
海上を何日も飛び続ける体力はない。どうしても何処かに降り立つ必要があり、そのための岩場を薄立に覚え込まされている。
恐怖など何もなく飛び続けたが、ふいに黒い雲が空を埋め尽くし雷の音がした。
(雨⁉ 何でこんな時に! これじゃあ雲の無い所に出るしかない!)
薄珂は嘴を強く軋ませた。自分が濡れるのは構わないが問題は立珂だ。
羽が水分を吸うと劇的に重くなり、飛ぶどころか掴み続ける事すら難しくなってしまう。
薄珂は意を決して、きぃ、きぃ、きぃ、と三回鳴いた。
これは立珂と決めた合図で、意味は『高速で飛ぶから顔を隠せ』だ。
顔を出せば風で叩かれ呼吸ができない。だから顔を出してはいけないぞ――という連絡だ。
薄珂は羽に力を込めて全力で振り抜いた。大きな体はぐんぐん風を貫いていく。
飛んで飛んで飛び続け、ようやく陸地が見えた。
だがおかしい。見えたのは大きな陸地で、薄立が教えてくれた小島ではない。
(しまった! 進路を間違えた!)
目印の無い空中では太陽の位置を頼りに方角を確認するが、高速で飛んだことで位置関係の認識が変わっていたようだった。
(……仕方ない。今は降りるのが優先だ)
薄珂はきぃきぃきぃきぃきぃ、と五回鳴いた。これは『着陸する』という意味だ。
何とか辿り着いた陸地に立珂を置くと姿を人に変え、羽に隠れていた立珂の身体を引っ張った。ぽんっと笑顔が飛び出てくる。
「立珂! 大丈夫か! 怪我は無いか! 気分はどうだ⁉」
「へいき! 何ともないよ!」
立珂はぎゅうっと抱きしめてくれた。その温かさは薄珂を落ち着かせてくれるけれど、心無しか顔色は悪く見える。
「休もう。洞穴があると良――っ!」
びくっと薄珂の身体が揺れた。地震などではない。体の内側が掻きまわされているような感覚だ。激しい頭痛に襲われ、薄珂はべしゃりと浜辺に倒れ込む。
ひどく驚いたような顔をして、立珂は薄珂に抱き着いた。
「薄珂⁉ どうしたの⁉ 苦しいの⁉」
血液が沸騰するような感覚に襲われて視界が揺れた。腹の中で何かが破裂しているような感覚までしてくる。
(何、何だこれ……!)
伝う汗だけが冷たくて、その温度差に皮膚が総毛立つようだった。
異常な気持ち悪さに耐えていると、地響きのような重い足音が聞こえてきた。
(獣か……隠れないと……)
立珂を抱いて岩陰に行く――そう計画を立てたけれど身体は動いてくれない。
それでも足音はどんどん近付いてきて、ついに足音が目の前にやって来た。
現れたのは想像だにしない大きさの獣だった。公佗児になった薄珂よりもはるかに大きい。
「象⁉ なんでこんな所に!」
見下ろしてきたのは巨大な象だった。
象はゆっくり目を瞑り、しばらくじっとしていた。動かなくなった象を見て立珂は首を傾げたが、この行動が何なのか薄珂はすぐに分かった。
(こいつまさか)
獣人が獣から人間になる時はほんの少し時間がかかる。身体が大きければ大きいほどその時間は長くなる。
象はゆるゆると溶けるように身体が小さくなり、現れたのは人間の男だった。
「象獣人……!」
「おうよ」
男の肌は浅黒く傷だらけだった。分厚い革で作られた防具は年季が入っていて戦闘慣れしている様子がうかがえる。
(こんな奴が仲間にいたのか。象は数が揃えば陸最強。他にもいたら終わりだ)
薄珂は痛みを奥歯で噛み殺し、立珂を腕の中に押し込んだ。象獣人の男はにたりと悪どい笑みを浮かべている。
いつもなら飛んで逃げるが内臓は暴れ続け、脳は金切り声を上げている。
薄珂はそれに耐え切れず、立珂を抱きしめたまま再び浜辺に倒れ込んだ。
(立珂を守るんだ……立珂、を……)
象獣人の男はぬうっと手を伸ばし、立珂ごと薄珂を軽々と持ち上げた。
逃げなければと思っているのに頭痛は収まらず、立珂を抱きしめたまま薄珂の意識は途切れた。
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